罪を贖う唯一の犠牲

2014年10月5日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自身を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

ヘブライ人への手紙 9章23節〜28節

▼『写し』という字が繰り返し使われています。『写し』と言いますと、役所に提出する書類を連想致します。原本の写し、内容は原本と同じだけれども、原本そのものではありません。『写し』が、公式なものとなるためには、その証明が必要であります。原本の『写し』に相違ありませんと、署名捺印して、初めて法的に有効になります。

▼23節。
 『このように、天にあるものの写しは、これらのものによって
清められねばならないのですが』
 この『写し』を、今お話ししたことと重ねて読めば、9章の前半に記されている儀式や犠牲によって、署名捺印ではないかも知れませんが、証明されて、初めて本当のものになるというような意味合いだと解釈できます。

▼23節の後半。
 『天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません』
 そのまま、『写し』の延長で読めば、『天にあるもの自体』つまり、原本そのものは、より確かな署名捺印が要ると言うような話になりまして、ちょっとややこしくなります。
 しかし、確かに、原本そのものにも、署名捺印が要ります。

▼同じ字を、口語訳聖書では、23節が、『ひな型』、24節が『模型』と訳されています。
 『ひな型』、『模型』、『写し』だと、コピーでしょうか。
 何れにしろ、偽物、まがい物という響きがあります。
 コピーを取ることは、昔は大変でしたが、今は実に容易・安易にできます。そして、オリジナルと、寸分違いません。
 最近は3次元コピー、つまり、立体コピー機もあります。現物は見たことがありませんが、拳銃でさえ作れるというのですから、たいした能力であります。

▼絵画に関しては、初歩的な知識さえ欠けているので、分かったようなことは何も言えませんが、偽作、贋作を主題とした小説は少なくありません。
 高橋克彦の浮世絵もの、ケン・フォレットの『モジリアーニ・スキャンダル』などを読みました。
 偽作と贋作は別物だそうであります。
 偽作を辞書で調べますと、にせものとも呼ぶ、収集者や鑑賞者を欺く目的で,意図的に偽造された美術作品等を指すと、定義されています。
 これに対して、贋作は、辞書で見ると、偽作と区別されていませんが、高橋克彦の定義によれば、本物の真似ではなくて、本当の作家、例えばゴッホが実際には描くことのなかった素材を、ゴッホの筆のタッチで描き、これはゴッホの未発見作品だと偽ることであります。
 ケン・フォレットの『モジリアーニ・スキャンダル』は、正に、このことを題材としています。

▼推理小説では、偽作はあり得ません。あるとすれば、盗作であります。一方、贋作の方は、ままあります。プロット、トリック、探偵の人物象、殆どの推理小説は、遡れば、コナン・ドイルかアガサクリスティーに行き着くでしょう。 一方贋作は、格好の題材です。コナン・ドイルが実際には書かなかったシャーロック作品が無数にあります。それらは、一つのジャンルにさえなっています。

▼ところで、何故贋作ではいけないのか。勿論、著作権の観点から言ったら、けしからぬことであります。違法でもあります。
 しかし、利用者、購買者の側から見たら、どうでしょうか。本物と寸分違わぬ偽物が、半分の価格で手に入ったら、嬉しいかも知れません。実際には存在しないコナン・ドイルの新作が読めるのは、フアンにとっては嬉しいことであります。
 しかし、コピーとオリジナルは違うと主張したい気も致します。
 昔、山口百恵の『イミテーション・ゴールド』という歌が大ヒットしました。
 ちょっと歌ってみたい気もしますが、礼拝には似つかわしくないでしょう。何より、ジャスラックの管理がありますから、許可を得ないで、公の場で歌うことは、著作権法違反であります。
 引用なら良いかなと考えて、インターネットで捜しましたら、引用も著作権法違反ですと、記してありました。
 
▼さて、少し話しが諄くなっているかも知れません。
 先を読みます。24節。
 『なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、
人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、
  今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです』
 肝心なことは、私たちの教会、私たちの礼拝が、どうなのかということであります。
 『ひな型』、『写し』コピー、まがい物にに過ぎないのかということであります。
 『ひな型』『模型』と言うと、『写し』コピー以上に、本物ではないことが強調されるように思います。私たちの礼拝は『ひな型』、私たちの教会は『模型』に過ぎないのでしょうか。
 24節は、『まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所』と表現しています。エルサレム神殿さえ、『模型』に過ぎないとしたら、私たちの教会などは、単なるおもちゃであります。

▼田舎の小さい教会に赴任した若い牧師たちの話を聞くことがあります。自分の教会は、そして礼拝は、礼拝ごっこでしかないのではないかと、悩み苦しむことがあるそうです。私にも、彼らの気持ちは良く分かります。
 建物も、儀式も、そして牧師も、ミニチュアサイズで、『模型』に過ぎない、単なるおもちゃ、そういう疑念に苦しめられるのであります。
 これが聖歌隊があるような教会、上手なオルガニストが与えられている教会、神学的に優れている牧師がいる教会ならば、間違いなく本物なのでしょうか。
 しかし、本物か偽物かどうかは、決してそこでは決まりません。
 『まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所』は、エルサレム神殿を指しています。こんなに壮麗な神殿は、日本にはありません。そこで行われる祭儀も、とても真似できるレベルのものではなかったそうです。ラビたちの教養知識からしたら、私も含めて日本の多くの牧師は小学生のようなものです。
 大体、ラビならば律法を全て記憶しているのであります。
 しかし、そうしたエルサレム神殿を指して、ヘブライ書は、『まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所』と断定しているのであります。

▼このことは、ひとまず置き、25節を読みます。
 『また、キリストがそうなさったのは、
大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、
  度々御自身をお献げになるためではありません』
 ユダヤ教の大祭司は、『自分のものでない血を携えて聖所に入る』ことを、毎年繰り返します。そのことを、ヘブライ書は、供え物が不完全だから、何度も清められなければならないと、指摘しています。
 また、大祭司が完璧な大祭司ではないからだと、言います。
 それに対して、キリストは、自らの血を携えて、ただ一度だけ、十字架に赴かれました。この犠牲は、完全なる犠牲であります。
 そして全き大祭司によって、全き清めが行われました。
 だから、キリストの十字架は、繰り返し行われる必要がありません。
 これが、ヘブライ書の論法であります。

▼繰り返し献げられる犠牲と、一回だけの犠牲、それが、つまり十字架とユダヤ教の犠牲の違いであります。
 ところで、私たちの礼拝は、どうなのでしょうか。
 毎年どころか、毎週繰り返されます。聖餐式に限定しても、毎月であります。
 一回だけの出来事を、何故に、繰り返すのでしょうか。

▼教会は神の国の模型であります。しかし、神の国の姿を写しているのであります。
 それだけではありません。教会は、神の国の入り口であります。教会を通って、神の国に入るのであります。入り口は、建物の一部であります。そういう意味では、教会は、神の国の一部であります。直接に、神の国と繋がっているのであります。その点では、単に神の国の模型ではありません。

▼壮麗なエルサレム神殿が、単に模型であって、それ以上のものではないのは、神の国と繋がっていないからであります。
 同じことが、礼拝にも、全く当て嵌まります。
 私たちの礼拝は、神の国の礼拝のコピーでしかありません。その通りであります。決して完全なものではありません。大きなパイプオルガンがあって、何十人もの聖歌隊がいて、…それでも、同じことであります。私たちの礼拝は、決して完全なものではありません。
 しかし、私たちが、この礼拝を通じて、この礼拝を通じてだけ、神さまに語りかけ、神さまの言葉に応える時に、この礼拝は神の国の礼拝に結び付いているのであります。

▼26節。
 『もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかった
はずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身を
いけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました』
 前半は、25節の続き、補足的な説明であります。問題は、『世の終わりにただ一度』、十字架の出来事を『世の終わりにただ一度』と表現しています。
 私たちの感覚からしますと、『世の終わり』とは終末の時であり、キリストの来臨の時であります。しかし、ここでは、『世の終わり』と表現しています。
 つまり、ヘブル書では、十字架の出来事は『世の終わり』、終末の始まりであり、終末の時、救いの完成の時なのであります。

▼27節は、この説明であります。
 『また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが
定まっているように』
 口語訳も読みます。
 『そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、
人間に定まっているように』
 語順は違いますが、内容は全く同じであります。
 人は必ず一度死ぬ、そして、必ず、『死んだ後さばきを受ける』、このことに対応するのが、十字架とそして来臨の時の裁きであります。
 
▼この説明は、更に続きます。28節。
 『キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、
二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、
救いをもたらすために現れてくださるのです』
 裁きと救いであります。
 先ず、罪の赦し、十字架による贖いであります。
 罪の赦しを得るために、罪を告白します。これが、礼拝の初めであります。
私たちの礼拝式次第では、詩編交読がこれに当たります。
 今は、詩編150編、聖書日課に従って、全部取り上げますが、本来は、罪の告白が、詩編交読の意味であります。

▼罪を告白した群れに、一人ひとりに、十字架による贖いが語られます。これは、主に聖書朗読と説教でありましょうか。
 説教は、人生論を説くためのものではありません。まして処世訓や、楽しい、勉強になる講話ではありません。説教で語られるべきは、罪の赦しを得るための罪の告白であり、十字架による贖いであります。
 
▼そして、救い。救済の約束。これは、現代の教会で稀薄になってしまっているかも知れません。
 私たちは、イエス様の来臨を待つ人間の群れであります。
 何故日曜日毎に集まるのか、イエス様の来臨を待つからであります。復活の主のお出でになるのを待つからであります。

▼マタイ福音書11章7~8節。
 『ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて
話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそ
よぐ葦か。
 8:では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな
服を着た人なら王宮にいる』
 私たちは何のために、礼拝に集うのか、そこを間違ってはなりません。
 罪の告白、罪の赦し、来臨の希望、それ以外のことを目的として教会に集まっても、その思いが満足させられることはありません。

▼キリストは、単に殉教者ではありません。十字架による贖い、そのことによって、私たちの罪を赦し、私たちを救うことのできる方なのであります。
 何故なら、イエス・キリストが、ご自身が、血の犠牲となられたからであり、ご自身を犠牲として捧げた大祭司だからであります。
 そして、ここの部分が私たちの信仰なのであります。

▼最初に申しましたように、『写し』と言いますと、役所に提出する書類を連想致します。原本の写し、内容は原本と同じだけれども、原本そのものではありません。『写し』が、公式なものとなるためには、その証明が必要であります。原本の『写し』に相違ありませんと、署名捺印して、初めて法的に有効になります。
 私たちの教会は、私たちの礼拝は、主イエスの署名捺印によって、本物になるのであります。完成度とか真剣さとか、そういうことではありません。

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