誰を捜しているのか

2014年4月20日復活節主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子の所へ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
 
 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

ヨハネによる福音書20章1節〜18節

▼15節。
 『イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。
だれを捜しているのか。」』
 この箇所を中心聖句として読んでまいります。
 『婦人よ』、この言葉、呼びかけは、何を意味するでしょうか。日本語でしたならば、随分の幅があります。「女よ」、「お女中」、「娘さん」、「おばさん」、「お姉さん」、「お姉ちゃん」全部婦人であります。全部女性を表す表現でありますが、同じではありません。はっきりと使い分けがあります。明確な境界線はありませんが、別々の者を指すのであります。また、この呼び掛け方によって、先方だけではなく、呼び掛けた者が特定されます。
 ご婦人に向かって、「お姉ちゃん」と呼び掛けたら、これはもう、フーテンの寅さんであります。

▼『婦人よ』は、このうちの、どれに当たるのでしょうか。どれにも当たりません。ここで、ギリシャ語原点はなどと言っても、殆ど意味はありません。貴婦人を指す特別の言葉はありますが、ここでは、ごく普通に、女性を表す言葉であります。
 つまり、新約聖書には、日本語のような使い訳はありません。
 肝心なことは、16節にあるように、『マリア』とは呼び掛けなかったという点であります。
 だから、マリアは、それがイエス様だとは分からなかったのであります。

▼このことはまた後で問題にすることとして、次を読みます。
 『なぜ泣いているのか』
 イエス様は勿論、その理由をご存じであります。にも拘わらず、このように問うておられます。
 『なぜ泣いているのか』
 これは、もう既に、「泣かなくても良い」「泣くな」という意味であります。

▼さて肝心なのは、『だれを捜しているのか』であります。誰を捜しているのか、イエス様を捜していることは、分かりきっています。しかし、このように問われます。
 マリアは『園丁だと思って』答えました。
 『「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」』
 マリアはイエス様の遺体を捜していました。ここに、この箇所の力点があります。マリアはイエス様の遺体を捜しているのであります。死んでしまったイエス様を捜しているのであります。

▼少し脱線しても、ここは詳しくお話ししなければならないところであります。
 私たちは聖書を読みます。聖書を読んで、聖書に基づいて礼拝を守ります。しかし、まるで、イエス様のお言葉を、遺書のようにして読んでいるのではないかということであります。
 私たちが聖書を通じて与えられているのは、十字架に架けられた方の言葉であります。しかし、同時に、十字架の死から甦られた方の、お言葉であります。
 私たちは何故、ユダヤ教の安息日・土曜日ではなく日曜日に礼拝を守るのか、それは、日曜日が、復活の日だからであります。

▼日曜日の礼拝を守っていても、もし、それが、イエス様のお言葉を、遺書のようにして読み、マリアが捜したように、死んでしまったイエス様を捜しているのならば、復活のイエス様のお言葉は、聞こえて来ないでありましょう。
 
▼16節。
 『イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、
ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。』
 この応答は、13節の応答とは、全く違う応答であります。
 イエス様は、「マリア」と呼び掛けられました。普段、このように読んでいたのでありましょう。
 そして、マリアは「ラボニ」と答えました。普段、このように読んでいたのでありましょう。
 復活のイエス様が呼び掛ける声を聞き、これに答えたのであります。顔を向き合わせたのであります。

▼『彼女は振り向いて』という表現は重要であります。
 聖書のいろんな箇所で、このことが問題になります。今、聖書研究祈祷会で学んでいるルカ福音書に例をとるならば、7章44節。
 『そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。
わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、
この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。』
 8章45節。
 『この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、
直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた
理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。』
 この二つの箇所について、詳しく解説する暇はありませんが、何れも、イエス様と向き合うこと、その前に自分の正直な姿をさらすことが、肝心なことであります。
 イエス様と真っ正面から向き合って、その言葉を受け止め、その結果救われたのであります。

▼さて、ルカ福音書7章を引用したので、ヨハネ20章11節に戻ります。
 『マリアは墓の外に立って泣いていた。
泣きながら身をかがめて墓の中を見ると』
 以前の説教でお話しした記憶があります。
 何とも、文学的な表現であります。無駄な描写も形容も何もないのに、その情景が伝わってまいります。
 20章1節も引用します。
 『週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。
そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。』
 ここも無駄のない、しかし必要なことの全てが語られている表現であります。
 
▼『週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに』とありますのは、他の誰よりも早くということであり、痛々しい遺体の様子を、未だ他の者が目にしない内にということであります。
 そのような思いを、マグダラのマリアはイエス様に対して抱いていたのであります。これは、深い尊敬の念であり、家族のような深い愛情であります。
 勿論、そのことで、マグダラのマリアはイエス様の妻であったということにはなりません。家族のような深い愛情と申しましたが、むしろ、それ以上の深い思いであります。家族やまして愛人に準えることなど出来ない程の、深い真実の愛情なのであります。

▼マリアは、この時点では泣いていません。もしかすると、夜の間中、泣き続けていたのかも知れませんが、この時点では泣いていません。
 泣いている場合ではなく、マリアにはなすべきことがありました。イエス様が十字架に架けられ、息を引き取られたのは金曜日の午後3時であります。日没と共に、安息日になりますから、時間がありません。十分に遺体の手当をすることは出来ませんでした。
 19章40節以下に記されていますように、この埋葬は仮のものだったのであります。
 イエス様の尊厳を守るのには十分ではなかったのであります。

▼そして、11節。
 『マリアは墓の外に立って泣いていた。
泣きながら身をかがめて墓の中を見ると』
 ここでは、泣いていたことが強調されています。
 イエス様の死だけではなく、その死体が消えたこと、それが涙の理由であります。
 こらえていた涙を抑えきれなくなったのかも知れません。
 泣きながら墓を覗いて見る、実にリアルな表現であります。

▼東日本大震災の直後、愛する者を失った人々には、涙さえありませんでした。ニュースでこのような場面を見た外国の人は、奇異に思い、また、日本人の我慢強さ、逆境の中でも踏ん張り、そして、助け合う強さに感銘を受けたそうであります。その通りかも知れません。
 しかし、涙がなかったのではありません。涙さえもが、奪われたのであります。そして、少し時間が経ってから、一度涙が溢れ出すと、今度は泣き止まないのであります。だからこそ、当初泣けなかったのであります。

▼『赤毛のアン』にそんな場面があります。孤児であるアンにとって父親以上の存在であるマシューが亡くなった時、アンは涙を流すことができませんでした。そして、ヨハネ福音書11章のマリアの姉マルタのように、かいがいしく働き続けます。弔問客が、マシューの思い出話を始めると、強い違和感むしろ拒否感を覚えます。涙を流さないことで、無意識のうちにも、マシューの死そのものを否定していたのであります。
 葬儀が終わり、疲れ果てて一瞬眠ってしまいます。その後、2階の部屋から居間に下りようとした時に、ふと、マシューの思い出が頭をよぎります。その瞬間にアンは涙を流し、号泣します。泣き止むことができません。
 この場面のマリアも、そんな一夜を過ごしたのではないでしょうか。

▼14節。
 『こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。
しかし、それがイエスだとは分からなかった。』
 先程、振り返ってイエス様に向き合うことこそが、救いへの道だということをお話ししました。
 しかし、マリアは振り向いてイエス様を見ても、『それがイエスだとは分からなかった』とあります。
 何故イエス様が分からなかったのか、それは、マリアが見たものは、唯の地上のイエスではないからであります。マリアが見たものは、復活のイエス様であります。
 地上のイエス様を捜し続けても、見つかりません。
 復活のイエス様を捜さなくてはならないのであります。復活のイエス様の声を聞かなくてはならないのであります。

▼もう一度16節。
 『イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、
ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。』
 ここで、イエス様は、敢えて地上のイエス様の声で語りかけられました。そうして初めて、マリアはイエス様に気付きました。そうしなければ気が付かなかったのであります。

▼17節。
 『イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。
まだ父のもとへ上っていないのだから。』
 『まだ父のもとへ上っていない』、復活の出来事も、昇天があって初めて完成するのでしょうか。ここだけでは、良く分かりません。
 しかし、はっきりとしています。
 『わたしにすがりつくのはよしなさい』
 マリアがすがりこうとしたのは、地上のイエス様であります。
 地上のイエス様にすがりついてはならないのであります。拘泥してはならないのであります。
 このことは、過去2回の礼拝時の聖書箇所と同じではないでしょうか。

▼マルコ福音書8章32節以下。
 『すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
33:イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、
 人間のことを思っている。」』
 十字架を預言されたイエス様を、ペトロはいさめました。勿論、イエス様を愛する思いからであります。しかし、ペトロのしたことは、十字架の否定であり、ひいては復活の否定なのであります。
 ここでも、イエス様にすがりつくことは、十字架の否定であり、ひいては復活の否定なのであります。

▼17節の後半。
 【わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。
 『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」】
 復活のイエス様に出遭ったマリアには、使者としての役割が与えられます。マリアは、どの福音書を見ても、最初に復活のイエス様に出遭った人でありますが、同時に、最初にメッセージを託された人なのであります。

▼18節。
 『マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、
  「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。』
 『わたしは主を見ました』これが、一番のメッセージであります。
 復活の主に出遭った者の、福音の言葉であります。

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