御利益宗教に走る人々

2014年6月29日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に霊が彼女から出て行った。ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。

使徒言行録16章16節〜24節

▼16節から順に読みます。
 『わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている
女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を
得させていた』
『占いの能力』とは記されていません。『占いの霊に取りつかれている』という表現だけで、充分おわかりいただけると思います。聖書的には、占いは、当たる当たらないではなく、そのこと自体がまがまがしいものであり、それを行うことは大罪であります。

▼申命記18章10~12節。
 『あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。
  これらのいとうべき行いのゆえに、
  あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。』
 申命記では、占いをする者は、『自分の息子、娘に火の中を通らせる者』
と同列に置かれています。つまり、幼児犠牲であります。占いをする者は、迷信によって、我が子を火で焼き、神に捧げる者と同じだというのであります。

▼ユダヤ的な考えでは、知るべきことの一切は神の律法に示されています。神への完全な信頼があるならば、例え好奇心からであっても、占いは排除すべきであるということであります。
 私たちも同様であります。聖書には、私たちの生きるべき道筋が、示されています。それだけでは不足であるかのように、占いや他のものに頼るのは、背徳行為であります。
 まあ、占いには頼らないかも知れません。しかし、いろんなものに頼ります。学説、評論、アドバイザー、アンケート結果、こういうものに頼って私たちは日常の生活を営んでおります。
 それは仕方がないかも知れません。しかし、信仰の事柄や、人生そのものについて、聖書よりももっと別に頼りにするものがあるとしたら、その人は、もうキリスト者ではありません。
 
▼このような、旧約聖書の前提に立てば、占いは一切否定した方が良さそうなものですが、使徒言行録は、そのようには言いません。占いの効力のようなものを認めているのであります。ここに登場する女奴隷は、決していかさま師ではありません。しかし、勿論、彼女の行為を肯定しているのでもありません。彼女を、『占いの霊につかれた』と表現しています。
 不思議な力、霊的な力が働いていることは認めています。しかし、その力は、悪の業なのであります。簡単に言えば、聖霊ではなく、悪霊が働いているのであります。

▼女奴隷の予言の霊は、ピュトンという言葉で表されています。
 これは、デルフォイの神託の神のことだそうであります。
 『バラバ』で知られるラーゲル・クヴィストに『巫女』という作品があります。正に、デルフォイの神に仕える巫女が主人公であります。
 要するに、占いは、異教徒の仕業なのであります。キリスト者が手に染めることではありません。

▼さて、この女奴隷は、17節、
 『彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。
「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」』
 女奴隷は、奇妙な行動を取ります。彼女は、パウロの宣べ伝える福音に惹かれているようにも見えます。
 パウロと一緒になって福音を伝えているとさえ言えるかも知れません。

▼しかし、それにしてはまた、妙であります。18節。
 『彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて
振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。
この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った』
パウロは困り果てて、女から霊を追い出すのであります。
 何故そんなに困るのか、何故追い出すのか。ここが問題であります。

▼要するに有り難迷惑なのであります。パウロの伝道の邪魔にしかなりません。何故邪魔なのか、パウロが神の言葉を正しく伝える暇を与えません。周囲の人々の関心を引き寄せてしまって、その心を視線を、パウロの方に向けさせないのであります。
 『「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えて
いるのです。」』
 結果的には、褒め殺しになっています。昔、竹下登首相が失脚したのは、元を正せば、褒め殺しでした。
 少なくとも、この女の言動が、イエス様の福音の妨げになったという、その事実を否定することは出来ません。教会も個々人も、その人の我流で伝道して、却って、伝道を後退させているとしたら、矢張り、退けられるのは仕方がありません。そういう人が、教会が現実に存在するのであります。
 ものみの塔の人々は、自分たちこそが一所懸命に伝道していると自負しているでしょうが、日本の伝道が振るわない理由の一つが、このものみの塔の存在であります。あれが、世の人々をキリスト教から、むしろ遠ざけるのであります。
 街宣車で訳の分からないことを喧伝しているグループもあります。あれは、カトリック系の異端であります。あの人たちの存在が、キリスト教を、異常者の集団みたいに見せてしまっているのであります。
 ややもすれば、そういうことが、普通の教会の中にも存在するのであります。

▼19節。
 『ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまった
ことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために
広場へ引き立てて行った。』
どうも本当に悪いのは、悪霊に取り憑かれているのは、この主人たちのようであります。本当に悪いのは、本気で占いを信じている愚かな人々ではなくて、これを利用して、人の無知につけ込んで金儲けしている業者なのであります。金儲けの悪霊に取り憑かれているのであります。昔も今も同じであります。
 カード占い程度のものだったら、目くじらを立てることはないのかも知れません。しかし、こういうことがきっかけになっていろんな怪しげな占いが起こり、更にはそれが霊界などというものを信ずることにつながっているという、事実が存在するのであります。
 以前に少し詳しくお話しした記憶があります。統一原理に走った女性から、どうして、あんなたわいもない話を信じたのか、霊界などと言うものを信じたのか、脱会後に話を聞きます。殆どの人がこう答えます。テレビで見た。漫画で読んだ。ややもすれば、教会で聞いたと言うのであります。

▼こういういかがわしいものにマスコミが関わりを持っている事実には、憤りを感じます。ただおもしろおかしい番組を作る意図しかないのでしょうが、結果は、子供の心に霊界などというものを埋め込んでしまっているのであります。無責任きわまりないのであります。
 テレビや雑誌や週刊誌、時には新聞までが、こういう業に加担しているのであります。テレビは、自分たちが子供に対して怖ろしいまでの影響力・洗脳力を持っているということを自覚しなければなりません。
 
▼あらゆる偶像を退け、偽キリストを退けることは、私たちクリスチャンの存在意義に関わる大事であります。
 私たちは、他のことよりも、このこと、あらゆる偶像を退け、偽キリストを退けることに、厳密でなければならないと考えます。熱心でなければならないと思います。
 現代に対して、教会は何を発言するのか、証しなければならないのか、いろんなことが上げられています。政治問題、経済問題、環境問題、そんなことよりも、最優先すべきは、このことではないでしょうか。
 あらゆる偶像を退け、偽キリストを退けることは、私たちクリスチャンの信仰の本質と結び付くことだと考えます。私たちはこのことについて、厳密でなければなりません。クリスチャンとしての立場を証しすべきであります。あらゆる偶像を退け、偽キリストを退けることは、私たちクリスチャンに与えられた重要な役割だと思います。
 最大の預言者イザヤが、偶像を退けるというこの一点に、どれだけの紙数を費やしているか、ご覧になってみて下さい。
 
▼女奴隷に占いをさせ金儲けしている主人達は、救いなどということには、まるで関心がありません。関心があるのはお金だけであります。
 こういう歪んでしまった人が、聖書にはしばしば登場します。
 マタイ福音書7章6節。
 『聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。』
 律法学者たちは、知識で詰まっていて、頭も体も膨れています。しかし、彼らは豚なのであります。本当に値打ちのあるものを投げ与えると、怒って噛みついて来るのであります。

▼もう一度16節をご覧下さい。
 『わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている
女奴隷に出会った。』
 『祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った』のであります。
 両者が対比的に置かれているのであります。
 祈り、つまり、静まって神様の声に聞き、また、心の内から神様に語りかける祈りと、占いとは、表面似通っているようでいて、実は全く正反対のものであります。

▼以前にシモーヌ・ヴェーユを引用しました。
「低いものと浅いものとは同一のレベルにある。『かれは愛している、激しく、しかし低級に』という言い方は可能だ。『かれは愛している、深く、しかし低級に』という言い方は不可能だ。」(『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ著、田辺保訳、ちくま学芸文庫、1995年)
 これは祈りにも当て嵌まります。「かれは祈っている、激しく、しかし低級に』という言い方は可能だ。『かれは祈っている、深く、しかし低級に』という言い方は不可能だ」
 私たちの教会には、深く静かな祈りが、必要だと思います。

▼元に戻りまして、20節で、パウロとシラスは逮捕され、更に21節、
 『ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、
実行することも許されない風習を宣伝しております』
 『受け入れることも、実行することも許されない風習』とは、何のことでありましょうか。何か非常識なことなのか、奇天烈なことなのか、そうではなくて、むしろ逆であります。
 偶像崇拝の否定、迷信の否定、むしろ当たり前のことであります。
 その当たり前の教えが、20節にあるように、『わたしたちの町を混乱させております』。
 確かに、混乱させたのであります。

▼使徒言行録の他の箇所でも繰り返されることであります。正しい福音が、世の中を大混乱させることが、しばしば起こるのであります。何故大混乱するのか。それは、間違った仕方で、阿漕な仕方でお金儲けをしている人に損失をもたらすからであります。その利権を覆すからであります。
 詳しいことは省略しますが、宗教改革がそうであります。誰も否定出来ないと思います。正しい福音と、お金儲けが衝突したのであります。
 日本でだって、廃娼運動や、一夫一婦制度の確立や、そもそも、日曜日の休みのことだって、キリスト教の精神・価値観が、従来の日本の習慣を打ち破ったのであります。そういう例は無数にあります。そして、これも、正しい福音と、お金儲けが衝突した事例なのであります。

▼お金がどうのという話は、あまり好きじゃないと言う方もおられるかも知れません。しかし、この聖書の箇所が、そのことに触れているのであります。
 お金がどうのという話は、つまりは、この福音宣教というのは、極めて具体的な、人間の日常生活に結び着いた話であって、出来事であって、決して、観念的なことではないということであります。
 信仰とは、絵に描いた餅ではありません。
 使徒行伝は、聖霊行伝だと言われます。使徒言行録ですと、聖霊言行録ですか。間違いなく、聖霊言行録ですが、しかし、極めて現実的に、人間の生活に結び着いており、現実に日常生活を送っている者が救い出されていく話なのであります。聖霊によって導かれるということは、そういうことなのであります。
 極めて現実的具体的なことなのであります。

▼全く現実の生活から遊離した聖霊体験もあるのかも知れませんが、それは、悪霊の仕業ときちんと区別されなければならないのであります。

▼先週に続いてちょっと長くなっていますが、未だ、聖書日課を消化していません。後は、なるべく簡単にお話します。
 22節。
 『群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服を
はぎ取り、「鞭で打て」と命じた』
 一番簡単に言えば、理屈では負けたから、暴力に訴えたのであります。最低の行為であります。

▼暴力に訴えるのは、自分の論理が破綻したからであります。敗北したからであります。そうしたら噛みつく、暴力を振るう、最低の行為であります。

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