妬みは永遠の命を失う

2014年9月7日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。
 『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、
  あなたがたが、地の果てにまでも
     救いをもたらすために。』」
 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや、町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

使徒言行録 13章44節〜52節

▼50節から読んでまいります。
 『ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、
  パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した』
『神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々』とはどのような人でありましょうか。
 貴婦人と訳されている字は、厳密には上流階級の女性の意味だそうであります。貴婦人と上流階級の女性と、全く同じではありません。ユダヤ人でも、貴婦人と呼ばれる可能性はありますが、上流階級の女性とは呼ばれないでしょう。何しろ、ローマの支配下にある町で、ユダヤ人は被占領民族なのでありますから。

▼『町のおもだった人々』つまり、有力者も同様であります。ユダヤ人の大金持ちも有力者も存在したでしょうが、ここで『おもだった人々』と訳されている字は、第一人者とか高貴な人とかの意味でありまして、やはり、社会的な身分のことを言っていると取ることが出来ます。
つまり、ユダヤ人たちは、ユダヤ教の信仰に帰依しているローマ人の上流階級の女性や、多分その夫たちを煽動したのであります。
 では、当時のユダヤ教の指導者たちは、ローマ人の上流階級の人々に影響力を行使できる程の存在であったのか。とても、簡単には言えません。

▼地中海世界の各都市には、金持ちの軍人・役人や商人がいて、自分の子供たちに、ローマの都でも通用するような、高い教養を身につけさせたいと考えていました。そこで、多くのユダヤ人律法学者が家庭教師として雇われて、多くの場合、彼らの邸宅に住み込みます。
 ローマは既に世界帝国でありますが、何と言っても、野蛮な状態から、にわかに起こった新興国家でしかありません。その有力者といえども、軍人の成り上がりでしかありません。文化・教養の点では、劣っていました。それを自覚しなければならない程に、遅れていました。日本の明治維新期、鹿鳴館時代のことをお考えいただければよろしいかと思います。
 この箇所に描かれるユダヤ人たちと『神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々』との関係は、そのようなものだったと想像出来ます。

▼伝統的ユダヤ教の信仰から逸脱しているキリスト教に対して、このユダヤ人たちは、激しい嫉妬、憎悪を覚えます。
 それは、自分の立場が矛盾に満ちているからではないでしょうか。真に伝統的ユダヤ教の信仰に立ち、その立場を貫くならば、ローマの貴婦人の家に出入りし、阿り、生活の糧を得るなどということが出来る筈がありません。
 その点を曲げて、ユダヤ教の信仰の一部である学問・教養を切り売りし、異邦人の食客となっています。だからこそ、真っ正面から、ローマの偶像崇拝的文明を批判し、己の立場信仰を全く貫いているキリスト教の宣教者が、目障りで仕方がありません。
 キリスト教の伝道者の存在が、その宣教が、ユダヤ人教師たちの矛盾を告発するのであります。

▼貴婦人たちとは、どんな人たちであったのか。私は、平安朝の貴族階級のご婦人や、革命前夜のロシアのそれを連想します。まあ簡単に言えば有閑階級であります。当時女性にとって、何か生産的なことや芸術的なことに関与することは大変に困難でありましたし、ご婦人にも許される神信心に逃避する者が少なくありませんでした。そうした人々にとって、ユダヤ教は、流行の先端を行く宗教であります。教養と言ってもよろしいでありましょう。

▼しかし、彼女らは、本当にユダヤ教の信者となることはありません。ユダヤ教の信者となるとは、割礼を受け、律法を守り、ユダヤ人となることであります。上流階級に属する者が、その地位を捨てて、被征服民に身分を落とす筈がありません。
 逆に言えば、絶対に真の信仰・真の神を受け容れて、信者となる可能性のない中途半端な者に対して、中途半端に聖書を教えたりしているのが、ユダヤ人教師の実態なのであります。

▼改心を迫らない伝道は、下心を剥き出しにしない、品の良い伝道でしょうか。そもそも伝道なのでしょうか。
 矢張り伝道ではないと思います。綺麗なことを言っても、伝道ではなくて、ただの儲け仕事であります。
 その方法論は兎も角、悔い改め、改心を迫って初めて伝道であります。

▼さて、今度は、44節、48節の群衆をご覧下さい。
 彼らは上流階級の人々ではありません。市民階級か、もっと下の階級に属します。しかし、彼らも、神を、信仰を求めていました。 信仰が単に教養か嗜みでしかない貴婦人たちよりも、もっと、切実に求めていたと考えられます。
 しかし、その機会がなかったのです。

▼大分連想が飛躍するかも知れませんが、私は、『風と共に去りぬ』に描かれるようなアメリカ南部の教会を思い浮かべます。
 当時の貴婦人にとって、貴婦人である絶対の条件として、信仰が上げられます。日曜日毎に着飾って教会に行き、自分たちに用意されている特等席に座ることは、貴婦人であるための必須の条件であります。
その馬車を引く黒人奴隷は、教会の中に入ることさえ出来ません。黒人は、教会から、信仰そのものから、全く疎外されていました。

▼当時だって牧師は神の愛について語ったことでしょう。人を分け隔てなさらない神の愛について語ったことでしょう。しかし、牧師も貴婦人もその神の愛の対象に、黒人が該当するとは考えてもみなかったのであります。
では、黒人は、自分たちを疎外する教会、信仰そのものを憎んだか、否、彼らに熱心な信仰が与えられていくのであります。

▼この辺りのことは、最近相次いで刊行された出版局の『ハリエットの道』『リンチの木』をお読みいただければ良いと思います。
 『ハリエットの道』は、おひさま文庫に、『リンチの木』は、マナの文庫にあります。

▼ここ数週の間に何度か、当時のキリスト教を今日の新興宗教に準えて、両者の共通点や相違点などを指摘してきました。しかし、この箇所などは、新興宗教よりは、宗教改革に比較すべきでありましょう。
 宗教改革前夜、教会と領主・貴族との関係は微妙なものであります。ローマは、諸侯の上に君臨していますが、各個教会は国王・領主の傘下にあります。村には村の教会の他に、領主館の中にも教会があります。村の神父さんは、大抵無教養でラテン語を読める人も少なかったと言います。それどころか、読み書きが全く出来ない者が多く、ミサの典礼文は、丸暗記しているのであります。

▼結果、間違いが多くなります。そうしますと、村で唯一読み書きが出来る領主の夫人は、と言う意味は領主も読み書き出来ない場合が多いのでありますが、読み書きが出来る領主の夫人は、いらだち、司教の所に、もっとましな神父を送ってくれるように頼んだりするのであります。  

▼そして、普段の日曜日には村の教会の特等席に座って礼拝を守りますが、葬儀や婚礼その他の特別な日には、同じ貴族階級の者を迎えますから、お城の中の教会で、よその町から地位の高い司祭を迎えて礼拝を持つのであります。
 一般の村人は、もちろんのこと、ラテン語の読み書きが出来ませんから、自分で聖書を読んだことはありません。教会のステンドグラスに描かれた聖書物語だけが、彼らの聖書の知識の全てであります。
つまり、教会も聖書も、司祭も、要は信仰そのものが、貴族の持ち物だったのであります。領主の信仰が替われば、村人の信仰も変えられてしまうのであります。

▼教会も聖書も、司祭も、要は信仰そのものが、私物化されていたのであります。貴族はこれらのものを所有していたのであって、教会に仕えていたのではありません。ややもすれば、神さまそのものが持ち物だったのではないでしょうか。これでは、イザヤやエレミアが批判して止まない偶像崇拝と同じであります。

▼以上申し上げたことは、15世紀までのイギリスの様子であります。他のキリスト教国家でも、大差はないでありましょう。
 イギリスの小説『ヒストリアン』や『大聖堂』に、詳しく描かれています。何れも、大ベストセラー小説であります。
 宗教改革が、このような状況を全く変えたのであります。人々は、初めて聖書を手にし、神の言葉を直接に聞き、そして、自分の言葉で祈り、歌ったのであります。

▼しかし、宗教改革前夜の状況は、今日の教会で、未だ続いています。否、生き返って来ています。今の一般庶民が、当時の貴族以上に、豊かな暮らしをし、教養があるからでしょうか。
再び、教会も聖書も、牧師も、要は信仰そのものが、持ち物となり、私物化されています。人々はこれらのものを所有しようとして、これらに仕えようとはしません。
 このことは、何より、伝道意欲の低下となって表面化しています。教会に新しい人を迎えて、教会が新しくなることを喜ばないのであります。それよりも、教会に於ける自分の存在感の方が大事なのであります。

▼イスラエルの民は、神さまによって自分の民・神の民と呼ばれました。しかし、周囲の民族は、ユダヤ人を神を持たない民族であると罵りました。
 それは、両方とも正しいのであります。神の民とは、神を所有する民ではありません。神に所有される民なのであります。
 偶像を拝む民は、自分たちは、金で作った立派な神さまを持っている、おまえたちは何も持っていないじゃないかと罵るのであります。
 その通りであります。神の民は、神を持つ民ではありません。
 同様に、神の教会とは、神を持つ教会ではありません。

▼イスラエルの民が、神の民と呼ばれるのは、神さまを独占して、他には与えないからではありません。イスラエルの民は、祭司民族であれとも言われております。むしろ、他の民族に真の神を宣べ伝え、教えるのが、神の民たる者の努めであります。
 同様に教会も、十字架と復活の神を宣べ伝え、教えるのが、努めであります。独占してしまってはならないのであります。

▼ もう一度、44節と、48節を読みます。
 『次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た』
 『異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。
  そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った』
信仰の激しい渇きがあったのでしょう。彼らは、飢え渇いた者のように、命の水を飲んだのであります。
 それに対して、信仰を教養としている貴族は、飢えも渇きもなかったのでしょうか。飲もうとさえしないのであります。既に満ちたりているのであります。変わろうとしないのであります。変えられる必要があるとは思っていないのであります。

▼飢え渇いているとは、別の言い方をすれば、変えられることを望んでいるのであります。求めるとは、本来そういうことでしょう。勉強することだって、究極は新しい知識によって、体験によって、自分を変えることなのであります。
 だから、信仰が単に教養であって、知識であって、自分を変える姿勢がない者は、本当には、教養だって、知識だって身に付かないのであります。
教会で聖書の勉強をしているのに、礼拝を守っているのに、自分を全く変えるつもりがない人は、変えられる必要があると考えない人は、信仰を単に教養・知識としているのだし、否、教養・知識にさえなっていません。
 求めていない者には、与えられません。

▼ マタイ福音書7章7節以下。
 『「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
8:だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
9:あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
10:魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
11:このように、あなたがたは悪い者でありながらも、
自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、
求める者に良い物をくださるにちがいない』
神の言葉が与えられるのは、それを求めて止まない人に対してなのであります。生命の水を飲むことが出来るのは、渇いている人なのであります。
むしろ、拒んでいる人、神の言葉を、神の言葉によって変えられることを、拒んでいる人、そういう人には、与えられません。

▼礼拝も、聖書研究祈祷会も、様々なプリントも、求める人のためには、常に用意されています。
そして、これらは、単に信仰的教養を増し加えるために存在するのではありません。神の言葉によって養われ、育つために、即ち、変えられるために存在するのであります。

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