十字架の栄光に輝く

2014年6月1日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。 

ヨハネによる福音書17章6節〜11節

▼6~8節で述べられているのは、一言で言えば、教会のことであります。
 教会のことを想定して言っているのだと考えて読めば、その意味が分かります。
 6節。
 『世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、
わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、
あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。』 御言葉、つまりは神様の御旨、そしてイエス様の宣教の言葉、新しい戒めであります。この言葉・戒めの中に生きる者、つまり、教会であります。
 ここは、一行一行、深い意味が込められているように思われる箇所であります。『世から選び出してわたしに与えてくださった人々』『御名を現しました』『彼らはあなたのものでした』『あなたはわたしに与えてくださいました』『彼らは、御言葉を守りました』、教会とは何かということを考える時に、一つ一つが重要であります。

▼先ず、『世から選び出して』、このまま真っ直ぐに受け止めなければなりません。
 教会員一人ひとりが、自分で決断して、教会に入門したとは書いていません。『選び出し』たのは神であります。このことが、キリスト教と他の宗教との大きな違いになります。入門したのでも、入道したのでも、出家したのでもありません。神によって、『選び出』されたのであります。
 この『選び出』されたという理解を嫌う人があります。偉そうだというのであります。他の人よりも優れているように自惚れているというのであります。
 それは誤解であります。大きな誤解であります。『選び出』されたということは、他の人よりも特別優れているという意味にはなりません。むしろ、救いの道が与えられたのは、自分の努力ではない、手柄ではない、決断でさえないという意味であり、むしろ、謙遜なのであります。

▼次に、『わたしに与えてくださった人々』、このことは直後に『彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました』と、繰り返し説明されています。
 人間という被造物は、創造主なる神のものであります。しかし、神が選び、より分けて、『わたしに与えてくださいました』、キリスト・イエスに与えられたのであります。つまり、キリストのものとなったのであります。
 こういう考え方も、嫌う人が少なくありません。信仰を持っていない人は、私は誰のものでもない、自分自身のものだと言うでしょう。信仰を持っている人でも、神のものだとか、キリストのものだととか言うと、違和感を覚えるようであります。
 しかし、聖書ははっきりとそのように言い切っています。

▼実は元々の考え方、図式は、正に、所有物のこと、奴隷のことであります。
 少し遠回りですが、そこからお話しします。
 救い、贖いという言葉の本来の意味は、家畜や奴隷を、お金を出して買い取ることであります。
 屠殺され肉にされる筈の家畜が、他の飼い主に買い取られ、命を助けられる、そういうことであります。
 ここから時間の関係で大幅に飛躍しますが、イエス様は、人間の命を買い取るために、その代価を支払われました。人間の命を買い取るための代価は、十字架でありました。
 『わたしに与えてくださいました』とは、そのような意味なのであります。

▼7~8節。
 『わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、
今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、
  わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、
あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです』
 ここも、大変重要だと考えます。
 これこそが、教会の立脚点なのであります。

▼イエス様が十字架の出来事によって贖い取ったのが、教会であります。教会はイエス様の所有物であります。
 でありますから、他の誰の所有物になってもならないのであります。キリストではない他の神のものになったら大変であります。皇帝や王や領主のものになったら大変であります。かつては、そんな時代がありました。今はそんなことはないかも知れません。
 しかし、皇帝や王や領主のものではなくとも、他の誰かのものになっているかも知れません。
 教会はみんなのものだと言う人があります。これも、間違っています。教会はイエス様の所有物であります。

▼9~10節もまた、教会とは何か、教会員とは誰かということを考えさせられる、決定的に重要な要素を含んでいます。
 9節。
 『彼らのためにお願いします。世のためではなく、
  わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。
  彼らはあなたのものだからです。』
 私たちキリスト者は、神のものなのであります。神の民、神の国の国民なのであります。
 ここで、背景にある考え方は、当時の国家の制度であり、また、奴隷制度のことだと考えます。
 私たちは、何に所属するのかという、帰属の意識の問題なのであります。神の民、神の国の国民であり、神のもの、神の僕だから、栄光に輝くのであります。
 神の民のバッジを付けている、神の民の制服を着ている、そういう話なのであります。

▼『世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします』、これも重要であります。
 『世のためではなく』、こういう表現を嫌う人がいます。しかし、聖書ははっきりと言い切っています。『世のためではなく』
 教会はみんなのもの、教会は地域社会に仕えるもの、聞こえは良いですが、そんなことを言う人は、実は、教会は自分のものと思っているのではないでしょうか。教会を自分のものにしないということは、みんなのものということではありません。イエス様のものとしなくてはならないのであります。

▼10節も同様であります。
 『わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。
わたしは彼らによって栄光を受けました。』
 特に、最後の、『彼らによって栄光を受けました』という表現は注目すべきだと考えます。十字架によって勝ち取られた神の体としての教会が、イエス・キリストの栄光なのであります。人々の信仰こそが、イエス・キリストの栄光なのであります。
 これに類似した表現は、詩編にも数多く見られます。

▼11節から、話が新しく展開します。
 11節前半。
 『わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、
わたしはみもとに参ります。』
 これは、勿論十字架のことであります。
 教会は、神の国に赴かれたイエス様が、この地上世界に残された民であり、やがて、迎えられる民であります。この地上世界に残されますが、イエス様の民であり、神の国の民なのであります。

▼私たちには、少し分かり難い理屈であります。しかし、ユダヤ人は酷似した体験を持っています。捕囚であり、ディアスポラ、流浪の体験であります。彼らは、この地上に取り残された民であり、この世の中にちりぢりにされた民であり、かつ、神の民であり、やがては、神が約束された土地に集められる民だったのであります。

▼11節後半。
 『聖なる父よ、
  わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。
わたしたちのように、彼らも一つとなるためです』
 これは、この言葉だけを独立したものとして受け止めた場合でも、心を動かされるものがあります。
 『一つとなるため』、父なる神と子なるキリストが一つであるという意味合いで、一つになるのであります。
 一つとなるのは、一つとならなければならないのは、キリストが十字架に架けられた後、この世に残される教会の者であります。
 一つとならなければ、教会を守ることは出来ないのであります。

▼9節に戻ります。
 『彼らのためにお願いします。世のためではなく、
  わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。
  彼らはあなたのものだからで』
 何度も言いますが、『世のためではなく』なのであります。こういう表現は嫌われるようですが、聖書そのものが明言しているのであります。
 『世のためではなく』なのであります。
 教会は、『世のために存在するのではなく』、やがて神の国に向かう民のために存在するのであります。
 地上から神の国に向かう、中継ステーションなのであります。

▼この頃の駅ナカはすごいですね。先日東京駅をうろつきました。何でうろついたかというと迷子になったからで、日本橋で降りたのに、気が付いたら八重洲に居まして、仕方なしに、ラーメンを食べて、元気を取り戻してから、また歩き回り、とうとう日本橋の用事は諦めて、新宿に向かいました。
 渋谷も再開発されるそうですし、どこの駅も新しくなっています。駅の中で1日過ごせそうであります。
 しかし、駅は駅です。駅はどこかに向かうための中継ステーションであります。駅が中継ステーションであることを忘れて、駅は駅として成り立つものでしょうか。
 駅は良いかも知れません。しかし、教会は、教会が神の国を目指す中継ステーションでなくなったならば、もう、教会ではありません。

▼12節。
 『わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によ
って彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、
だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。』
 『滅びの子』とは、ユダのことでしょうか。特定する必要はないでしょうか。
 何れにしろ、『滅びの子』も存在するのであります。
 しかし、『滅びの子』の他は、守られて、神の国に入れられるのであります。そうしますと、『滅びの子』とは、神の国を望まない者のことではないでしょうか。 
 神の国など入らないし、行きたくもない、ずっと教会で過ごしたい、だから教会は駅ナカのように、何でもそろっていて、楽しい方が良いという人は、おそらくは、教会を愛する者とは言えず、逆に、『滅びの子』なのであります。

▼13節。
 『しかし、今、わたしはみもとに参ります。
世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。』
 『わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれる』、これは前回この箇所でお話した時に詳しく申し上げたプレーローマーであります。
 簡単に繰り返します。
 初代教会の時代、当時のギリシャ世界には、プレーマー論という哲学がありました。日本語では充溢論と言います。遡れば、プラトンのイデア論に行き着く思想であります。
 漫画的になるほど簡単に説明しますと、カクテルグラスをピラミッド状に積み重ねた姿を連想して下さい。そのてっぺんのグラスに、ワインを入れたとします。やがて溢れて、2段目のグラスに注がれて行きます。これも一杯になって溢れると、というような具合に、だんだん、一番下まで、ワインが行き渡っていくのであります。
 そして、肝心なことは、一番上では、純粋であったワインが、下に落ちるにつれて、だんだん、別のものに変質して行くのであります。
 一番上が、神の愛だったとすれば、2段目では、家族の愛になり、3段目では、恋愛になり、その下では、欲望になると言った具合であります。

▼勿論、このプレーマー論と、今日の箇所とを同一視することは乱暴であります。しかし、私たちには極めて異質に感じる、この思想が、今日の箇所の下敷きになっていることは否定出来ません。少なくとも、当時の人々にとっては、馴染みのある思想であり、分かり易いのであります。
 私たちには、混乱や誤解の元になりかねませんが、当時の人々にとっては、むしろ、分かり易いのであります。

▼主の十字架の栄光が、下に落ちるに連れて汚れてはなりません。不純物を混ぜてはなりません。私たちは、主の十字架の栄光に直接に与り、それでこそ、真の喜びに溢れるのであります。
 他のものを混ぜてしまうと、豊かさを増したように見えることもあるかも知れませんが、真の喜びはないのであります。

▼主の十字架の栄光は、苦難から生まれたものであります。私たちもまた、十字架を負うのでなければ、そこには栄光もありません。

この記事のPDFはこちら