主イエスは真の葡萄の木

2014年5月18日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは、既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その会いにとどまっているように、あなたがたもわたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

ヨハネによる福音書15章1節〜11節

▼今日の箇所の主題は何でしょうか、一言で答えられそうな気が致しますが、本当にそうでしょうか。実際には、なかなか難しいかも知れません。
 しかし、今日の箇所を通じて、何が強調されているかという読み方をしたら、これは、誰の目にも、全く明らかであります。
強調されているのは、次のことであります。
 ちょっと順番を変えて申しますが、第1に、7節、『言葉』であります。
 『あなたがたがわたしにつながっており、
わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、
  望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる』
 これが第1の強調であります。
もう少し整理して、聖書的な表現ではなく普通の表現に直しますと、以下のようになろうかと思います。
イエス様の言葉を大事に守り抜く者こそ、イエス様に属する者であり、彼の祈りは聞き届けられる。

▼ヨハネ福音書は常にそうであります。言葉、これが何よりも大事なことであります。
 1章1~4節。
 『1:初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
 2:この言は、初めに神と共にあった。
 3:万物は言によって成った。成ったもので、
   言によらずに成ったものは何一つなかった。
 4:言の内に命があった。命は人間を照らす光であった』
 ヨハネ福音書に於いて、言葉とは、単なる会話の言葉のことではありません。正に『言は神であった』なのであります。
 でありますから、神の言葉、福音そのもの、私たちにとっては聖書そのものが、最も大事なものであります。聖書の言葉、これを受けとめる礼拝が、私たちにとっては、最も大事なものであります。

▼第2に、8節をご覧下さい。
 『あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、
それによって、わたしの父は栄光をお受けになる』
 私たち人間が、実を豊かに結び、キリストの弟子となるなら、それによって父なる神が栄光を受けるということが言われております。
 信仰を大事に守り抜く者こそ、イエス様に属する者であり、このような者が、神に栄光をもたらす。これを、7節に併せて表現をするならば、以下のようになろうかと思います。
 御言葉、聖書、礼拝に結び付くことこそが、キリストの弟子となることであり、実を豊かに結ぶことになり、そのことで、神は栄光をお受けになると記されています。

▼このことは、詩編の中でも歌われています。一例として6編5~6節。
 『主よ、立ち帰りわたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく
  わたしを救ってください。
  06死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず
  陰府に入ればだれもあなたに感謝をささげません』
 ここに述べられていることは、神はユダヤ人に祝福を与えた、それは、ユダヤ人の賛美によって、神の栄光が歌われるためであるという、理屈であります。だから、神さま私を助け出して、私に感謝させて下さい、それがあなたの栄光でしょうと、こう歌っているのであります。

▼同様に、9節、
 『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。
わたしの愛にとどまりなさい』
 キリストへの愛を持つ者こそ、イエス様に属する者であります。それは、愛が父から下されたものだからであります。
そして、さかのぼって、6節、
 『わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。
そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう』
 イエス様に属する者は、キリストの体につながって生きるが、そうでない者は、切り取られ、焼き捨てられると、はっきり記されています。
 ここの部分は読みたくないとか、重要視しないとか、そんな勝手な読み方はありません。それでは御言葉に聞いたことにはならないし、イエス様に属する者ではありません。
 このことが、最初に申しました強調の内の第3のことであります。

▼こうして見ますと、6~11節は、同じようなことを、さまざまに言い換えて表現し、繰り返していることが分かります。実はたった一つのことを、強調しているのであります。
今上げた全ての箇所に共通すること、それは何でしょうか。
キリストの内に止どまっていなさい。離れて行ってはならないというこの一点であります。

▼ヨハネによる福音書15章が、教会とは何かということを論ずる教会論であることは、申し上げるまでもないと思います。
同じ15章の1~5節の箇所を読めば、これが、コリント書に見えるパウロの教会論、即ち、キリストの体なる教会という教会論・神学に、相通ずるものであることが分かります。特に解説を加えるまでもなく、二つ並べて読めば、誰の目にも、その共通性が見えて来ます。

▼そうしますと、この箇所で、ヨハネが強調しているのは、とにかくに、教会に止どまっていなさい。そこにおいてだけ、祈りが聞かれ、信仰が生まれ、継承され、また、愛が現実のものになる。そういうことだと思います。
 教会から離れてしまう者は、神の恵みから、捨てられ腐り果て、滅び焼かれてしまう。
 こういうことを言っているのだということが、分かります。
ここでは教会の内に居る者と、外に立つ者とが、はっきりと区別されているのです。

▼教会の自己目的化を批判する人がいます。
つまり、教会がただ教会として存在するだけでは、何の役にも立たない、もっと社会の役に立つようなものに変わらなければならない。貧しい人々の、苦しむ人々のお役に立つような存在に、作り替えられなければならないという議論であります。そして、教会とこの世との区別があってはならないと言います。それが、宣教基本方針と呼ばれて来ました。今、漸く、この改訂作業が始まりました。
しかし、教会が教会であって何が悪いか。教会は教会以外の何物でもある必要がないと、私は考えます。教会とこの世とは、明確に区別されるし、されなければならないと考えます。これは開き直りでしょうか。

▼本当に大事なものは、むしろ自己目的的な存在であると私は考えます。
自己目的的な存在であることが許されない場合があります。しかし、自己目的的な存在でないことが許されない場合もあります。
 例えば、金・地位・知識・教養、これらのものが自己目的であっては、あまりにも寂しいと思います。
しかし、愛・友情・そして信仰、これらのものは、自己目的でなければおかしいと思います。
人は何故働くのか、お金を得るためであります。お金なんかどうでも良い、働くことに生き甲斐があると言える人は幸福であります。しかし、お金のために働いても、何も間違いではありません。では、何故お金が必要なのか、家族を養うためであります。家族なんかどうでも良い。お金を貯めることが生き甲斐だという人もあるようですが。これは、やはり、目的と手段の履き違えだと思います。お金は道具・手段でしかありません。
何故、家族を養うのか。家族を愛するからであります。何故、愛するのか、これに目的はありません。目的があったら妙なことになってしまいます。何故家族を養うのか。それは老後にお返しをして貰うため。そんなことではない筈であります。

▼金・地位・知識・教養、これらのものは、或る目的を遂げるための方法手段、或は道具でしかありません。これが自己目的化した人生は、あまりにも寂しいと思います。
しかし、愛・友情・そして信仰、これらのものは、そのそもそもの性質からして、自己目的なのであります。これが、方法手段、道具となったら、矛盾を来すのであります。
私は彼女を愛する、何故なら、彼女の父親には財産があるから、私は彼に友情を覚える、何故なら彼の父親には地位があるから … それは、愛でも友情でも、何でもありません。

▼こうして見ますと、愛・友情・信頼・正義、本当に貴いものは、自己目的な存在なのであります。当然、信仰もそうでありましょう。
信仰する、何故、これこれの御利益があるから、私たちキリスト者は、このようなものを信仰とは呼びません。同様に、福音を宣教することも、全く自己目的であります。他に、目的が隠れているのは、いかがわしい新興宗教の場合だけであります。
 そして、何より、教会の存在そのものが自己目的なものであります。愛がそうであるように、自己目的でなければならないのであります。

▼教会が自己目的化していると批判する人は、即ち、教会を手段として考えているということに外なりません。通り道として考えていることに外なりません。それは、重大な過ちというだけではなく、背徳的なことではないでしょうか。
 確かに、神様が教会を宣教の道具として用いられるというような表現は妥当すると思います。教会が道具であるのは、この場合だけであります。
同じことが、礼拝にも当てはまります。礼拝は神を賛美するという自己目的以外の目的を持たないのであります。

▼2節。
 『わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる』
 実を結ばない枝=蔓は切られる。とあります。
キリストという葡萄の木につながっていなければ、実をつけることは出来ません。新約聖書に於いて、実とは何時でも信仰の実・愛の業の意味で用いられております。ここを例外とする理由はありません。実とは信仰の実であり、愛の業であります。
つまり、この表現が意味するところは、「教会の外に救い無し」ということであります。
救いに至る他の道は無いということが、強調されています。これが独善的だという人は、イエス様の十字架の必然性、つまりは、十字架そのものの意味を否定する人であります。

▼3節。
 『わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている』
 言葉によって清められる。とあります。
私たち人間を、ブドウの木につなぎとめるものが、言葉であります。言葉がヨハネによる福音書に於いて何を意味しているか。どんなに強調しても強調し足りないくらいであります。ヨハネによる福音書に於いては、1~5章これすべて言葉による救いのことが問題になっています。つまりは福音の内容であり、同時に宣教の力であります。
 順番を厳密にしなくてはなりません。つまり、行為=実によって、つながるのではなく、蔓によってつながった者だけが、実を付けるのであります。
 言い換えれは、福音宣教によって、神の言葉に触れることによって、イエス様につながった者だけが、本当の意味で良い行い、愛の業をなすことができるのであります。
 最近はこれを逆にする人が多いのですが、厳密にしなくてはなりません。

▼最後に、おまけのようにして、申します。
 このことは、この箇所で説教する度毎に言っております。
 何故葡萄なのか、イエス様は何故、葡萄の木をたとえに用いられたのか、団結の強さを強調するためでありましょう。葡萄は一房で葡萄であります。葡萄の枝を書いてきなさいという宿題があったとします。コンパスで○を画いて、紫に塗りつぶして持って来たら、きっと先生に叱られます。最低でも更に盛った一房の葡萄、出来たら、鶴を伸ばして沢山の実を付けている姿を描いた方が、宿題として認めて貰えるでしょう。

▼しかし、団結の強さ、ひとまとまりということなら、葡萄ではなくて、オリーブの方が良いのではないでしょうか。そもそも、熱烈な信仰に生きるナジル人は、葡萄を食べることはありません。何故なら、葡萄は長年の敵であったペリシテ人が持ち込んだものであります。敵性の植物なのであります。
 何故、オリーブではなくて、葡萄なのか、答えを言います。
 オリーブは川の中に収まっていて、団結は強いでしょう。しかし、その一房を食べられたら、つまり、皮に穴が開いたら、全部腐ってしまいます。葡萄はその点、一つ二つ食べられても、否、半分以上もっと食べられても、腐って落ちることはありません。何故なら、一粒一粒が、枝につながり、樹につながり、根までも直接に繋がっているからであります。

▼教会はキリストの体であり、全体で一つであります。しかし、同時に、一人一人が、直接に神さまに繋がっているのであります。
 神さまに直接には繋がらずに、誰かさんを通してでないと、神さまに繋がらないならば、そのような人が大勢集まっても、教会にはなりません。
 キリスト教系の新興宗教が、本当の教会よりも盛んに見えるこの時代であります。しかし、実際には、そんなことはありません。
 もし、盛んであっても、それが本当の教会化どうかは疑問であります。

▼御言葉に聞き、御言葉に立つ者が、集められて初めて教会なのであります。

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