一つの体に多くの部分

2014年8月10日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

コリント信徒への手紙一 12章14節〜26節

▼今日の日課は、14節からであります。しかし、私は、この13節こそが、ここを読む上で、決定的に重要だと考えます。
 『なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、
一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、
そして皆一つの御霊を飲んだからである』
 今歌った讃美歌417番も、「聖霊によりて我ら一つ」とあります。私たちが一つとなれる根拠は、一つの聖霊に与ったことにあります。
 良く話し合ったからではありません。その結果、互いに理解出来たからではありません。「聖霊によりて我ら一つ」であり、洗礼によりて我ら一つであります。

▼この当時の教会の中には、ユダヤ人とギリシヤ人がいました。奴隷と自由人がいました。これは、この時代の人々にとっては、決定的な違い、絶対的な違いに思われることでありました。このことが初代教会に影響しない筈がありません。教会にとっても、実に深刻な問題でありました。
 今日ならば、何に例えることが出来ましょうか。ウクライナで、イラクで起こっていることに重なるかも知れません。民族の違いから互いに憎み合っています。民族が同じであっても、一つイスラム教の中の宗派の違いで、互いに殺し合っています。

▼しかし、同じように民族の違い、様々な伝統文化の違いがあった当時のクリスチャンたちは、イエスをキリストと信じて、一つのバプテスマを受けました。一つの聖霊を受けました。この事実の前で、人種や身分の違いは消え去ったのであります。一つのバプテスマを受け、一つの聖霊を受けたという決定的な事柄の前では、人種や身分の違いはもはや絶対のことではないということであります。
 パウロがこのように記しているということは、実際には、この違いを克服できなかったのでありましょう。しかし、パウロが、両者に違いはないと宣言していることこそが重要なのであります。

▼一つのバプテスマを受け、一つの聖霊を受けたからには、違いは最早、絶対のことではない、大事なことではないのに、これに拘泥して、ユダヤ人であるかギリシヤ人であるか、奴隷であるか自由人であるかということを、絶対だと考えている人は、真に、クリスチャンとなったとは言えません。姿はクリスチャンでも、中味はユダヤ人のままであり、ギリシヤ人のままであります。救われていない、ユダヤ人のままであり、ギリシヤ人のままであります。
 
▼東京の人にはあまり切実感がないでしょうが、田舎の教会では、かなり深刻な問題でした。それぞれの家の家柄のことであります。
 白河の或る教会員は、町で一番大きな神社の氏子総代の家柄でした。何しろ、夏祭りにはこの人の家から、御輿が出て、町一番の神社に向かうのであります。
 この地位、立場を手放すことが出来ません。この人のお爺さんは、白河教会の全身に当たる教会の牧師でした。その長男は、片山内閣の法務大臣で、クリスチャン政治家として有名な人でした。
 しかし、この家を継いだ次男は、父が牧師であったことよりも、兄がクリスチャン政治家であることよりも、御輿が出る家の家格を重要視したのであります。本人も洗礼を受けているにも拘わらずであります。

▼松江では、最も由緒あるお寺の檀家総代の人がいました。矢張りその地位立場を離れることは出来ません。
 そこから自由になることが出来ません。
 
▼使徒パウロの考え方は、人種による差別が排除されるとか、克服されるとか、そういう言い方ではありません。
 洗礼を受けてキリストの体に連なる者となったことによって、他のことは全て相対化されるという考え方であります。絶対のことではないということであります。むしろ、パウロはそれを糞土のように思うと言っています。一度ひねり出したものに、拘り、ましてまみれてはなりません。
 絶対のことがあれば、他のことは相対化されます。何がとても大ことなことで、何がどうでも良いことか、これが、人の価値観を分けるのであります。

▼キリスト者にとっては、信仰、聖書、教会が絶対であります。他のことは絶対のことではありません。
 でありますから、奴隷であるか自由人であるかを絶対のことと考えて、奴隷がいるような教会には居たくないと言う人は、真にクリスチャンとなったとは言えないのであります。
 同様の理屈で、この差別が克服されなければ、自分は救われないと言う人は、全く本人が言うとおりで、真に救われているとは言えないのであります。
 こういう言い方をしますと、反差別の戦いをすることは間違いだと言っているように聞こえますでしょうか。そのように言うつもりはありません。もう少し、先を読みましょう。

▼差別の問題は、コリント教会に於いても深刻でありました。使徒パウロは、これにどう対処したか。この克服は、最初にお話ししたことと重なります。信仰、聖書、教会を絶対とし、他のことを相対化することで、克服したのであります。奴隷の問題でも、性の問題でも、人種の問題でも、同様であります。

▼なるべく分かり易く、具体的にお話し致します。礼拝に出席し、神を讃美すること、これを実現するのに、金持ちと貧乏人の差はありません。聖書を読むのにも、貧富の差は関係ありません。貧乏で一冊の聖書が買えないということならば、大きな違いになりますが、一冊の聖書を持っているならば、もう貧富の差は関係ありません。
 救いに与るのに、貧富の差は関係ありません。勿論、人種も性別も関係ありません。
 祈ることに関しては、お金も体力も語学力も関係ありません。体力は少しは要りますか。日本語でも、ギリシャ語でも、英語でも、神さまは聞いて下さいます。

▼回り諄い話しになります。私が赴任した教会は、礼拝出席が二桁をやっと保つ、小さな教会でした。出席者の平均年齢が70歳を優に超え、殆ど女性ばかりでした。そのことと関係があります。礼拝の司会は8人の役員で何とかローテーションを組むことができます。8人いれば悠々と思われるでしょうが、赴任時点では、8人中3人は、クリスマスくらいしか教会に来ません。もう2人は司会断固拒否、それが役員受諾の条件でした。
 ですから、3人の役員で司会当番を回します。内一人は奏楽者を兼ねています。

▼そんな具合ですから、献金当番までローテーションを組むことは困難でした。結果、一人のご婦人が、この人も70代ですが、献金のお祈りを一手に引き受けていました。何でも、有名な明治の元勲の孫に当たるとかで、確かに、朗々と教養溢れるお祈りをします。
 これがまた、他の人がお祈りを嫌がる理由になっていました。とても、あの人のようには祈ることが出来ないというのです。そうかも知れません。しかし、お祈りとは、教養ではない筈です。そもそも、献金の祈りなのですから、聖書や説教の感想を言う必要もないし、まして批判する必要もありません。

▼赴任一年目ですから、他のことは取り敢えず様子を見てからと考えていましたが、こればかりは見逃しには出来ません。直ぐに改めましょうと提案しました。
 祈りの言葉を知らないと言う人には、見本の祈りを配りました。そして、クドクドと祈るのではなく、献身のしるしとして献げます、清めてご用に用いて下さい、そのことだけ祈りましょうと申し合わせました。
 たいして時間を経ず、このことは当たり前のこととなり、どなたにも受け入れて貰いました。
 しかし、明治の元勲の孫当人は、特権を奪われて、いたく不満だったようです。
 余談ですが、清めてご用に用いていただかなくてはならないのは、お金ではありません。もし本当に、清めなければならないのなら、洗えば良いし 、お札はアイロンをかければ良いのです。
 実際には、清めて貰わないままに、教会のさまざまなお役に就き、わがままを言っている人は少なくないのではないでしょうか。

▼前段が長くなってしまいました。先を急ぎます。
 10年後、他の教会に赴任しました。矢張り田舎の小さい教会です。それでも、前の教会からすれば、倍の人数があります。
 ここでも、全く同じ問題がありました。すっかりなぞったような話です。
 そこで同じ提案をしました。会員全員、アイウエオ順の単純なローテーションで、献金当番に当たりましょう。
 しかし、前任地とは異質な猛反発がありました。
 物理的に出来ない人がいると言うのです。一人は車椅子の婦人、狭い会堂の会衆席の間を縫って献金を集めるのは、確かに困難でした。そうしましたら、他の人から申し出がありました。献金は自分が集めるというのです。そして、車椅子の方には、お祈りだけを担当して貰いました。

▼もう一人は、年齢70歳、松葉杖のご婦人です。松葉杖で両手がふさがっていますから、困難です。しかし、この人は、ただ「やります」とだけ答え、集金係がいるとも言いません。
 当番当日、名前がナ行なので、新しい全員当番制を導入してから、半年以上経っていました。松葉杖をつきながら、献金を集めるのは大変だろうなと、心配でした。彼女は、首から大きな袋を下げていました。この袋の中に、更に、献金を入れる小さな袋が入っています。両手の松葉杖で一歩進み、小さい袋を会衆席の内側の人に渡します。その袋が戻ってくると、また一歩進みます。 
 人によっては袋が回って来てから、財布を取り出し献金しますから、献金係は、むしろ少し待たなくてはなりません。時間的ロスは全くありません。健常者と何も変わらない効率で、役目を果たし終えました。

▼実は、この二人とも、献金係を辞退したいとは言っていなかったのです。周囲の人が気を使って、無理だろうと決めつけていたのです。私たちには、思いやりのつもりで、余計なことを考え、却って邪魔したり、退けたりする傾向があるかも知れません。

▼さて、そんなことでは、根本的に貧富の差は解消されていない、そう批判する人がいるかと思います。それは、そのように言う人が、貧富の差こそが絶対であると考える価値観の中に生きているというのに過ぎません。キリスト者にとっては、貧富の差そのものが相対化されるのであります。
 キリスト者にとっては、礼拝に出て、神さまを讃美することが絶対であります。これを実現するためには、教会までの交通費が要る、時間も必要だし、体力も要る、それが与えられていれば十分に豊かで、それが適わないようだと、貧しさを感じるし、或は病を自覚するのであります。

▼私は一度、こんな献金のお祈りを聞いたことがあります。「今まで貧しくて献金出来ませんでしたが、今日漸く献金出来ます。ありがとうございました」。
 救いに与るのに、貧富の差は関係ありません。勿論、人種も性別も関係ありません。
 貧乏暇なしで、礼拝に出られないようならば、キリスト者として困るけれども、逆に金儲けで忙しくて礼拝に出られないようならば、キリスト者としては、同じように困るのであります。

▼14節以下で述べられていることは、大胆に要約すれば、全体と個、両方が大事ということであります。全体がなくては個々人はないということであり、個々人がなくて全体はないということであります。

▼25~26節。
 『それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり
合うためなのである。
26:もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、
一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ』
 ここでも教会・全体が強調されます。パウロが述べることは、目的を、目標を同じくする共同体でだけ、起こることであります。『一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ』簡単に言えば、利害が一致するのは、この目的・目標を同じくするからであります。

▼27節以下には役割分担、機能の分担があるということが、述べられています。
 ここで、前提を忘れて読んではなりません。これは、身分のことを言っているのではありません。当然、差別とは関係ない事柄であります。教会の中に、身分も差別も存在しません。
 しかし、機能の分担は存在します。共同体が目的・目標を持つから、共同体の目的・目標が、個々人の目的・目標だから、この実現のためには、役割分担、機能の分担が生まれますし、そのことに、誰も不満はありません。

▼話が戻ります。教会は教会を必要としている者のためにあります。一番端折って申しますと、礼拝を守りたい信徒が先ずいます。讃美し、祈るだけなら、信徒だけでも可能でありますが、聖書の説き明かしを聞きたいと思えば、牧師が要ります。小さい伝道所ならば、信徒と牧師がいれば十分ですが、人が多くなると、もっといろんな役割を持つ人が必要になってまいります。このような機能の分化、複雑化は世の常です。魚や米の流通でも同じことが起こります。
 世の中の価値観では、どうしても、この流通の最後の方の仕事をする人が、偉い者のように見られ、第1次産業の人、つまり、肉体労働者は、軽く見られる傾向がありますが、勿論、間違った判断で、誰もが必要な働きを担っているのであって、正に、職業に貴賤はありません。まして、教会の働きに貴賤はありません。

▼この機会に、ちょっと、主題から外れて申します。教会は教会を必要としている者のためにあります。しかし、お客の求めるものを用意するのが、サービスの良い教会というのではありません。
 教会に置かれているのは、主のみ言葉のみであって、他の品物は、売っていません。
 この辺りのことを間違えて、ない物ねだりをする人がいますが、これは、見当違いの行為です。

▼礼拝に出て、み言葉を聞き、讃美し、祈るならば、教会に求めて得られる物の全てを与えられているのであります。それだけでは満足出来ないと言う人は、どんなに足掻いても、永久に満足できないでしょう。
 教会は何でも売っているデパートではありません。デパートならば、この品が置いてないと文句を言うことも出来ますし、お客のニーズに応えられないデパートは、失格かも知れません。しかし、教会は、お客のニーズに応えるために存在するのではありません。

▼座禅を組むと言う修行があります。座禅は、自分の修養のために行うものであります。座禅を組むことによって、誰かを救うとか、お寺が建つとか、そういうことはありません。自分の目標を持ち、自分で努力してそこに到達する、つまり、自己実現であります。

▼これに対して、教会の礼拝、讃美、祈り、皆、自分の修養のために行われるものではなく、教会の形成のために行われるであります。
 信仰は、自分の修養のためで、自己実現だと考える人が確かにいますが、この人は、教会が分かっていないし、つまりは、信仰が分かっていないのであります。

▼教会即ち、キリストの体であります。キリストの体としての教会の形成のために、頭があり、目があり、耳があり、手足があります。頭のために目が在るのでも、目のために頭が在るのでもありません。

▼最後に、31節。
『だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさ
い。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう』
 大いなる賜物とは何でしょうか。最もすぐれた道とは何でしょうか。13章の全体です。愛であります。
 13章だけを切り離して読むから、理想主義的に、観念的に愛を論じているように映ります。しかし、極めて具体的な、そして、理想とは程遠いコリント教会の現状の中で、この言葉は語られているのであります。特に4~6節などは、全部コリント教会の現実と逆だと見て良いでしょう。

▼パウロが言いたいのは、こういうことであります。教会の形成と言う具体的目標に、微力であっても、参画して働こうという者は、その努力の中から、教会への愛を、そして、礼拝共同体の仲間への愛を学び獲得するのであります。自己実現しか頭にない者は、これを絶対に得られないのであります。
教会のために何が出来るだろうと発想することの出来る者が、教会から、最も大きな賜物を得ることが出来るのであります。『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。』一番大事なものだけを求め時に、本当に豊かなものが与えられるのであります。

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