新しい掟に生きる

2014年5月11日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

ヨハネによる福音書13章31節〜35節

▼ヨハネ福音書らしい、特徴的な用語・表現が出てまいります。これを読み取るためには、その言葉・表現の独特の意味合いを探らなくてはなりません。なかなか困難なことではあります。
 そのための大きな手掛かりになるのが、文脈だろうと考えます。
 
▼大きく見れば、これは十字架を前にしての、弟子たちへの惜別説教の直前に語られています。むしろ、その一部かも知れません。
 もう少し、細かく見れば、これは、所謂洗足の教え、そして最後の晩餐から続いています。ペトロの否認もここに記されています。
 他の三つの福音書で言えば、十字架を前にした一連の出来事が記されています。これは、ヨハネ福音書も含めた四つの福音書で、概ね共通しています。ヨハネ福音書だけに弟子たちへの惜別説教が記され、その前置きのようにして、今日の箇所が置かれているのであります。
 分かり易くするために、大胆に言い切りますと、十字架の予告と弟子たちの裏切り、或いは躓きの文脈で、今日の箇所が存在するのであります。

▼随分省略してお話しているつもりですが、それでも面倒くさいことを言っているかも知れません。
 要は、31節以下を読む時には、十字架と弟子たちの裏切り、或いは躓きを重ねて読まなくてはならないということであります。

▼31節。
 『さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。
神も人の子によって栄光をお受けになった』
 『ユダが出て行くと』ということにも、特別の意味があるのかも知れません。しかし、この後に、ペトロの躓きが予告されるのでありますから、ユダが出て行って、罪・汚れが取り除かれ、純粋になった弟子たちに語られたという意味ではないと思います。
 ヨハネ福音書は、時ということに拘り厳密にしますので、これは、経緯を正確に説明しているということだと思います。
 『今や、人の子は栄光を受けた』
 十字架への道が定まったということであります。
 それこそ、未だ十字架の出来事は起きていませんが、既にその道は定まり、十字架の時が始まったということであります。
 つまり、これから起こる全てのことは、神の御旨に依るのであり、決して偶発的な出来事ではありません。
 十字架は起こらなければならないし、逆に言えば十字架がなければ救いはありません。
 
▼ここでは、勿論、十字架の出来事を栄光と表現していること自体が、特徴的であります。
 栄光という言葉を、私たちの日常から推し量ることは出来ません。何が栄光なのか、どんなふうに栄光なのか、比喩で語ることも出来ません。
 神のわざ、神の御旨の一環として働くことが、神のわざの内に存在することこそが、栄光なのであります。

▼『神も人の子によって栄光をお受けになった』
 これはなかなか解釈に苦しむ表現ではあります。『人の子』という『栄光をお受けになった』、十字架の出来事そのものが、神に捧げられた栄光であると取るべきでありましょう。
 十字架の出来事によって、神への全き信仰・信頼が捧げられたのであります。 それは神の栄光であります。
 旧約聖書、特に詩編にはそのような表現と言いますか、そのような考え方が表れています。
 人間の信仰こそが、神の御名を高めるというような表現であります。 

▼32節。
 『神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身に
よって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる』
 ここが一番難しい所であります。難しい時はなるべく単純に、そのままに受け止めべきだろうと考えます。
 お返しとか、ご褒美と言ったら、何だか、あまりに言葉が軽くて、申し訳無いような気が致しますが、要はそういうことだろうと思います。
 『人の子』つまり、イエス様が、全き信仰・信頼をもって、全てを神に捧げられた、それに対して、神さまもイエス様に栄光を与えて下さるというのであります。

▼但し、十字架の出来事の結果として、その後に大いなる報いが与えられるということとは違います。確かに、復活という輝きの時が来ますが、それを指しているのではないと考えます。むしろ、十字架の出来事そのものが、栄光なのであります。

▼ここで、私たち自身に当て嵌めて、具体的に考えてみたいと思います。
 私たち自身も、信仰をもって、献身の思いをもって、神さまに捧げ物をします。特に、自分自身の生活そのものを、時間を、奉仕を。そうすると、御利益に与って、献げたものに勝るご褒美が待っていてるというようなことではありません。
 そうではなくて、自分自身の生活そのものを、時間を献げたという事実そのものが、栄光として、私たちに与えられるのであります。
 見返りは、献げたということ、そのものなのであります。

▼分かり易く説明することは、誤解を生む元にもなって危険なのでありますが、敢えて、具体例をもって、説明します。
 マザー・テレサが格好の例でしょうか。マザー・テレサのように、その生涯を神様の業のために献げた人が存在します。人への奉仕の報いとして、ノーベル平和賞が与えられました。ローマカトリックでは何れ聖人の一人に数えられるでしょう。既にその前段階の福者と認められています。
 しかし、神と人への大きな働きがあったから、その報いとして、栄誉が与えられたというのではありません。
 マザー・テレサなら、マザー・テレサが、神と人への奉仕の生涯を貫いたという事実そのものが、神様によって与えられた栄光なのであります。
 マザー・テレサは、そのような輝かしい栄光に満ちた人生を送ったのであります。

▼フランチェスコという名前を持つ教皇が誕生したことによって、随分久し振りに、アッシジのフランシスが脚光を浴びました。アッシジのフランシスを主人公とした映画がリメイクされ多層です。
 しかし、アッシジのフランシスの修道会は、当初ローマカトリックによって厳しく弾圧され、多くの殉教者を出しました。
 火あぶりにされたのであります。これは、随分後の時代まで続きます。マザー・テレサだって、当初は、ローマカトリックの認可も、当然庇護も受けることが出来ませんでした。
 毀誉褒貶は世の常であります。世の評価が絶対ではありません。
 神の御旨を信じて、その奉仕の生涯を貫いたという事実そのものが、神様によって与えられた栄光なのであります。

▼33節は、十字架の予告であり、復活の後も、ずっと弟子たちと一緒にいられる訳ではないという預言であります。

▼さて、34節。
 『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしが
あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』
 この教え・戒めを、文脈から切り離して読んではなりません。
 深く結び付いているのであります。

▼『新しい掟を与える』、『新しい掟』であります。
 律法がユダヤ人の社会を形作ったように、新しい共同体を形成する『掟』、新しい律法であります。
 その内容は、『互いに愛し合いなさい』であります。少しも新しくないように聞こえます。
 ユダヤ人だって、愛を知っています、重んじています。
 いや、そんな生やさしいことではありません。

▼以前に礼拝で読みました。
 申命記6章4~5節。
 『6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
  6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
 これは、マルコ福音書12章で、イエス様が引用しておられます。
 ユダヤ人なら誰でもが知っている、律法の中の律法であります。
 
▼しかし、『互いに愛し合いなさい』は、『新しい掟』なのであります。
 その戒めを与えられた方が、イエス様だからであります。例え同じ内容であっても、新しく与えられたもの、新しく契約されたものは、『新しい掟』であります。
 また、内容的にも、『互いに愛し合いなさい』は、イエス様の十字架の出来事を背景に持っているから、耳慣れた言葉のようでいて、実際には『新しい掟』なのであります。

▼一人の人間には、他の人間と比べることの出来ない固有の価値があるということが言われます。オンリーワンですか、このような言い方がすっかり定着した感があります。
 勿論、これに異議を唱える気持ちはありません。原則賛成であります。
 しかし、人は一人ひとりが固有のもので、他と比べることが出来ないということは、差別してはならない、いじめてはならないということの根拠になったとしても、本当に、彼を愛するということの根拠になるでしょうか。
 世界にたった一つだけのもの、そういうものもありますでしょう。しかし、その世界にたった一つだけのものを、好きか嫌いか、愛するかということは、話が別であります。世にも珍しいもの、希少なものを憎むということは、ざらにあります。

▼最近、ジュノサイドのことと、ロマの人々が登場する本を続けて読みました。ロマむしろジプシーとして知られています。彼らは、ヒトラーのナチスドイツによって迫害され、ドイツ国内だけで数万人が殺されたそうであります。この数が、ユダヤ人の被害者よりも少ないのは、ユダヤ人に比べて、人口が少ないからに過ぎません。

▼私たちキリスト者にとって、人を愛する根拠は、『互いに愛し合いなさい』という、『新しい掟』にあります。それが、根拠なのであります。
 愛は戒めで規制されたり強制されたりするものではないという意見もありますでしょう。当然であります。
 しかし、イエス様は、間違いなくそう仰っておられるのであります。
 そして、愛は戒めで規制されたり強制されたりするものではないのは良いとして、では、何なのか、全く人の感情に依るとしたら、これは、大変に危ういのであります。それこそ、好き嫌いが、偏見が、虐殺、民族浄化・ジュノサイドさえ産むのが、人間の現実なのであります。

▼34節の後半をもう一度読みます。
 『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』
 『わたしがあなたがたを愛したように』これが、根拠であります。
 他の人と比べて優れているから、他の人と比べて美しいから、この時、根拠は、この人の許にあります。
 世界でたった一人だから、この場合はどうでしょう。やはり根拠は、この人の許にあります。
 しかし、『わたしがあなたがたを愛したように』この時、根拠は、イエス様の許にあります。
 神の愛を根拠として初めて人間が愛し合うことができるという考え方は、ヨハネの第1の手紙、特に4章に、明確に記されています。

▼4章7~8節。
 『7:愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、
愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
8:愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです』
 4章7~8節。
 『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。
  ここに愛があります』
 そして、11節。
 『愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、
わたしたちも互いに愛し合うべきです』
 更に、19節以下。
 『わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
 20:「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、
それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、
  目に見えない神を愛することができません。
 21:神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です』
 ここでも、愛が掟として、語られているのであります。

▼ヨハネ福音書に戻って、35節。
 『互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが
わたしの弟子であることを、皆が知るようになる。』
 愛の交わりを作り上げることが、最大の証し、最大の伝道なのであります。
 その逆であってはなりません。
 教会から帰ると、教会に行っていない家族に、教会での愚痴や、牧師、教会員の悪口を言う人がいたとします。
 それではとても伝道にならないのであります。どんなに、聖書の教えが素晴らしいかと説いていても、一方で、教会での信仰の交わりが、醜いものであったら、それは、証しにも、伝道にもならないのであります。

▼最後に、『わたしがあなたがたを愛したように』とは、勿論、十字架のことであります。主は十字架の死によって、つまり、究極の犠牲によって、その愛を表して下さいました。
 最初に、十字架の予告と弟子たちの裏切り或いは躓きの文脈で、今日の箇所が存在すると申しました。
 命をかけてイエス様に従うことの出来ない、弱い、罪深い弟子たちをこそ、イエス様は愛し、彼らのために十字架に架けられたのであります。
 わたしたちもまた、十字架の上のイエス様に倣うならば、自分の義を言い立てるのではなくて、むしろ、謙遜に、他の者の救いのために、祈り働かなくてはなりません。
 十字架の上のイエス様を見上げるならば、その不可能が可能になるのであります。

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