主は愛する者を鍛える

2014年8月17日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
 「わが子よ、主の鍛練を軽んじてはいけない。
  主から懲らしめられても、
    力を落としてはいけない。
  なぜなら、主は愛する者を鍛え、
  子として受け入れる者を皆、
    鞭打たれるからである。」
 あなたがたは、これを鍛練として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい父から鍛えられない子があるでしょうか。
 もちだれもが受ける鍛練を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛練というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

ヘブライ人への手紙 12章3節〜13節

▼本日与えられた聖書日課は、ヘブライ書12章3節以下であります。
 何故、素直に1節からではないのでしょうか。それで何か不都合があるなら、何故4節からではいけないのでしょうか。そもそも、3節から読む理由は何でしょうか。
 こういう場合、考えられるのは、口語訳聖書では、3節からの区切りになっているかも知れないということであります。
 しかし、口語訳聖書を開きますと、4節での段落区切りはなく、1節からずっとそのまま続いています。

▼1~2節は、一緒に読まない方が良いということしか考えられません。1~2節を一緒に読むと別の主題になってしまう。そういうことでしょうか。
 むしろ、1~2節と、3節以下と、全く同じ主題を持っており、1~2節を読むと、3節以下が必要なくなってしまうということに理由がありそうです。少なくとも、多くの牧師が、1~2節に焦点を当てて説教することになると考えます。
 そこで、聖書日課を尊重して、敢えて、1~2節には触れずに、読んでまいります。

▼3節。
 『あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、
御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい』。敢えて3節から読む、これは、3節こそが中心的聖句だと言うことを意味します。
 『気力を失い疲れ果ててしまわないように』
 こういう現実があったに違いありません。11章には、旧約聖書の物語から、試練に出会いこれを忍耐した人たちのことが、例として上げられています。神さまによって、特別な光栄ある任務へと招き入れられた人々の人生は、それ故に、神さまの見守りがあり順風満帆だったかと言えば、むしろ真逆でありました。過酷なものでありました。

▼今、ヘブライ書を読む教会員も、神さまの招きによって、この場に立っています。それでは、彼らの宣教、彼らの教会形成は、すこぶる順調に運んだかというと、そうではありません。むしろ、辛い、挫折の多いものだったようであります。
 彼らは『気力を失い疲れ果てて』いたようであります。
 それも、仕事が困難だったからというだけではありません。なかなか進捗しないという理由ではありません。それを妨げる存在があったのであります。迫害、弾圧、それ以上に、教会の内部にこそ、さまざまな異なる考え方、異端思想が生まれ、正しい教えを否定しました。

▼『御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方』、勿論、イエスさまのことであります。
 イエス様ご自身が、『気力を失い疲れ果ててしま』うような、試練、むしろ裏切りに遭われたのであります。
 『このような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい』、イエス様がどんな体験をされたか、その中で、何を教えられたかを、『よく考えなさい』、そうすれば、今受けている試練も、耐えられ無い者ではなくなってくる、という意味であります。

▼試練、むしろ裏切りに遭うことは、イエス様と同じ体験をしたということであり、イエス様と同じ道を歩いているということであります。
 否、むしろ、4節。
 『あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません』。
 未だ足りないと言うのであります。イエス様が味わった苦しみに比べれば、未だ足りないと言うのであります。
 『罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません』
 足りないのは、苦しみというよりは、戦いそのものであります。『罪と戦って血を流』したか、流したことがあるかと、逆に問われているのであります。
 何故に私はこんなに苦しむのですか、苦しまなければならないのですかと、問う人に、あなたの苦しみは、未だ足りないと言うのであります。戦いが足りないと言うのであります。

▼残酷な言葉かも知れません。あまりに辛くて受けとめられないかも知れません。
 しかし、ここにだけ真実があります。ここにだけ真実の慰めがあります。
 温井徳郎という小説家に、『夜想』と言う作品があります。この小説自体大変興味深く、後日、月報で紹介したいと考えています。今日は作品や作家のことは省略してお話し致します。『夜想』に、端役ですが、池袋の母と呼ばれる占い師が登場します。彼女の前には、長蛇の列が出来ています。その多くが、若者であります。主要登場人物である中年の母、家出した娘を捜してここまで辿り着いた母は、この光景を見て、つぶやきます。「この若者たちには、何の苦しみも悩みもないだろうに、何故」。

▼占い師の元に群がる若者には、深刻な悩みなどありません。この小説は、乱暴な言い方をすれば、新興宗教の誕生と崩壊を素材としていますが、この新興宗教に関心を持って寄って来る若者たちも、それぞれに新興宗教に惹かれる何かしらの理由があるとは言え、それは、深刻なものでも深い求道心に基づくものでもありません。むしろ、一緒のサークル活動的魅力なのであります。
 どんなスポーツでも、そんなに安易に出来るものではありません。準備もトレーニングも要りますでしょう。何より、能力、適正が問われるでしょう。新興宗教は、何の備えも要らず、努力も要らず犠牲も伴わない、少なくとも初期の段階では、全く安易な、サークル活動なのであります。

▼若者以外に集まるのは、ご教祖に祭り上げられた美少女の霊的能力によって金儲けを図る事業家、そもそも、新興宗教を立ち上げることで一儲けしようと考える人、この人は以前に他の新興宗教に関わり、新興宗教運営のノウハウを持っています。
 それから、美少女のご教祖飲む近くにいることで、何か自分が重要な存在になったかのような、快感を感じる有閑夫人たち。更に、新人獲得競争に励む学生たち。彼らは、それぞれに、新興宗教を楽しんでいるのであります。
 しかし、そこには救いはありません。主人公は、自分が運転する交通事故で、妻と娘を一度気に失ったサラリーマンであります。車に閉じ込められた妻と娘が、目の前でもだえ苦しみ焼け死ぬのを、ただ見ているしかなかった人であります。
 彼は、救いではなく、何か他のものを、つまりはどんな形で荒れ、御利益を求めて、この新興宗教に集まってくる人々に耐えられなくなって行きます。

▼7節。
 『あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい』。
 『これを』とは、5~6節のことであり、ヘブライの教会の人々が体験した試練、苦しみのことであります。
 肝心なことは、試練、苦しみの意味なのであります。それが、何に由来するか、誰に由来するか、なのであります。

▼『あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません』。
 未だ苦しみが足りないと言っています。しかし、これは言い換えれば、苦しみは神さまに由来する、神さまが与えて下さったものなのだということであります。
 つまり、偶然ではない。無意味ではないということであります。

▼7節の続き。
 『神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない
子があるでしょうか』
 これは、一番簡単に言えば、その苦しみを神さまは知っておられるということであります。苦しみは神さまに由来する、神さまが与えて下さったものなのだということであります。

▼山本周五郎の小編に、こんな場面があります。実は題を忘れて、簡単には調べられません。
まあ、詳細は兎も角、内容は確かであります。
 剣道場の師範が、門弟の少年に体罰を与えます。それは、水の入った重い桶を持って、立たされるものであります。
 少年が罰を受けている間、師範の方も、少年には見えない所で同じように水桶を持って立っていたという、引用したいのは、それだけのことであります。
 体罰を肯定するつもりはありません。しかし、体罰を避けることが、単に、面倒を避けることでしかなく、責任回避でしかない場合もあります。面倒を避け、小手先だけで問題をすり抜けてはいないでしょうか。

▼同様に、真の救いと、それに至るために必要な試練を避け、ただ楽しいだけの教会形成を目指すことは出来ません。どんなに大勢の若者が集い、諸活動が活発であろうとも、それは救いではありません。十字架が語られていなければ、十字架による贖いが語られていなければ、それは救いではありません。福音ではありません。
 8節。
 『もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、
それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません』
 友達親子という言葉があります。親と子とが、友だちのように仲が良いというのであります。母と娘がペアルックだったりします。そのこと自体は結構でしょうが、それで、それだけで親の役割を果たせるものではありません。

▼十字架が語られる、十字架による贖いが語られるということは、別の言い方をすれば、悔い改めて福音を信じなさいということであります。悔い改めが必要なのであります。親が子に対して、神さまが人間に対して、悔い改めを迫ることが必要なのであります。
 あるがままに、全てを肯定することは出来ないのであります。それで人間が救われるのならば、十字架は無用であります。
 先程、温井徳郎の『夜想』に、端役で登場する池袋の母のことをいいました。遠藤周作が、新宿の母と呼ばれた実在の占い師について記しています。
 占い師・新宿の母は、手相を観て、あなたはとても良いものを持っているのに周囲から充分に理解されていない、評価されていないと語り始めるのだそうであります。
 こう言いますと、特に女性の場合、ほぼ100%の人が、その通りだ、この人の手相見は当たっていると考えるのだそうであります。

▼つまり、殆どの人が、自分の客観的評価はもっと高い筈だと考えているのであります。不当に低く評価されていると考えているのであります。本当は、世間に観られているよりも、自分はもっと美人だ、忙しくて化粧どころではないし、ブランドもののアクセサリーも持っていないけれども、ちゃんとしさえすれば、本当は負けていないのに、もう少し痩せさえすれば、自分の本当の姿が見えるのに、そう
 男は男で、チャンスさえあれば、自分の質力を認めて貰えるのに、そう考えているのであります。
 自分で自分を肯定しているのであります。
 ただ、今は、鍛えるチャンスが時間がありません。そう考えているのであります。

▼その事実を指摘したら、新宿の母の前に、行列は出来ません。本当のことを言ったら、みんな逃げ出してしまうかも知れません。
 自分は正しい評価を受けていないと言いながら、誰も、真実を写す鏡など、欲しくはありません。それは、恐ろしいからであります。
 しかし、聖書は、真実を映し出すのであります。悔い改めを迫るのであります。
 そして、その辛さを通らなければ、救いはありません。

▼9~10節。
 『更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、
その父を尊敬していました。それなら、なおさら、
  霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、
  自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、
  御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです』
 
▼これはトレーニングの比喩でありましょう。肉体を鍛えるのにもトレーニングがあります。もっと大事な精神を、魂を鍛えるのに、トレーニングなしで済ませられる筈がありません。しかし、肉体を鍛えるトレーニングに熱心な人は無数にいますが、精神を、魂を鍛えるトレーニングは、歓迎されません。
 私は昔一時期だけ、統一原理の救出運動に拘わっていました。この時に、何とも不思議なことを知りました。統一原理に捕らえられた若者たちは、当初こそ、原理講論を読みます。しかし、間もなく、似非募金などに駆り出されてしまいます。全く、勉強などしなくなる出来なくなるのであります。
 そして、統一原理の教えの内容は、その時々の都合に合わせて変わりますから、実は、末端の信者は新しい教え、情報を知りません。
 あなた方は、このように教えられているのですよと、教えてあげて、その上で、しかし、それは間違いですよと、ただしてあげなくてはなりません。まして、聖書は殆ど読んでいません。 
▼11節。
 『およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、
悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、
義という平和に満ちた実を結ばせるのです』
 全くその通りであります。誰にも否定出来ないでしょう。しかし、この真実は、あまり歓迎されないのであります。退屈な真理は歓迎されません。きらびやかなまやかしが歓迎される、それが事実であります。それが人間の罪の現実であります。

▼12節。
 『だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい』。
 『萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにし』歩き続けなくてはなりません。今まで歩いて来た道をであります。
 悔い改めとは、方向転換することであります。しかし、今は、方向転換することが求められているのではありません。今まで歩いて来た道を歩き続けることが求められているのであります。
 立ち止まることは不信であります。疑いであります。

▼13節。
 『また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、
自分の足でまっすぐな道を歩きなさい』
 『まっすぐな道を歩』くことが、何よりも肝要であります。真っ直ぐに歩き続ける、これ以外に信仰の道はありません。

▼さて、最初に戻ります。聖書日課に従って、3節以下を読んだのでありますから、最後に、1~2節を見ても問題ないと考えます。
 1節。
 『こういうわけで、わたしたちもまた、
  このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、
すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、
自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか』
 『このようにおびただしい証人の群れ』とは、11章に上げられた人々のことであります。 彼らが、試練の中で信仰を全うし、単に試練ではなく鍛錬とし、ついには救いに至ったのであります。だから、私たちも『自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか』。
 『忍耐強く走り抜』くしか、救いの道はありません。

▼『すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて』
 こういうものが私たちを、救いの道から遠ざけているのであります。妨げているのであります。『すべての重荷や絡みつく罪』が、具体的に何かは分かりません。一人ひとり違うのかも知れません。しかし、こうしたものを抱え込んでいることは全く事実であります。
 自分に拘泥してはなりません。自分の罪に閉じ籠もっていてはなりません。そこから自由にならなくてはなりません。自由になる術は、十字架を見上げることしかありません。
 どうして、『すべての重荷や絡みつく罪』に拘るのでしょうか。これらを大事に思っているのではないでしょうか。信仰よりも、救いよりも、これらを大事なものと思っているのではないでしょうか。
 それでは救いの道を歩むことは出来ません。

▼2節。
 『信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、
神の玉座の右にお座りになったのです』  
 十字架を見上げることだけが、救いの道なのであります。
 私たちは、今も、こうして、十字架を見上げているのであります。それが、礼拝であります。 『すべての重荷や絡みつく罪』に拘っていては、捕らえられていては、大事に思っていては、礼拝を守ることは出来ません。救いの道を歩むことは出来ません。

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