新しい生き方に

2014年8月31日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはいけません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今から盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒い捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

エフェソの信徒への手紙 4章17節〜32節

▼順に読みます。17節の終わりから18節。
 『彼らは愚かな考えに従って歩み、18:知性は暗くなり、
  彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、
  神の命から遠く離れています』
 実に容赦のない表現であります。『異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み』何と『愚かな考え』であります。『知性は暗くなり』『無知とその心のかたくなさ』。
 これ以上はないような侮蔑的な形容が次々と重ねられています。
 馬鹿で頑固で、わがまま、そのような意味でありましょうか。

▼しかし、これらの表現は、あまり具体的ではありません。異邦人の生き方の何が悪いのか、どうして異邦人は、ここまで強く批判されなければならないのか、この箇所だけでは殆ど分かりません。
 『愚かな考え』『知性は暗く』『無知とかたくなさ』、あまりにも漠然としていて具体性がありません。具体性がないから、単なる悪口に聞こえます。
 また、厳密に言えば、今、エフェソ書が語っているのは、エフェソの教会員に対してであって、直接、異邦人に向かって語られているのではありません。
 最も、エフェソの教会員の中には、異邦人、つまり、ユダヤ人から見た外国人、或いはユダヤ教から見た異教徒が、少なくなかったと考えられます。ギリシャ人やローマ人、つまり異邦人の方が多かったかも知れません。

▼この問題はひとまず置きまして、19節を見ます。
 『無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけって
とどまるところを知りません』
 『無感覚になって放縦な生活をし』、『ふしだらな行い』、少し分かってきたような気がしますが、では、『放縦な生活』『ふしだらな行い』とは何か、どんなことなのか、未だ具体的とは言えません。
 
▼具体的なことが記されているのは、22節以下であります。
 『以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、23:心の底から新たにされて、
 24:神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正し
く清い生活を送るようにしなければなりません』
 『以前のような生き方をして情欲に迷わされ』云々、これは、決して抽象的な表現ではありません。具体的な表現であります。『真理に基づいた正しく清い生活』もそうであります。
 22節以下を踏まえて、もう一度、17節以下を読めば、ここも、具体的に見えてまいります。
 要するに、キリスト教的な倫理に生きるということであります。教会人として生きるということであります。神さまを信じ、イエスキリストの十字架と復活を信じて生きるということであります。

▼その逆の生き方が、『愚かな考えに従って歩み、
 18:知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、
神の命から遠く離れています』。
 要するに、神さまを信じていないのであります。イエスキリストの十字架と復活を信じていないということであります。

▼一番簡単に言えば、神さまを信じ、神さまを求めて生きるか、それとも他のものを信じ、求めて生きるのか、そういうことであります。
 もう一度18節に戻ります。
 『神の命から遠く離れています』
 これが一番厳しい裁きの言葉であります。そして、ここに異邦人が批判されなければならない理由が存在するのであります。
 異邦人は、『神の命』を信じないし、その結果は勿論、『神の命』を求めません。
 何か、他のものを求めているのであります。そのような生き方こそが、使徒パウロによって、愚かだと批判されているのであります。
 何も、キリスト者の方が、異邦人よりも優れているとか、偉いとか、そういうことを言っているのではありません。そうではなくて、異邦人は『神の命』を信じない、『神の命』を求めない、そのような生き方を、根本的に、私たちとは違っているとして、退けるのであります。
  
▼22節の『情欲に迷わされ、滅びに向かっている』この表現は、ごく具体的なことなのかも知れません。使徒パウロはしばしば異邦人・ギリシャ人やローマ人の性生活を批判しています。彼らの性的な倫理を、正に『放縦な生活』『ふしだらな行い』と呼んでいます。
 しかし、それが一番の問題なのではありません。彼らの性的な倫理は、彼らの人生観、彼らの信仰の表れなのであります。つまり、問題は、『神の命』を信じない、『神の命』を求めない生き方なのであります。

▼ここで、私たちも、自分たちの姿を振り返って見なくてはなりません。
 かつて教会は、厳格な倫理を持っていました。特に性に関して、厳格な倫理を持って、この世に向かい合っていました。
 明治以前の日本のように、性的にふしだらな人々にも、厳格な倫理を持って、向かい合いました。そのことで、多くの人々の反感を買ったかも知れません。奥さんの他にお妾さんを持っていることが当たり前だった人々は、キリスト教を憎んだかも知れません。
 しかし、また、多くの人々が、このキリスト教の倫理の故に、教会に、新鮮な魅力を感じたのも事実であります。
 
▼今日、自由と言えば聞こえは良いのでありますが、教会とこの世との違いはだんだんなくなってきています。最早、教会人の方が、一般の人よりも倫理観が高いとは言えないかも知れません。
 聖書の中であからさまに批判されているような事柄が、教会の中で、まかり通っています。
 しかし、問題は、倫理観の向上という次元の話ではありません。
 倫理観ということならば、確かに、時代によって、民族によって、大きく違うのであります。何が正しい倫理で何が間違っているのか、そんなに明確なことではありません。
 問題なのは、『神の命』を信じない、『神の命』を求めない、そのような人々が、教会の中に入り込んだら大変だということであります。
 一番簡単な言い方をすれば、教会の世俗化ということであります。

▼教会の敷居を低くするという表現がしばしばなされます。間違いだとは言いません。しかし、敷居を低くするということは、外からいろんなものが入ってくるということだし、教会の中から、いろんなものが出て行くということでもあります。それを覚悟しなくてはなりません。

▼25節。ここには、実に具体的に、キリスト者の生きるべき道が説かれています。
この勧めを、やたらに細かい規則のように受け取ってはなりません。こうるさい規定、まして律法ではありません。そうではなくて、『神の命』を信じ、『神の命』を求める生き方なのであります。
 26節『怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒
ったままでいてはいけません』。
 『怒る』、これこそ、自分の感情に忠実なことであります。怒りに任せて、人を傷つける、そこには神さまがいないのであります。自分の感情が神さまになってしまっているのであります。私たちの罪を贖うために十字架に架けられた方のことを忘れているのであります。
 私たちが最も怒るのは、自分が正しいことを行ったのに、正しいと認められなかった時であります。不正な者が評価された時であります。そのような不正は見逃すことが出来ないと言って、自分の手で正義を行使しようとするのであります。そして、十字架に架けられた方のことを忘れるのであります。

▼かつて日本には、傍若無人という言葉がありました。今は死語であります。
 駅のホームでスマートフォンを使っていて、人に突き当たっても平気で、ごめんなさい一つ言いません。大きなリュックを背負っていて、その人が急に振り返ったりすると、小柄なご老人などは、つき飛ばされて、ホームから落ちそうになることさえあります。私は何度か、切羽詰まった事態を目撃しました。同じような体験をした人は少なくないようであります。
 優先席で電源を切らずにゲームをしているとか、酷いのは通話しています。
 これはマナーがどうのこうのという話しではなくて、周囲に誰もいないかのような行動を取るのであります。
 これを傍若無人といいます。

▼お天道様が見ているという表現もありました。誰も見ていなくとも、お天道様が見ている、だから悪いことは出来ないという教えでした。今は、防犯監視カメラですか。
 要するに、神さまがいないのであります。人に見られたら恥ずかしくて、出来ないようなことを平気でする。神さまがいたら、恐ろしくて出来ないようなことを平気でする。これは、傍若無人であり、傍若無神ではないでしょうか。

▼27節『悪魔にすきを与えてはなりません』。
 悪魔は、人の心の隙間に入り込んで来ます。怒りに我を忘れる、これは、悪魔に隙を見せることであります。
 28節と25節は、当たり前と言えば当たり前のことであります。しかし、現実には、人の弱みにつけ込んだり、騙したりしてでも、お金を儲けようとする者が少なくありません。お金が正義と考える人が少なくありません。悪事を働いてでも、お金や地位を獲得した者が、勝ちなのであります。そのように考えるのは、この人の心に、この人の側には、神さまがいないからであります。傍若無神であります。

▼29節は、信仰者はお上品でなければならないと言っているのではありません。これも、信仰の事柄であります。私たちの心には聖霊が注がれています。そのことを信ずるならば、自ずと、遠ざけなければならないことがあります。誰に言われなくても、そのようにします。美しいもの、尊いものを目にしたならば、汚いものは退けます。
 最も、汚らしいものは、31節に挙げられたものであります。
 ここで、改めて、そのように振る舞う根拠が述べられています。
 32節、『神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように』。これであります。
 神さまの赦し、つまりは、十字架であります。十字架による罪の赦しを信ずるかどうかであります。もし、十字架が単に自己犠牲とか、権力への抵抗運動であるならば、このような倫理は生まれて来ません。
 
▼4章17節をもう一度ご覧下さい。
 『そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、
異邦人と同じように歩んではなりません』。
 『そこで』に当たるのは、4章1~16節であります。
 この箇所を詳しく読む時間はありません。しかし、2~4節当たりをご覧いただければ、どのような文脈で、17節以下が語られているかが、分かります。
 『一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって
互いに忍耐し、
3:平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
4:体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあ
ずかるようにと招かれているのと同じです。
5:主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、』

▼4章の初めの方に記されていることと、17節以下に記されていることとは、内容的に、全く重なります。ここで説かれている倫理は、極めて具体的なものであります。
 教会を形成する倫理であります。決して、一人の人間の品性を磨き上げる道徳的訓練ではありません。
 極めて具体的なもの、教会の中で、互いに交わり、一緒に礼拝を守るために、是非とも必要な、倫理なのであります。
 逆に言えば、一人の人の信仰も、そして信仰的な品性も、教会の中で、互いに交わり、一緒に礼拝を守るという具体的な業を通して、得られるものなのであります。
 学問研究や、修行で得られるようなものではありません。

▼何時も、似たようなことをお話しているかも知れません。
 真の一致を得るためには、本当に一致しなければならないことだけに集中することであります。未だ一致が出来ないのは何かが足りないからだと思って、更にいろいろなものを持ち込むと、分裂・離反の種が増えてしまうだけであります。
 本当に大事なこと、本当に大事なものを守らなくてはなりません。

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