神の家での生活

2014年7月27日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、
 キリストは肉において現れ、
 “霊”において義とされ、
 天使たちに見られ、
 異邦人の間で宣べ伝えられ、
 世界中で信じられ、
 栄光のうちに上げられた。

テモテへの手紙一 3章14節〜16節

▼わずか3節の間に、いろいろな要素が混じり合い凝縮されていまして、極めて難解な箇所であります。こんがらがってしまわないように、少しずつ読んでまいります。
 15節の中程から読みます。
『神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです』
 この表現から分かりますように、この箇所は、使徒パウロがテモテへの手紙を執筆した理由であります。使徒パウロが、愛弟子であるテモテに語り聞かせるという形式で、教会生活のあるべき姿、むしろ秩序を説いているのが、テモテへの手紙一・二であります。
 つまり、今日の箇所は、全体の分量から言えば、テモテへの手紙一の丁度中程に置かれていますが、実際には、冒頭に置かれてもおかしくない、むしろ、その方がふさわしい内容を持っています。
 では何故冒頭に置かなかったのか、それは分かりません。何しろ口述筆記であります。今日のようにパソコンで打って、推敲できるものでもありません。途中でこのような表現が現れたということは、著者が、絶えずそのことを意識していたということだろうと思います。

▼15節の後半。
 『神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です』
 『神の家とは』旧約聖書ではと言いますか、本来はと言いますか、エルサレム神殿のことであります。
 しかし、ここでは、キリスト教会が、エルサレム神殿に見立てられています。更に、同時に『生ける神の教会』という表現をします。ここには、格別の意味が込められています。
 つまり、『教会』とは、神によって集められた者の共同体という意味であります。それを、簡単に人間の集まりと言ってしまうことは出来ません。あくまでも、神によって集められた者の共同体であります。しかし、人間の集まりではあります。でありますから、それは、『生ける神の教会』なのであります。

▼その逆が、エルサレム神殿であります。これは、単純に建物であって、ユダヤ教徒に言わせれば、神様の住まいされる家なのでありますが、キリスト教徒とっては、単に建物であります。
 本当に神さまが、そこにおられるかどうか、そこに集まる人の心の中に、神さまがおられるかどうか、それが問題なのであります。
 私たちの教会も同様であります。そこに集まる人の心の中に、神さまがおられないならば、私たちの教会も、只の建物であります。

▼同じことを繰り返して言うのに過ぎませんが、教会とは、一面、建物であり、組織であります。しかし、それ以上に、神によってその場所に集められた人間の共同体であります。

▼この『神の家』が、『真理の柱であり土台である』と記されています。
 『真理の柱であり土台』、これが一切の基本であり、基準なのであります。 中世の教会では、文字通りに、そのように考えていました。教会の存在が、教会が守り伝えている真理が、この世界全体を支えていると考えていたのであります。この世の一切の秩序の基には、教会の存在がある、教会の真理がある、そのように考えていたのであります。
 比較したら、具合が悪いかも知れませんが、今日のイスラム原理主義と似ていなくもありません。イスラムの教えが、人間の生活のあらゆる局面を支配し、政治でも経済でも、一切のことを、イスラムの教えに基づいて行わなければならない、そういう考え方であります。
 同様の考え方で、中世の教会は、この世の全てを支配していたのであります。

▼現代の民主主義的な思考に慣れた私たちにとっては、とても馴染めない考え方であります。しかし、全くその逆に、教会もこの世の秩序、この世の仕組みのほんの一部分であって、教会の秩序、教会の価値観は、この世では全く通用しないと言うのも、間違いだと思います。
 テモテ書に記されていることが、基本なのであります。これを、身勝手に解釈して、教会が、この世の世俗的な権力の上に君臨するかのように考えたのが間違いなのであります。
 教会が、この世の世俗的な権力の上に君臨する。そのような考え方は、結局、いくら教会を最上位に位置付けようとも、教会をこの世の一部に組み込んでしまい、この世と相対化し、神の家ではなくしてしまう業なのであります。

▼これも、同じことを、繰り返して言うのに過ぎませんが、教会を世界の頂点に位置づけて、教会がこの世に君臨し、この世に号令すると考える中世カトリックも、教会を、この世の最下層に位置づけ、この世に仕えると考える現代の教会論も、教会をこの世の一部に組み込んでしまい、この世と相対化し、神の家ではなくしてしまう業なのであります。
 しかし、テモテ書に記されている通りに、『神の家とは、真理の柱であり土台である』、のであります。文字通りであります。

▼16節では、先ず、『信心』、この言葉そのものを、見なくてはなりません。
 信心とは、良いと言う意味を持つ単語と、拝むと言う意味を持つ単語とを組み合わせて出来た造語だそうであります。でありますから、直訳すれば、良い礼拝、となりますでしょうか。普通には、敬虔という意味合いで使われます。
 信仰とはキリスト教のことで、信心とは仏教その他のこと、と使い分ける傾向もありますが、それは、聖書的に根拠を持つとは言えません。
 やはり、信心とは、敬虔であり、その背後には、正しいあるべき礼拝があります。正しいあるべき礼拝に仕えること、連なることが敬虔であり、そして信心なのであります。

▼逆に言えば、正しいあるべき礼拝に仕えること、素直に教会に仕えることが敬虔でありまして、そういうこととは関係ない、単に人間の心根とか、性格とか、そういうことではありません。
 おおよそ、自分は敬虔という美徳を持っていると考える人は、全くそのことの故に、敬虔ではありえません。敬虔とは自分を捨てて、少なくとも押さえて、礼拝に、教会に仕えることであります。それが正しい意味での信心であります。
 そうしますと、確かに、仏教やその他の宗教で使われている信心とは、正にこのような意味合いで使われていると言うことがお分かり頂けるかと思います。
 現代の教会に欠けているのは、信仰以前に、信心かも知れないとさえ思います。

▼さて、その次の『秘められた真理』、これは、どういうことでしょうか。
 『秘められた真理』、真理は秘められている、真理は隠されている、そういう方向に解釈が流れて行きそうです。
 口語訳聖書では、『信心の奥義』と訳されています。どちらが、より原文の意味合いに近いかと言うよりも、『信心の奥義』の方が、意味内容を正しく伝えるように思います。
 最も、奥義と、秘められていると言うこと、つまり秘密とは、本来同じことではあります。ローマカトリックの礼拝・聖餐式を意味するミサと、ミステリー小説のミステリーは、元は同じ言葉であります。

▼私たちは、おくぎと発音しますが、時代劇ですと、おうぎであります。
 例えば、剣術で、免許皆伝、全てのことが、隠さずに伝えられることを言います。その内容が奥義であります。
 剣術であったならば、限られた者にしか教えないということに、強調があるかも知れません。皆が知ってしまったならば、その対抗策が研究されて、その業は破れてしまうかも知れません。
 また、困難な修行を積んだ、選りすぐられた者にこそ、その奥義が伝授される、そうでなければ、教えられても、会得することは出来ないということでありましょう。

▼しかし、奥義とは、そのような、隠されていること、秘密であることに、最大の強調が存在するのではありません。より大事なことは、それが、曲げられないということなのであります。引かれたり足されたり、曲げられたりしないように、限られた者が、その内容を、100パーセント確実に継承するのであります。それが、奥義の最大の意味であります。誰もが勝手に口を出すようなものではありません。そういう意味合いに於いては、奥義は秘伝であります。

▼そして、信心の奥義という場合は、全く、この後半部分に、意味があります。何も、やたらな人には教えないとか、奥義の閉鎖性を強調する必要はありません。
 そうではなくて、この真理は、絶対に、人間の手、人間の知恵・知識、人間の思いで、変えられてはならないのであります。それが、聖書の言う所の、奥義であります。

▼剣術でもそうかも知れません。まして、キリスト教信仰に於いて、奥義とは、誰も知らないような事柄、知識を言うのではありません。むしろ、およそ、信仰者たる者、誰でもが知っているような事柄・知識なのであります。およそ、信仰者たる者、誰でもが知っていなければならないような事柄・知識なのであります。
 そのような、奥義こそが、偉大だと言っています。
 とは言いましても、この時代の人々にとっては、それが、常識を越えた、不思議でありました。神秘でありました。
 私たちにとっては、教会に2000年間伝えられものであり、もしかすると、いろいろな人の手を経て、すっかり手垢が付いているものかも知れません。その辺りの所が、なかなか、難しい所ではあります。

▼さて、その奥義、信仰の根本であります。『真理の柱であり土台』であります。順に見てまいります。
 『キリストは肉において現れ』。
 その内容に入りますと、簡単に抜け出せなくなりますから、簡単に入り口のお話しだけにとどめます。キリストは肉ではないと主張する人がいました。特にギリシャでは、肉は汚れたもので、霊、精神こそ、大事なものだというような考え方がありました。また、一部に、女性や生殖を蔑視・軽視する傾向がありました。でありますから、キリストが、汚れた女から、肉体をまとって生まれて来る筈ないと主張したのであります。そうしますと、地上のイエスは、神の霊を盛るための器のような存在でしかなくなります。
 勿論、全然、聖書的な信仰ではありません。このような異端思想に反駁しているのであります。

▼『“霊”において義とされ』。
 しかし、一方で、キリストは決して、肉の人ではない。霊的な存在であり、肉が表す地上的な存在ではなくて、天的な存在であると言われています。
 まあ、これも、入り込みますと、容易に抜け出せなくなりますから、簡単に入り口のお話しだけにとどめます。
 要するに、イエスは、キリストであるということであります。人間にして、しかも、神の子・キリストだと言うことであります。言葉で言えば、1行ですが、この1行こそが、私たちの信仰の全てであります。
 2000年前も、今も、イエスは人間であって神ではないという者は異端であり、イエスは神であって人間ではないという者は異端であります。

▼『天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ』。
 『天使たちに見られ』とは、その宣教、その十字架と復活の出来事の目撃者・証人は、天使たちであるということでしょう。どんな人間よりも、確かな、目撃者・証人だということであります。
 『異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ』からは、この頃、既にキリスト教が世界宗教へと発展し始めていたことが分かります。まあ、簡単に言えば使徒言行録の出来事が、この一行に込められています。

▼『栄光のうちに上げられた』。神学の用語で言えば高挙であります。ここまでが、基本的な信仰の内容であります。人間イエスを強調し、復活を否定乃至軽視するとなると、当然、高挙はありません。

▼こうして見ますと、ここに述べられていることは、実に簡略化された信仰告白であります。来臨のことにも触れられていませんし、正統的な信仰の要素で、触れられていない点がままあります。だからこそ、正に、奥義かも知れません。いろいろと解説が付いたりして分量が増えた、何年もかけなければ読み切ることさえ困難、そんな奥義はないのであります。
 奥義だからこそ、絶対に、曲げてはならないのであります。その奥義が、曲げて解釈されるようなら、ここは、もはや、神の家ではありません。
 最初に述べられているように、ここは、神の家、神によって集められた者が、正しく礼拝を捧げる場所であります。敬虔な者が、ここにふさわしいのであります。神の家でどのように生活すべきか、細かい所作が問われているのではありません。
 この場所を、神の家と受け止め、ふさわしい生活を志すことが求められています。特別なことが要求されているのではありません。真に、神さまを大事に思い、謙虚な気持ちで、招いて下さった方に感謝するならば、当然、行うべきことを行うのであります。してはならないことは、ならないのであります。

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