魔術師の滅び
2014年7月6日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)
アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言をする者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師でバルイエスという一人の偽預言者に出会った。この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。魔術師エリマー彼の名は魔術師という意味であるーは二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師の目はかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。使徒言行録13章1節〜12節
▼今日の箇所の主題は何かということを先ず確認した方が、分かり易くなるだろうと思います。
2節『聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい』、そして4節『聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは』、『バルナバとサウロ』とは、細かいことは省略し、後で読むこととしまして、とにかく、『聖霊によって送り出された』のであります。『聖霊によって … 伝道旅行に … 送り出された』のであります。
これに対峙するのは、『ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者』であります。『バルイエスという』名前にも、もう一つの名前『魔術師エリマ』にも興味そそられますが、細かいことは省略し、後で読むこととしまして、とにかく、聖霊に対するに偽預言者・魔術師であります。
これが、今日の箇所の主題であります。
▼『聖霊によって … 伝道旅行に … 送り出された』『バルナバとサウロは』は、まず最初に、偽預言者・魔術師に出会い、これと戦うのであります。これが、今日の箇所の主題であります。伝道の任務に携わって、先ずなすべきは、迷信や俗信、異端と戦うことであり、偽預言者、偽信仰と戦うことなのであります。
この主題を確認し、これを前提として、後は順に読みます。
▼1節。
『アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、
キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、
預言する者や教師たちがいた』
『アンティオキア』には、かなり早い時期から、教会が出来ていました。それもエルサレム教会をもしのぐ大教会であります。聖書学者の中には、これを、使徒言行録6章に描かれるステファノ等、7人の執事の選出と関連づけて読む人があります。大雑把に言えば、アラム語を話すユダヤ人キリスト者とギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者との対立関係があり、ギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者に、言ってみれば、自治権を与えたのが、7人の執事の選出だと言うのであります。
確かに、使徒言行録6章には、食べ物の分配という具体的な実務に当たるために、執事が選任されたと書いてありますが、それにしては、この執事たちは、食べ物の分配という実務に当たったという記録は全く記されていません。むしろ、直ぐに伝道活動を始め、ステファノは最初の殉教者となります。
▼7人の執事は、ギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者の代表であり、これがそのまま『アンティオキア』教会の設立発展につながって行くというのが、一部の聖書学者の説であります。
確かに説得力があります。使徒言行録に描かれた出来事の、不整合な部分を、実に上手に補い説明していると思います。
しかし、それが歴史的に事実かどうかは、誰にも分かりません。確かめようもありません。
▼私は、この説に反対はしませんが、むしろ、その後のことに注目致します。
『そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、
キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、
預言する者や教師たちがいた』
実にいろんな人がいたものであります。それこそ誕生したばかりの教会に、多士済々であります。むしろ、誕生したばかりだからこそ、いろんな人が集まったのでしょうか。
この一人ひとりについて、もっと詳しいことが知りたいと思いますが、確かなことは何も分かりません。
▼2節。
『彼らが主を礼拝し、断食していると』、これは、当時の教会の特徴であります。断食に励みます。勿論、ユダヤ教の伝統に立っています。また、この時代の他の宗教でもよく見られる宗教的な修行であります。
断食をすると一種の恍惚忘我の状態になり、幻聴や幻視体験をする場合があります。つまり、麻薬的効果であります。
でありますから、現代の教会がこれを見習う必要はありません。見習うことはむしろ危険でありましょう。ドラッグに走るかも知れません。そういう新興宗教や教会が、歴史上現実に存在しました。多分、今日でもありますでしょう。
▼断食を見習う必要はありませんが、その一方で、現代の教会に大事なことを教えているようにも思います。
つまり、現代の教会は、お交わり・飲み食いを重要視します。話し合い、議論、協議、調停、こういうことが盛んであります。
しかし、『アンティオキア』教会では、断食をしました。つまり、全てを空しくして、お腹も、心も頭の中も空しくして、その結果として、聖霊の声を聞いたのであります。
諄いようですが、断食という麻薬的効果のことをいっているのではありません。お腹も、心も頭の中も空しくする、そして、ひたすらに祈り聞くということを言いたいのであります。
▼同じ2節。
『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい』、聖霊が選び出しました。あの多士済々な教会員の中から、聖霊が選び出しました。そこには、人間的な説明は一切付け加えられておりません。バルナバには、財力とそれを献げる献身の思いがあったとか、パウロにはローマの市民権と、ユダヤ教の律法学者の資格と、これに見合った教養があったなどということは、ここには記されていません。
ただ、聖霊が選び出しました。聖霊が選び出しましたとは、人間が任命した、人間が自ら名乗り出たということの真逆であります。
このことは、牧師の献身にも、役員の選出にも全く当て嵌まることでしょう。
▼同じ2節。
『わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために』
選んだのが聖霊ならば、その仕事の内容も聖霊によります。
やりたいことをやるのでも、得意なことをやるのでもありません。
このことも、牧師の献身にも、役員の選出にも全く当て嵌まることでしょう。
▼3節。
『そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた』
また、断食であります。送り出す側も、全てを空しくして、お腹も、心も頭の中も空しくして、送り出すのであります。
そうでなければ、送り出すことは出来ないのであります。
いろいろな人間的な思いがあっては、事はならないのであります。
▼4節。
『聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、
そこからキプロス島に向け船出し』
まあ、今日とは違うかも知れません。何日か前に船と宿をネットで予約し、出張届けを出して、そういう旅ではないでしょう。しかし、『セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し』という表現には、或る計画性が感じられます。全く当てずっぽうではありません。『聖霊によって送り出された』とは、無計画無責任なことを言うのではありません。
そこのところを間違えている人がいます。
▼5節。
『サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた』
詳しい説明は無用でしょう。肝心なことは、キプロス島のサラミスという町には、ユダヤ人が住んでおり、ユダヤ人の会堂=シナゴーグがありました。そこが、最初の目的地だったのであります。
ちゃんと目的地がありました。それは、『聖霊によって送り出された』と矛盾しないのであります。『聖霊によって送り出された』とは、風の吹くまま気の向くままとは違います。
▼『二人は、ヨハネを助手として連れていた』、このヨハネとは12弟子のヨハネでは勿論ありません。ヨハネ・マルコ、マルコ福音書を書くことになるマルコであります。つまり、イエス様の早い時期からの弟子であり、ペトロの弟子であります。そのマルコがアンティオキア教会にいます。このこと自体大変興味深いのでありますが、今日は、それを論じている暇はありません。
先を急ぎます。
▼6節。
『島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った』
『バルイエス』とは偶然とは思えない名前であります。バルは、息子という意味ですから、彼の父親はイエスという名前だったことになります。
しかし、彼はイエス・キリストの子=信者ではなく、魔術師で、偽預言者であります。
▼7節。
『この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と
交際していた』
『賢明な人物』だったのに、『バルイエス』が魔術師で、偽預言者であること、いかさま師であることを、見抜けなかったのであります。これは、多分そんなものでしょう。なかなか、見抜けないのであります。言葉巧みにすり寄って来る者の正体を、なかなか見抜けないのであります。善良だから、却って見抜けないのであります。そういうところに付け込むのが、いかさま師のいかさま師たるところであります。
▼7節。
『総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした』
この人は、熱心な求道心を持っていました。だからこそ、魔術師、偽預言者に惹かれてしまったのであります。
このことは、今日でも同じであります。いかがわしい新興宗教に魅入られる若者も同じなのであります。
統一原理やオウム真理教に入った若者たちが、最初に教会に出遭っていたら、きちんとした信仰者になる可能性を持っていたと思います。
ただ、総督の場合は、この求道心が、『バルナバとサウロを招』くことにもなりました。
▼8節。
『魔術師エリマ … 彼の名前は魔術師という意味である …
は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした』
商売の邪魔になるからであります。または、自分の地位が相対的に落ちるからであります。または、自分の正体がばれるからであります。もしかすると、その全部かも知れません。
▼9節。
『パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、
魔術師をにらみつけて』
ここでも、『聖霊に満たされ』であります。パウロの方もパウロで、商売の邪魔になるから、または、自分の地位が相対的に落ちるから、そんなことではありません。自分の私利私欲ではありません。それが『聖霊に満たされ』であります。
『聖霊に満たされ』と言っても、具体的にはどのようなことなのか、分かりません。でありますから、これをペンテコステ派のように、狐憑きや狸持ちのような、物に憑かれた状態、憑依現象のように考える人がいます。それはどうでしょうか。
『聖霊に満たされ』とは、むしろ、人間的な欲や計算ではなくてということではないでしょうか。
▼10節。
『ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、
お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか』
相当に厳しい批判であります。そして、11節で、過酷とも言える刑罰が下されます。
彼は魔術師で、いかさま師で、偽預言者であります。しかし、具体的には何をしたのでしょうか。或いは、パウロは彼の何を知っているのでしょうか。詳しくは知らない筈であります。
はっきりしているのは、パウロと総督の間に入って、両者が接近するのを、総督が神の言葉に触れるのを邪魔しただけであります。
これが大罪なのであります。
▼『お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか』これが具体的な批判と言えば、まあ具体的であります。パウロと総督の間に入って、両者が接近するのを、総督が神の言葉に触れるのを邪魔したことであります。
それが、『あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵』と、ここまで罵られ、裁かれるのであります。
ここで、パウロさんは何と激しい気性の持ち主なのだろうというような、見当違いの見方をしてはなりません。そういうことではありません。
魔術師エリマの罪は、それほどに重い罪なのであります。このような罪に対して、寛容であってはなりません。
▼11節。
『今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、
時が来るまで日の光を見ないだろう』
パウロが裁きと刑罰の言葉を吐き、実際その通りになります。
ここで、私たちは思い出す必要があります。これは、かつて、パウロ自身が受けた刑罰でありました。
パウロは、まだサウロと名乗っていた時、キリストの道を迫害し、その結果、その目が塞がれたのであります。真実を見ようとしなかったからであります。
▼『するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した』
パウロは何と残酷な刑罰を与えたと言ってはなりません。自分も同じ罪を犯し、同じ刑罰を受けたのに、何故寛容になれないのかと言ってはなりません。
『すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した』、これこそが、魔術師の正体なのであります。真実の姿なのであります。
魔術師の罪は、自分の真実の姿が見えず、自分を偉い者のように思い込み、そして、他の人にも真実を見せずにまやかしを見せたことであります。
以前にも申しましたが、偽善者とは、他人を騙す人である以上に、自分を騙す人なのであります。
▼12節。
『総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った』。
総督は、この出来事を通して、真実を見たのであります。