あなたはメシア、生ける神の子です

2014年4月27日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが、地上で解くことは、天井でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

マタイによる福音書16章13節〜20節

▼この聖書を箇所で、10人の牧師が説教したとします。10人中8・9人までは、同じことを、強調すると思います。私の体験では、5~6人の説教を聞いて、これに触れなかったのは、1人だけ、1回だけでした。私自身も、既に10回に近い説教をしていますが、これに触れなかったことは、一度もありません。

▼先ず、そのことをお話し致します。13節を読みます。
 『イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、
「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった」。』
 『人々は、わたしを何と言っているか』ではなくて、『何者だと言っているか』と聞いておられます。
 人々の評判を気にしているのではありません。既に解答が用意されていて、弟子達に正解を促しているのであります。試験、口頭試問のようなものであります。
 弟子たちが答えました。14節。
 『『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」』
弟子たちは、丁度試験に答える時のように、過不足がないように答えを上げています。一般論を網羅するというのは、試験の解答としては正しいかも知れませんが、イエス様の求めておられたのは、そのような答えではありません。

▼15節。
 『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」』 
 他の人がどのように見るかではなく、テレビや新聞ではどのように評論されているかではなく、『あなたがたは』どう思うかと問われました。一般論ではなく、弟子たちのもっと主体的な決断を伴った答えを求められたのであります。
 最早、これは正解を答える問答ではありません。弟子たちの決断が促されているのであります。信仰の告白が求められているのであります。

▼16節。
『シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。』
 弟子たちを代表してペトロが答えました。これは単なる解答ではありません。イエス様に対する信仰の告白であります。
 『「あなたはメシアです」』「イエスはキリストである」最も簡潔な信仰告白であります。勿論、ではキリストとは誰かとなって、このキリストを知るためにはイザヤ書を初めとして聖書の全部を知らなければならないということになります。
 「イエスはメシア・キリストである」とは、聖書の全体を盛る程の信仰告白なのであります。

▼私たちにも、弟子たちの場合と同様に、『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか』というイエス様の問いが突きつけられています。そして、現代にもいろんな立場、いろんな思想から、いろんな答えを言う人があります。「イエスは人類の教師である」「イエスは革命家である」「イエスは体制と闘った殉教者である」その中には、「イエスは敗北した預言者である」というものさえあります。
 しかし、イエス様が私たちに求めておられる答えは一つであります。「ああ言う者もあります。こう言う者もあります。」では、答えにならないのであります。そして、その答えは、ペトロのそれなのであります。
 『「あなたこそメシア・キリストです」』

▼『「あなたこそメシア・キリストです」』この信仰告白に立つ者がキリスト者であり、この信仰告白の上に、教会が立つのであります。
 16章17節以下。
 『すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。
あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
18:わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に
わたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
19:わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、
天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』
 この部分はマルコ福音書にはありません。マタイによる福音書16章17節以下は、「この信仰告白の上に、教会が立つ」ということを分かり易く解説したものであると考えます。
 ローマカトリックの理解では、ペトロという人物、ペトロの人格の上に教会が建てられるということになりますが、そういうことではありません。ペトロが代表する教会のことであります。信仰告白のことであります。

▼先週の説教でも申しました。ペトロは弟子の代表であります。それは間違いありません。しかし、弟子の筆頭格であるとか、特別の資格・地位を持っているとかというような意味合いで申し上げているのではありません。
 ペトロは、弟子たち、ひいては人間の弱さを代表しいているのであり、人間の罪を代表しているのであり、そして、おそらくは罪を赦され、用いられる者の代表でもあります。

▼特に地方の小規模な教会ですと、○○さんの教会という言い方がなされます。その○○さんが、正に教会の代表格なのであります。
 諸奉仕も教会財政も、その人なしには成り立たない程であります。
 もし、その人が、弱さ、罪、悔い改めという点でも、自覚を持つならば、本当の意味で、教会の代表でありましょう。
 しかし、そうではなくて、自分がこの教会を背負って立っているなどと考えているとしたら、そうした人が代表格の教会は、極めて脆弱な教会であります。
 否、そんな教会は本当にキリストの教会でありましょうか。

▼あなたこそが、この教会の筆頭長老だと言う牧師がいるでしょうか。私は絶対に言いません。思ったとしても言いません。もしそんなことを言ったら、牧師はこの人と手をつないで、地獄への道案内をすることになるでしょう。

▼21節。今日の日課からははみ出します。
『このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、
祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に
復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。』
 これこそが、イエスをキリストと告白する者の群れ、即ち教会に与えられた秘儀であります。
十字架とは、当時の世界では敗北と汚辱との印、勿論死の印であります。弟子たちがメシア・キリスト、救い主として頼む方が、十字架の上に死すこと自体が、全くの蹉きでありますが、それが、そのことだけが、苦しみ悩む人々を救うことにつながると、主イエスは預言するのであります。

▼ ペトロと他の弟子たちはイエスを信じていても、それでも、未だ、彼の預言を真っ正面から受け止めることは出来ません。22~23節がその箇所であります。
 『すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
  「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
23:イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。
  あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』
 『あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』
 28節の『バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります』これも、『神のことを思わないで、人のことを思っている』ことであります。そこには情報があり、分析もありますが、主体的な決断はありません。単なる知識であって、信仰の事柄ではありません。

▼ イエス様の身の上を案じたペトロに対して、『サタンよ引き下がれ』とは、随分きつい表現であります。何故イエス様はこのようにおっしゃったのでありましょうか。
 ヨブ記を読めば分かりますが、サタンとはそもそもが、人の罪を数え上げ、裁く者との意味であります。ですから、ここでも、神であるイエスに裁かれるのではなく、彼の言動を裁く側に回ったペトロが、サタンよと言われるは、当然なのであります。
 イエス様の身の上を案じていると言えばその通りなのでありますが、ペトロは自分の物差しでイエス様を裁き、その行動を判断しているのであります。つまり、裁いているのであります。
常に申しますように、私たちは、神を裁く者になってはなりません。むしろ、神によって、裁かれる者であることを自覚していなくてはなりません。それが、信仰の出発点であります。
 まして、「復活は常識人には理解出来ないのが当たり前で、復活信仰に固守する限りは、教会はひとりよがり・独善を免れ得ない」などと言うのは、人間が聖書を裁くことであり、『サタンよ引き下がれ』と言われるべきことなのであります。

▼ この蹟きに充ちた言葉は、イエスを単なる教師、或は預言者として認識する者には、受け止められない言葉であります。何故なら、それは、人間の知識・理解を超えた言葉だからであります。唯、イエスをキリストと告白する者だけが、これを受け止めることが出来ます。何故なら、彼らはもはや単にイエスの思想に共感し同調しているのではないからです。彼の人格を・存在そのものを信じているから、信仰の対象にしているからであります。
まあ、簡単に言えば、もう理屈ではない。イエスそのものを信じているからであります。

▼20節に戻ります。
 『それから、イエスは、御自分がメシアであることを
  だれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。』
   私たちは福音書を読んで、しばしば同様の表現に出会います。イエス様は、その奇跡的な業を、或いは神秘的な教えを、誰にでも明らかにされようとはなさいません。大事な事柄になると、弟子たちだけにそれを示されます。時には、弟子たちの中でも限られた者だけに、秘密を授けられます。
 それはイエス様が、教えを出し惜しみしておられるというようなことではありません。福音書記者を初めとする弟子たちが、自分たちだけに特権が与えられていると威張っているというような話ではありません。
 そうではなくて、イエス様の十字架と復活は、信仰をもってイエス様に向かい合う者だけしか理解することが出来ない、受け止めることが出来ない神秘なのであります。
 信仰告白を持たない者には通じない神の言葉なのであります。
 逆に言いますと、イエス様の十字架と復活の神秘を、誰にでも理解出来る事柄に置き換えてはならないのであります。
「復活とは、文字通りに受け止めてはならない、人が抑圧を逃れて自分を取り戻すことだ」とか、「生き生きとした人生を取り戻すことだ」とかと言う人がありますが、それは間違いなのであります。
 イエス様の十字架と復活の神秘を、誰にでも理解出来る言葉に置き換えてはならないのであります。
 信仰をもって受け止めるべき、神秘的事柄なのであります。

▼ 24節以下は、そのことを言っているのだと思います。
 『それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、
  自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
25:自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
  わたしのために命を失う者は、それを得る。』
 自分の十字架を背負うとは、正に人生の課題を背負うことで、いろんな意味に解釈されるでしょうし、一人一人が、自分の十字架とは何かと問うことは、意味があるように思います。しかし、第一義的には、己の力を第一とし、ついには、神をも裁く者となった、この世界に対して、むしろ、裁かれる側、つまり、十字架の側に着く、このことが、言われていると考えます。
 そもそも、28節の『バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります』これこそが、イエス様を裁いているのであります。
 一人一人が、その十字架を背負って、裁く者ではなく、裁かれる者となり、ゴルゴダへの丘を黙々として上って行く、イエス様は、そのことを言っているのであります。そして、この十字架を背負って歩く者の群れが、即ち教会なのであります。

▼『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
  わたしのために命を失う者は、それを得る。』
教会はこの逆説の上に立っています。もし、復活信仰を初め、イエス様の教えを、現代の科学的合理的思惟に矛盾しないように作り替えたならば、もうそこには教会は存在しないのであります。教会は生命を失うのであります。

▼本日礼拝後に教会総会が開かれます。
 例年、その日の主日礼拝説教は、そのことに視点を置いて話します。今日のように聖書日課から外れることが普通であります。今日もそのつもりだったのですが、あまり教会総会云々には触れませんでした。
 ここで申しますと、とって付けたように聞こえるかも知れません。
 しかし、私としては、強く教会総会、教会形成、教会運営そのものを意識して、原稿を書きました。
 
▼その上でのことであります。
 教会も所詮は人間の集まりであります。いろんな人間の集まりであります。当然、具体的な事柄を巡って、いろいろな考え方があります。考え方が分かれます。まして、今日の教会は、取り分け、私たちの玉川教会は、いろいろな出自の違う信仰者の集まりであります。
 他の教会で育てられた人も少なくありません。礼拝の持ち方、牧師の働き、役員の働き、教会によって、必ずしも一致しません。

▼その間を上手く調整して、妥協案を探るという事柄もありますでしょうが、一番肝心なことはそれでは対応出来ません。
 時には、違いをはっきりとさせ、互いを尊重しながらも、進む道を別にするということさえあります。
 そうした時にこそ、今日のこの聖句だと考えます。
 違いをはっきりとさせることも、時に必要かも知れませんが、先ず、一致できること、むしろ、一致しなければならないことを、明確にすべきであります。 一致しなければならないことで一致出来ないならば、進む道を別にしなくてはなりません。

▼意見がいろいろに分かれる時にこそ、『「あなたこそメシア・キリストです」』この信仰告白に立たなくてはなりません。
 それを忘れて、様々な創意工夫で、洒落ではありませんが、相違を乗り切ろうなどと考えると、『サタン、引き下がれ。
  あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』
 そう言われてしまうでしょう。

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