無学な普通の人が

2014年6月22日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。

 さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。
『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、
 諸国の民はむなしいことを企てるのか。
 地上の王たちはこぞって立ち上がり、
 指導者たちは団結して、
 主とそのメシアに逆らう。』
事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

使徒言行録4章13節〜31節

▼13節以下に記されていることは、大変興味深く、また、現代の教会、私たちの教会にも通ずるものだと思います。
『議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、
  しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、
  また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった』
当時のユダヤ社会は、学力偏重でありました。大学もない時代なのに、不思議なことですが、実際の話しです。今日で言えば塾になるのでしょうか、律法学者・パリサイ人が、沢山の弟子をとり、隆盛を誇っていました。彼らは、そういう、学問が全てというような物差しで、ペトロという人物を捉え、また、整理しようとします。しかし、ペトロは、そんな物差しで測れるような人物ではありません。

▼『二人が無学な普通の人であることを知って驚き』と言うのですから、二人の宣教の内容は、とても無学の者の話ではなかったのでしょう。
 それこそ、そんな知識を、話術をどこで手に入れたのでしょうか。
 ルカ4章22節。
 『 22:皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。
「この人はヨセフの子ではないか。」』
 かつて、イエス様も同じように見られ、扱われ、そして、人々は躓きました。
 ここも同じです。『議員や他の者たちは』、何が語られたかよりも、誰が語ったということに注目し、『無学な普通の人』が、神の言葉の宣教など出来る筈がないとして、躓き、退けたのであります。
 さて、私たちも、ペトロがヨハネが、どこでそんな知識や、話術を仕入れたのだろうと、考えてみましょうか。無意味なことであります。勿論、イエス様と3年以上もの時を一緒に過ごし、いろいろとそのお話しを伺い、またいろんな人に出会ったでしょうから、自ずと勉強になったことでありましょう。
 しかし、そんな次元の話ではありません。

▼少し拘って読まなくてはなりません。ペトロは、最初、間違いなく、『無学な普通の人』でありました。それ故ということではないでしょうが、数々の失敗を重ねました。何よりも、イエス様が大祭司の庭で裁判に掛けられた時、おびえ、寒さに震え、遂にイエス様を知らないと三度も否定してしまいました。
 ルカ福音書22章59節以下。
 『59:一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。
ガリラヤの者だから」と言い張った。
60:だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。
まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。
61:主は振り向いてペトロを見つめられた。
  ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。 62:そして外に出て、激しく泣いた。』

▼およそ『大胆な態度』などではありません。しかし、そのペトロが、主の十字架と復活の出来事を体験し、聖霊降臨に遭遇した時に、彼は変えられたのであります。

▼ヨハネ福音書21章17節以下。
 『17:三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
  ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。
 そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
18:はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。
しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、
 行きたくないところへ連れて行かれる。」
19:ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、
  イエスはこう言われたのである。このように話してから、
ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。』

▼ペトロは、腰に帯を付けられて行きたくない所に連れて行かれる人であり、何しろ、復活の主によって、聖霊が与えられ、聖霊に満たされている人なのであります。
 『ペトロとヨハネの大胆な態度』とは、こういうことであります。
 自信満々、押しが強いというようなことではありません。勿論、傲慢不遜というようなことではあり得ません。自分の空しい知識や体験、まして地位には頼らない、神から与えられた使命、それだけを頼りにする、それが、『ペトロとヨハネの大胆な態度』なのであります。

▼そもそも、復活の出来事を、学問で理解し、整理しようとすることが、間違いなのであります。学問があることと、復活の出来事の証人となることは、全然別のことなのであります。
現代でも、学者が復活を否定しますが、復活の福音は、聖霊を受けた者によって、今も、宣べ伝えられているのであります。
 この箇所で、復活の事実の重さが、学問を圧倒したということを、記憶していただきたいと思います。このことは、後でもう一度詳しく申します。
 特に、14節、16節に記されていることを、ご覧下さい。私たちの教会も、そのようにならなければなりません。

▼14~16節。
 『しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。
15:そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、
16:言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、
  エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。』
 私たちの教会はどうでしょうか。私たちの教会に『足をいやしていただいた人』がいるでしょうか。いないかも知れません。しかし、『ペトロとヨハネの大胆な態度』、つまり、救いに与り、この世での破れを信仰によって乗り越え、大胆にキリストを証しする人がいるでしょうか。足よりももっと大事な所を癒していただいた人がいるでしょうか。そのことが問われているのであります。

▼ さて、17~18節をご覧下さい。
 『17:しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、
  今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」
18:そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。』
迫害・弾圧が、今日の箇所の主題であります。迫害・弾圧とは何か、教会が教会としての最も大事な存在理由に拘わることで、その活動を禁止されたり、規制されたりすること、即ち、迫害・弾圧であります。
 迫害・弾圧は、時に暴力的に下されます。初代教会にどんなに激しい暴力的な迫害が及んだかは、皆さんご存知のことであります。

▼しかし、暴力を受けたことも、投獄されたことも、迫害・弾圧の本質ではありません。『決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように』これが、迫害・弾圧なのであります。
 これが出来なければ最早教会は教会でなくなってしまうような事柄を禁じられること、邪魔されることが、迫害・弾圧なのであります。
 17節。『このことがこれ以上民衆の間に広まらないように』、これが、迫害・弾圧だったのであります。

▼ここで、お考えいただきたいと思います。現代の教会の風潮についてであります。
 復活信仰を否定する人々が、教会の中に存在します。ラジカルな聖書理解に立って、イエスのキリスト性を否定する人たちは、同時に、信仰・思想の自由が国家権力によって脅かされている、迫害・弾圧が現実になっていると主張します。
 しかし、既に申し上げましたように、教会は、初代教会でも、現代でも、教会の教会たる使命は、『イエスは復活した、だからイエスはキリストである』と、宣べ伝えることであって、それ以外のことではありません。
 『イエスは復活した、だからイエスはキリストである』と、宣べ伝えることが出来れば、教会は迫害されていませんし、それが出来なければ、迫害されているのであります。単純であります。

▼一方で、一般民衆の躓きにならないようにと、復活信仰を隠してしまう人々が、存在します。例えば、クリスマス、多くの未信者が集まるからと言う理由で、この日には聖餐式をしない教会があると聞きました。
 これは極端としても、似たようなことをして、それが、未信者、新来会者への配慮だと考えている人は少なくないように思います。
 ここ数ヶ月、電車の中で、内田百閒を読んでいます。『長春香』というエッセイにこんなことが書いてありました。ドイツ語を習いに来た、絶世の美女ながら幸薄い女性への戒めの言葉であります。
 「前の日にやった事は、必ず全部暗記して来なさい。解っても解らなくても、それが何のつながりになるかという様な事は、後日の詮議に譲るとして、ただ棒を嚥み込むように覚えて来ればいい。解らないと思った事でも、覚えて見れば、解って来る。覚えない前に解ろうとする料簡は生意気である」

▼語学の出来ない私が言うと、洒落みたいですが、この通りだということを、誰でも知っています。私なども、これが出来なかったから、語学を習得出来なかったのであります。
 お茶やお花でも、習い事の全てがそうであります。「解らないと思った事でも、覚えて見れば、解って来る。覚えない前に解ろうとする料簡は生意気である」、全くその通りであります。
 どうして信仰だけが違うでしょうか。教会だけが違うでしょうか。

▼昔、教会学校の前、日曜学校では聖句暗唱が普通に行なわれていました。その時代に身に付けた聖句は、忘れたくとも忘れようがありません。
 最近、多くの教会で、比較的高齢の人が、教会を訪ねて来るという傾向が見られるそうであります。日曜学校から、ミッションスクールから、何十年来離れていた人が、教会に帰って来ているのであります。

▼ もう一度、18節をご覧下さい。
 『そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した』
何度も繰り返しますが、迫害とはこのことを指すのであります。
 伝道を否定する人が、迫害・弾圧を口にするなど、チャンチャラおかしいと言うしかありません。
オウム真理教は、国家権力による迫害・弾圧を云々し、ついには、事実を捏造すべく、あのような異常な行動に及びました。統一原理も、同様のことを言います。既成教会の所謂反対牧師は、国家権力の犬となって、統一原理を迫害しているのだそうです。ものみの塔でも、国家権力がどうとは言いませんが、自分たちを、迫害を受けている群として自己認識しています。

▼彼らは、全く迫害などされていません。彼ら自身の違法的行為が裁かれるのは、迫害ではありません。まして、政治活動や経済活動が規制されるのは、至極当然であります。よし、不当な規制だとしても、それだけでは迫害ではありません。何教だろうと、宣教を禁止・規制されて初めて迫害なのであります。
政治活動や経済活動が規制されているからと言って、即、迫害だと叫ぶ人々は、宗教団体は、そのことで自分たちの正体を暴露していると考えます。彼らは、第一義的に宗教団体ではなくて、政治団体であり、経済団体なのであります。
 いや、他の宗教団体のことなどは、私たちにとって大問題ではありません。私たちの日本基督教団が、福音を宣べ伝える群なのか、それとも、何か別のものになってしまっているのかが、大問題なのであります。

▼19~20節。
 『19:しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに
従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。
20:わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」』
『見たことや聞いたことを、話さないではいられない』
ここで、ペトロとヨハネとが、見聞きしたこととは、何であったのか、もう一度考えなければなりません。
 勿論、直接的には、主イエスの十字架と復活の出来事であります。
それでは、十字架と復活の出来事を直接目撃体験していない、現代の教会人は、宣べ伝えるべき福音を持たないのか。そんなことはありません。
宣べ伝えるべき福音を持っています。
 その内容は、ペトロとヨハネとが、宣べ伝えたのと同じであります。私たちは、聖書と教会の証しを通して、宣べ伝えるべき福音を持っています。それだけではない。私たちは、ペトロとヨハネとが、見聞きしたこととは、違うかも知れませんが、少なくとも、初代教会の人々が見聞きしたことと、同様、同質の体験をしているのであります。
 それは、使徒言行録をはじめ、聖書に記されている事柄であります。教会の聖霊体験であり、教会の形成の体験であります。
 そもそも、今、ペトロとヨハネとが、宣べ伝えている対象は、ペトロとヨハネとが、見聞きしたことを、共通体験として持っている訳ではありません。
 彼らも、同様に見聞きし、否定しがたい事実として認めていることは、実は、3章に登場する美しの門の乞食の身の上に起こった奇跡体験であります。

▼ここで、話を大分戻さなければならないかも知れません。なるべく端折って申します。結論はこうであります。あれは単なる奇跡物語ではありません。むしろ、この世の罪の現実の中で苦しんでいた人が、福音宣教に触れて、自分の足で立ち上がり、真に神を礼拝し、讃美する者として、甦って来た話であります。逆に形式的には信仰者であっても、その内実を伴わない人が如何に多いか、そういう話であります。

▼私たちは、礼拝に与り、教会の形成に与り、そこで聖霊を与えられる体験をし、そうして、復活の主の力を自分自身の体で体験し、宣べ伝える者となることが出来るのであります。
聖霊体験、教会の形成、伝道、これらは、互いに不可分離的なのであります。初代教会の人々も、そして、ペトロとヨハネも、復活の主の出来事を体験することで、結局、聖霊体験、教会の形成、伝道をしています。使徒言行録を通じて、このことが、繰り返し、そして、詳細に描かれているのであります。初代教会の人々が、私たちには体験しようがない異常な出来事を体験したと記されているのではありません。
私たちは、むしろ、迫害される程には宣べ伝えていないことを、懺悔しなくてはなりません。

▼聖書日課であり、週報で予告したことに従えば、23節以下も読まなくてはなりません。先日の役員会で、週報の箇所と、実際に読む箇所とを一致させるようにとの、指示を受けました。
 長くなりますが、もう少しだけ読みます。

▼23節。
 『23:さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、
  祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。』
 簡単に言えば迫害の報告であります。そして、この報告は、教会員を躓かせることはありませんでした。
 むしろ、この迫害の報告をこそ、教会員は、預言書の成就と受け止め、そして祈ったのであります。
 『29:主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、
  思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。』
 ここにこそ、私たちは学ばなければなりません。
 逆境と思われる出来事が起これば、がっくりと落ち込んで、責任追及をし、更に足の引っ張り合いになるようなら、完全に負けであります。迫害者の勝ちであります。

▼迫害をこそ、預言の成就と受け止め、そして祈る、『思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください』これこそが、迫害者に対する勝利なのであります。
 祈りが続きます。
 『どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、
しるしと不思議な業が行われるようにしてください。』
 主の御心と信じ、『思い切って大胆に御言葉を語る』時に、奇跡が起こるのであります。
 
▼31節。
 『祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に
皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした』
 大胆に御言葉が語られた時、地面さえもが揺り動かされ、人々の心は、聖霊に満たされたのであります。

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