イエスは良い羊飼い

2014年5月4日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

  イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。ー狼は羊を奪い、また追い散らす。ー彼は雇い人で羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのを同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これはわたしが父から受けた掟である。

ヨハネによる福音書10章7節〜18節

▼7節。
 『イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である』
『羊の門』は、エルサレムの城門の一つで『ベニヤミンの門』とも呼ばれます。
 羊が牧場の囲いの中に帰る時に潜る門、という意味であります。このことこそが、決定的な意味を持ちます。牧場とは、即ち、神の国のことであります。そこに入る門とは、即ち、神の国の入り口であります。そうしますと、自然、羊とは、救いを求める信仰者ということになります。
 その上で、『わたしは羊の門である』。つまり、誰もがイエス様を通って、初めて神の国に入ることが出来るのであります。

▼そのことは、念を押すように、9節で繰り返されています。
 『わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。
その人は、門を出入りして牧草を見つける。』
 ここでも、イエス様だけが救いへの道であるということ、そして、イエス様という門から入るならば、そこには、神の国があるということを、繰り返し強調しています。
 天国は一つ、そして、天国への入り口も一つなのであります。それがヨハネ福音書の考え方であります。
 
▼10章1~3節を読みます。
 『はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないで
ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である』
真の羊飼いは、一人イエス様だけであります。ペトロは門番であります。当然、牧師もまた門番であります。真の羊飼いは、一人イエス様だけであります。
もう一度16節。
 『わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。
その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。
こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる』
教会は閉じられているべきか、開かれているべきか、こう言う議論がありますが、初めから答えは出ています。囲い・檻は厳として存在します。囲い・檻そして門が無い教会はあり得ません。教会は、この世との垣根を持っています。
 それをどうしても否定して、教会に塀があってはならない、敷居があってはならないと言うのは、少なくとも、聖書の教えとは違います。
 しかし、この門は、囲い・檻の外に居て救いを求めている者には、常に開かれているのであります。

▼牧師は門番だと申しました。誰がこの檻に入ることが出来るのか、出来ないのか、決めるのは、門番ではありません。牧場主たる神様であります。それだけのことであります。
教会は救いを求めることのない者には閉じられているし、救いを求めている者には、常に開かれているのであります。

▼8節と10節には、何故、偽の羊飼い、更には、偽の門を警戒しなければならないかが記されています。
 8節。
 『わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。
しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった』
 ここに救いの道がある、ここに門がある、私がキリストだと言った偽キリストがいました。
 それは誰なのかとは、特定されていません。いろいろと想像することは出来ますし、具体的にその姿を描き出すことも出来るかも知れません。しかし、聖書で特定されていない者を、特定する必要はないようにも思います。
 特定しない方が、いろいろな時代、いろいろな場合に当て嵌めて考えることが出来ます。
 偽の羊飼いが現れたけれども、羊は、その後に従うことはありませんでした。これが肝心なことであります。

▼10節前半。
 『盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。』
 偽の羊飼いを、『盗人』と言い換えています。その具体的説明もあります。
 『盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするため』要するに、羊から奪うのであります。そのために、羊を飼っているのであります。

▼エゼキエル書34章は、ヨハネ10章を預言するものであります。
 両者を重ねて読む必要があります。時間の関係で、全部を読む琴は出来ませんので、やや恣意的になりますが、引用致します。
 34章2~3節。
 『災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。 34:03お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない』
 同じく6節。
 『わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。
  また、わたしの群れは地の全面に散らされ、
  だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。』
 
▼ヨハネ10章10節後半~11節は、その真逆であります。
 『わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
 11:わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる』
 良い羊飼は、奪うのではなく、与えるのであります。与えるものとは、知識とか、富とか地位とか、そういうものではありません。命であります。
 これが十字架を指し示していることは、説明するまでもありません。
 十字架に架けられた方だけが、人間のために命を捨てられた方だけが、本当の羊飼いであり、本当のキリストであります。
 その他に、キリストはいません。
 いろんな道があり、いろんな門があると言う人は、十字架の死は要らないと言っているのであります。つまり、十字架を否定しているのであります。

▼ここも、エゼキエル書34章と重なっています。11~12節。
 『見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。
  34:12牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、
  わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、
  すべての場所から救い出す。』

▼ややこしいですが、今度はヨハネ10章12~13節、ここでも、具体的な説明がなされています。これは、単なる比喩ではありません。むしろ、そのままに受け取るべきものでありましょう。
 12節。
 『羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、
羊を置き去りにして逃げる』
 『羊を置き去りにして逃げ』た羊飼いは、歴史上何十人も何百人も何千何万人もいます。軍人にも、政治家にも、王にも、そして宗教家にも。あまり具体的に言うと、憚られると言うよりも、下品になりますから、抑制して言いませんが、そんな人が少なくありません。
 国民や信者を犠牲にして、むしろ盾にして我が身を守った者が、少なくありません。
 そんな人は、真の王ではありません。まして、キリストではありません。羊飼いと呼ばれる資格はありません。

▼何故そんなことが出来たのか、結局、本当の意味で、自分の羊ではなかったのであります。単なる財産なのであります。
 真の羊飼いは、自分の羊を持っているのであります。そして、自分の牧場を持ち、当然、羊を守るべく柵や囲いを持っているのであります。
 柵も囲いも要らないと言う人は、本当に羊を持っているのでしょうか。そこが問題であります。

▼13節。
 『彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである』
 これも、比喩であります。しかし、単なる比喩に留まるものではありません。
 ここで、この雇い人つまり偽羊飼いを、偽預言者や偽牧師だと読み取ることも出来るかも知れませんが、そうしますと、肝心な点が弱くなってしまうと思います。
 一番強調されているのは、イエス様が羊飼いであり、私たちは、その羊だと言うことであります。

▼この逆がエゼキエル書34章8~10節であります。
 『わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、
  あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。
  34:09それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。
  34:10主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。
  わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。
  牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。
  わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。』

▼ヨハネ10章14~15節前半。
 『わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
15:それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである』
 この知っているという言葉は、ヨハネ文書の特徴的な言葉であります。単に、知識として知っているというような、軽い事柄ではありません。
 強い絆で結ばれているということであります。
 正に、教会員のことを、イエス様は、そのように思って下さるのであります。
 だからこそ、囲いは要らないとか、教会員だけが特別な存在だと考えるのは思い上がりだという人は、間違っているのであります。
 特別な関係なのであります。間違いなく特別なのであります。教会に連なる者は、神様の牧場にいる羊なのであります。
 それを否定することは、イエス様の特別の思い、『わたしは自分の羊を知って』いるということを否定するのであります。
 
▼15節の後半。
 『わたしは羊のために命を捨てる』
 以上のことを一言に要約するとこの言葉になるのであります。
 それ程の重さを持った言葉なのであります。

▼しかし、その一方で、16節前半。
 『わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない』
 牧場の外の羊には無関心で良いというのではありません。
 むしろ、『この囲いに入っていない』、本来なら、この囲いに入るべき羊が存在するのであります。
 これが伝道の契機であります。理由であります。囲いの中に連れて来なくてはならないのであります。
 囲いをなくすということではありません。
 囲いの中に連れて来なくてはならないのであります。
 そこが神様の牧場だからであります。そこが羊の居るべき場所だからであります。

▼牧場の外にも、そこで生活する人の、場があり、そこにも神様がおられる、確かにそうかも知れません。これは、預言者エゼキエル的発想かも知れません。

▼16節後半。
 『その羊もわたしの声を聞き分ける。
  こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる』
 これが伝道の契機であります。理由であります。囲いの中に連れて来なくてはならないのであります。
 この羊は、神の言葉を宣べ伝えるならば、その言葉を聞いてくれるのであります。

▼エゼキエル書34章13~15節。
 『わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。
  34:14わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。
  34:15わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。』
 
▼17~18節が、十字架と復活のことを言っているということは、間違いありません。
 十字架と復活こそが、イエス様の牧場を作るのであります。
 教会は、ここに立つのであります。
 教会は、イエス様の牧場であります。
 そして、牧師や役員は、羊飼いというよりも羊そのものであり、同時に、ペトロがそうであったように、この牧場の番人なのであります。

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