そしられても悪評を受けても
2014年8月3日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)
わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、
「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。
救いの日に、わたしはあなたを助けた」
と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。コリント信徒への手紙二 6章1節〜10節
▼繰り返し読んでいる箇所であります。
とじうしても過去の説教と重複する部分が多くなります。
重複してもしなくても、兎に角大事なことに絞って、お話ししたいと思います。
▼1節。『神の協力者としてあなたがたに勧めます』。先ずこの表現が目立ちます。この点については、過去の説教でも必ず触れています。
『神の協力者』、口語訳では『神と共に働く者』、他の箇所では見られない、特別な表現が用いられています。『神の協力者』、『神と共に働く者』、教会で普通に使われている言葉で言えば、神の同労者であります。同労者とは、同じ牧師同士という意味で使われますが、ここでは、『神の協力者』、『神と共に働く者』、神の同労者であります。
▼パウロは自分自身を『神の協力者』と称しています。何だか神さまを助ける人みたいであります。
傲慢だと感じる人もあるかも知れません。パウロは神様と肩を並べる程に偉いのか、そんな反感を覚える人もあるかも知れません。牧師の中には反パウロ主義者がいます。そういう人にとっては、嫌悪を覚える表現でしょう。
しかし、勿論、パウロはそのような傲慢な思いから言っているのではありません。
むしろ、逆であります。福音宣教に仕える者は、好き勝手に自分の仕事をしているのではない、誰か他の人間のために仕事をしているのでもない、神さまの御用をしているのだというのであります。そのことを厳密にしているのであります。
▼Ⅱコリント4章5節では、このように述べています。
『わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス
・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのために
あなたがたに仕える僕なのです』
『神の協力者』、そこには、勿論誇りもありますが、自分の働きが人間的な思いに基づくものではないということが第一に強調されているのであります。『神の協力者』と言うと何だか偉い人のように聞こえます。しかし、『神の協力者』と、神の僕、神の奴隷とは、意味は全く同じなのであります。
▼『わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです』。
『あなたがたに仕える僕』、ここを強調すれば、伝道者、牧会者は、教会員に仕える者となります。そんなふうに考える人もいます。その通りかも知れません。
しかし、あくまでも『イエスのために』であります。『あなたがた』の方がご主人様なのではありません。ご主人様は、イエスさまであります。イエスさまだけであります。
何が違うかというと、伝道者、牧会者は、教会員に雇われて仕える者ではありません。教会員の命令を聞くのではありません。『イエスのために』、イエス様のご用を果たすのであります。
▼牧師のサラリーマン化が進んでいると言われます。例えば、牧師館には住まない人が多くなっています。つまり、24時間神さまの家、つまりは牧師にとっての職場にいたのでは大変だ。夜は我が家に帰りたい、そんなふうに思う人は、この頃は少なくありません。
牧師夫人が他に仕事を持つ例も増えています。牧師夫人として教会と契約し雇われている訳ではありませんし、お給料を貰っている訳ではありませんから、当然と言えば当然のことであります。
そこに違和感を感じるのは、私のような古い牧師ばかりのようであります。
牧師のサラリーマン化も、牧師夫人が「私は牧師夫人ではない」というのも、よろしいでしょう。
▼問題なのは、牧師のサラリーマン化よりも、教会員特に役員の経営者化ではないでしょうか。教会を経営する、財政的に運営する、牧師を雇い人として管理する、そういう意識が強くなっているような気がします。牧師は敢えて言えば神さまに雇われているのであって、教会役員に雇われているのではありません。
▼一方で、『神の協力者』とは、他のどんな資格よりも、どんな称号よりも、栄光に満ちたものであります。どんな表現よりも、御言葉を取り次ぐ者の権威というものを強調しています。神父よりも、司教よりも、教皇よりも、栄光に満ちたものであります。何故なら、それは、パウロ個人の権威の問題ではなく、神の宣教の権威の問題だからであります。
▼1節の後半部分をご覧下さい。
『神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません』、口語訳では『神の恵みをいたずらに受けてはならない』。
受けたものを無駄にしてはならない、腐らせてしまってはならないと読むことも可能でしょうが、一番簡単に説明致しますと、神の恵みをただで貰っていてはならない、お返しをしなくてはならないということであります。
常に申しますが、この恵みという字は、使命という言葉に置き換えて読んだ方が分かり易い場合が多いようであります。そうしますと、「神から与えられた使命に応答しなくてはならない」ということになります。
▼当然、2節の解釈も、今こそ、神の恵み、つまりは、神の招きの声に応えて、私たちが果たすべき努めを行いましょう。今こそ、私たちの働きが求められているのだと、こういう意味になります。そして、このように読むと、3節以降とのつながりも解ります。
▼3節。『わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも
人に罪の機会を与えず、』
何だか消極的姿勢に聞こえるかも知れません。しかし、これが大事に当たる時の、基本的な姿勢なのであります。
神と共に働くとは、自分を最大限発揮するとか、そんなことではありません。もっと、必死なこと、もっと責任的なことなのであります。
▼4節の前半。
『あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています』、口語訳の方が分かり安いと思います。
『かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている』。
先程申しましたように、僕とは、奴隷のことであります。正に謙遜と忍従をもって働くことが、神に仕えることなのであります。何か特権を持って、威張ったりすることではありません。奇麗な仕事をすることではありません。
▼むしろ、キリスト者であるがために受けなければならない苦しみがあります。この一覧表が4~7節に出ています。
『苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓』
こんな目には遭いたくないと思うことばかりであります。得になることは一つもなくて、損することばかりが上げられています。普通の御利益的宗教が教えることと全く逆であります。
神さまを信じているならば、このような災難に遭わないとは、パウロは言っていません。神さまの御用をしている、神さまと共に働いている者は、このような災難から守られているとは、パウロは言っていないのであります。
それどころか、これらの災難の多くは、キリスト者だからこそ遭遇する出来事であり、神さまに仕えて働いている時に出会う試練なのであります。
パウロは、『苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓』この全てを体験したのであります。
だからこその『神の協力者』『神の同労者』なのであります。
▼これと戦う武器として『純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉』が上げられています。
もっと強力な、敵をやっつけることが出来るような武器が欲しいと思います。そういう力を下さいと祈りたくなります。しかし、与えられるのは、本当に有力な武器は、『純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉』であります。
これ以外の武器に頼る時、その戦いは最早義を失います。どんな動機から始まったにせよ、義を失います。
▼8節。
『栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、
好評を博するときにもそうしているのです。
わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり』
キリスト者は、初めから、人々の評価、この地上での成功に拘ってはいないのであります。この世の評価、損得を超えているのであります。それが、『神の協力者』ということの意味であります。
キリスト者には、負け戦などはありません。必ず敵に打ち勝つと言う意味ではありません。そうではなくて、『純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉』を武器として戦う時に、戦ったということが既に勝利であります。神さまの側について、悪と戦ったということが既に勝利であります。
逆に、他の薄汚い武器に頼るならば、既に敗北であります。暴力は勿論、計略、罠、こういう武器を取ったら、既に敗北であります。
▼8節の後半から、順に見てまいります。
『わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり』
キリスト教は、未だこの教えを全然知らない人々にとっては、何とも奇妙な宗教だったろうと思います。十字架に架けられて殺された男が、救い主だと言うのであります。その男が、三日目に復活したというのであります。
この信じがたい、常識外れなことを宣べ伝えて行かなくてはならない、そんな話を信じてくれそうな人はいない、だからこそ、パウロは、3節で既に述べたように、他の一切のことで、人々に躓きを与えるようなことは避け、常識的であろう、道徳的であろうと努めたのであります。
奇異な振る舞いを繰り返し、マスコミに登場し、耳目を集める新興宗教とは、全然逆なのであります。
▼9節。『人に知られていないようでいて、よく知られ』
これは、全く事実でありましょう。この時代も、そして現代も、マスコミに取り上げられるようなヘンテコな宗教よりも、ずっと、キリスト教への関心が高いのであります。人々は、実は、キリスト者を見ているのであります。キリスト者は見られているのであります。
▼『死にかかっているようで、このように生きており』
これも、全く事実であります。この時代も、そして現代でも。何しろ、キリスト教会には、2000年の歴史、200年の実績があります。
しかし、そんなことを根拠にして、教会には未来があると言うのではありません。根拠は、主の十字架の出来事そのものであります。
教会は、世間の人々から見れば滅びの象徴である、十字架の上に立てられているのであります。
キリストの体なる教会は、盛んに見えるとか衰退して見えるとかという現象とは関係なしに、生きて働くのであります。
▼『罰せられているようで、殺されてはおらず』
ここは、凄まじい表現であります。『懲らしめられているようであるが』と言うのなら、「必ず無事に救い出され」とか、「大いなる報いを受ける」とか続けて欲しいと思います。そういう約束があって良いと考えます。
しかし、約束は『殺されず』なのであります。
▼10節。『悲しんでいるようで、常に喜び』
4節以下に描かれたような何とも過酷な試練にまともにぶつかりながら、何故キリスト者は喜んでいられるのでしょうか。
それは、『神と共に働いている』からであります。『神の協力者』だからであります。神の御用をしているからであります。仕事の内容が楽しい、充実している、そんなことではありません。『神と共に働いている』から常に喜んでいられるのであります。
▼このことは、教会のご用にために奉仕することによって実感できることであります。教会学校の先生、オルガニスト、掃除とか、お料理とか、教会では、様々な奉仕が求められます。この際に、『神と共に働いている』という思いで働くのか、自分を発揮するために働くのか、その違いは決定的なのであります。
▼誰もがこの地上での生活を営むために、生きていくために、食べていくために働きます。その仕事が、楽しい仕事とは限りません。むしろその逆が多いと思います。しかし、働き続け、どんなに苦しい仕事でも、そこから喜びをも見出すことが出来ます。
生きていくために、食べていくために働くこと、そのものに意味があると信じているからであります。
▼どんな職種でも、苦しいことだけではない、楽しいことだけでもありません。汚いことだってあります。その仕事が、続けられるか、勤まらないか、それは、何のために働くのか、これで決まるのであります。その労働に何らかの意味を見出すことが出来るかどうかであります。
神と共に働く労働にこそ、それがどんな職種であれ、真の喜びが存在するのであります。
▼『物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています』
これが教会であります。