教会に奉仕する者に

2014年10月12日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の身体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。

 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。

コロサイの信徒への手紙 1章21節〜29節

▼順に読みます。21節。
 『あなたがたは、以前は神から離れ』
 『あなたがた』とは、勿論コロサイ教会員であります。その人々が、『以前は神から離れ』ていたと、記されています。
 これが不思議であります。コロサイの人々は、ギリシャ人やローマ人、つまり、ユダヤ教から見たならば、異邦人であります。『以前は神から離れ』ていたも何もない、以前は、聖書の神さまを知らない筈であります。神さまを知らない人が、『以前は神から離れ』ていたのでしょうか。

▼私たちの感覚では、神さまを知っているのに離れた、それが罪だと言うのならば、分かります。しかし、異邦人で、ために聖書の神さまを知らない人々を、『以前は神から離れ』ていたと表現しているのであります。
 私たち日本人に当て嵌めて考えたならば、どういうことになりますでしょうか。殆どの日本人は、聖書の神さまを知りません。それを、『神から離れ』ていると言っているのであります。

▼21節の後半を読みます。
 『悪い行いによって心の中で神に敵対していました』。
 前半だけですと、聖書の神さまを知らないことが『神から離れ』ていることであり、それが即ち罪であるというような論法になります。
 その通りと言っても良いのだろうと思います。それがコロサイ書の考え方であります。
 しかし、それだけではありません。
 『悪い行いによって心の中で神に敵対していました』。
 コロサイの人々には、『悪い行い』が、確かにあったのであります。それは、道徳的な罪かも知れません。コロサイ書の他の箇所から、想像することが出来ます。ギリシャ的な倫理とユダヤ教的な倫理とでは随分違いがあります。ユダヤ教的に見れば、コロサイの異邦人には、さまざまな道徳的罪があります。

▼しかし、単純に道徳的な罪のことを言っているのではないかも知れません。
 『悪い行いによって心の中で神に敵対していました』。道徳的な罪も、『神に敵対』することだろうと思いますが、『心の中で神に敵対していました』という表現にはぴったり来ないように思います。
 問題になっているのは、もっと、信仰的な事柄ではないでしょうか。

▼あまり話をややこしくしないために、答えを言います。『心の中で神に敵対していました』とは、聖書の神さまを知らず、別の神さまを信じていたことであり、その信仰に基づいて、もっと別の価値観を持っていたことであります。
 聖書の神さまへの信仰がないから、例えば、自分の欲望が第一であります。信仰者だから、それも、聖書の神さまを信じる信仰者だから、自分の欲望を第一にして生きることは罪だと感じます。
 自分を愛するように、神を愛し隣人を愛することが、大事なことだと考えるようになります。しかし、聖書の神さまへの信仰がないから、自分の本能、自分の欲望を神さまとするのであります。

▼22節を読みます。
 『しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し』
 この『和解』とは、極めて聖書的な表現であります。『和解』という言葉を、世俗の和解の延長上で読むことは出来ません。
 互いに歩みよるのが、普通の和解であります。しかし、ここでは、『御子の肉の体において、その死によって』つまり、十字架の死、十字架による贖いによって、この和解は実現したのであります。神の一方的な業であります。
 交換条件なしの和解であります。

▼22節の後半。
 『御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない』
 あくまでも日本語の表現ではありますが、これは奇妙な表現であります。
 「御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者となりました」なら分かります。悔い改め、努力して、綺麗になったのであります。
 しかし、『者としてくださいました』であります。
 これが文法的にも成り立つのは、このような場合であります。
 お医者さんが、患者を治療したのなら、健康な『者としてくださいました』が成り立ちます。
 文章としては、これに近いと思います。
 十字架の死、十字架による贖いによって、癒しが行われ、十字架を見上げる人間は、『聖なる者、きずのない者、とがめるところのない』者となったのであります。聖なる者、きずのない者、とがめるところのない』者にして貰ったのであります。

▼だからこそ、自分の力で勝ち取った者ではないからこそ、23節。
 『揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、
あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません』
 こうなります。『信仰に踏みとどまり』続けることだけが、『聖なる者、きずのない者、とがめるところのない』者であり続ける道なのであります。

▼23節後半。
 『この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、
  わたしパウロは、それに仕える者とされました』。
 使徒パウロは、和解の福音の使者であります。和解の福音の使者とは、決して、誰もが仲良く、互いの立場を、互いの思想を、互いの信仰を認め合って、平和に暮らしましょうということではありません。
 和解の福音の使者とは、十字架の死、十字架による贖いを宣べ伝えることであります。

▼24節からは、和解の福音の使者としての使徒パウロの働きに焦点が当てられます。
 『今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、
キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを
身をもって満たしています』。
 『キリストの苦しみの欠けたところ』というのは、微妙な言い方であります。十字架による贖いでは完全ではないというようにさえ聞こえてしまいます。しかし、使徒パウロが、そんな不遜なことを言う筈がありません。
 肝心なことは、イエス様の十字架の死を、自分の働きに重ねて、自分も、和解の福音の使者として働くということを言っています。そして、それは、即ち、十字架による贖いを宣べ伝えることであります。

▼和解の福音を宣べ伝えるとは、必ずしも、誰もが楽しくなるような、ほっとするような話を伝えるということではありません。それならば、噺家の方が上手でしょう。
 和解の福音を宣べ伝えるとは、イエス様の十字架の死を語ることであります。
 25節。
 『神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めを
わたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者と
なりました』
 ここで注目すべきは、『御言葉を~伝えるという務め』と、『教会に仕える』ということとが、全く重ねられているという点であります。
 これは別々のことではありません。

▼『御言葉を~伝える』ことによって、『教会に仕え』、『教会に仕え』ることで、『御言葉を~伝える』のであります。
 これは、私の考え方では、というよりも、改革派教会の考え方では当然のことでありますが、『御言葉を~伝える』ことと、『教会に仕え』ることとは、全く同じことなのであります。
 時間の半分を、『御言葉を~伝える』ことに割き、時間の半分を、『教会に仕え』ることに割くというのではありません。

▼26節以下は、随分難しいことが語られていると言う気が致します。
 25節までの文脈の中で読むしかありません。
 26節。
 『世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、
  今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです』。
 何だかとても難しく聞こえますが、ここで突然新しいことに話しが移ることはないでしょう。これは、前半の和解の福音のことであります。
 22節のことであります。
 『しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和  解し』
 これこそが、『世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画』であります。和解の福音もまた、『世の初めから』計画されていたこと、神の救済の業なのであります。

▼『世の初めから』計画されていたというような表現を嫌う人があります。決定論的、宿命論的に聞こえるからでしょうか。しかし、ここで強調されていることは、決定論、宿命論ではありません。
 そうではなくて、確かさということが強調されています。偶然そのように運ばれたのではない、確かな神の意志によって行われたことなのだということが、『世の初めから』と言う表現になるのであります。
 教会学校では、毎月第1主日の礼拝で、誕生祝福を行います。その時に歌う讃美歌に、この1節があります。
 「生まれる前から神さまに愛されてきた 友だちの誕生日です おめでとう」
これは、時間的なことを言っているのではありません。神さまの愛の確かさを強調しているのであります。

▼その『秘められた計画』が、『今や、神の聖なる者たちに明らかにされた』
使徒パウロ始め教会の宣教によって、明らかにされて行くのであります。
 それは、私たち玉川教会にとってだって、同じことであります。
 私たちもまた、『世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画』を携えて、これを宣べ伝えるために、教会の営みを守るのであります。

▼27節。
 『この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたもので
あるかを、神は彼らに知らせようとされました』
 最初に申しましたように、コロサイの教会員には、異邦人が多かったと思います。この異邦人にとってこそ、ただ十字架による贖い、ただ十字架による和解ということが、大きな意味を持ちます。そして、ユダヤ人よりも、抵抗なく理解出来ると思います。
 何しろ、厳格極まりない律法を持っていない、律法を守った実績はないのですから。
 私たち日本人も同様です。私たちは異邦人であり、律法なき民であり、そして、ただ十字架による贖い、ただ十字架による和解によって、神の民とされたのであります。

▼28節。
 『このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、
すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、
  知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。』
 これが、私たちの教会のなすべき宣教であり、教会の存在理由であります。

▼和解とは、語源からいって、戦争が止むことであります。終戦であります。そして、平和が訪れるのであります。平和とは、戦争が止むことであります。しかし、それだけではありません。正しい秩序が回復されることであります。戦争が止むだけでは、平和は実現しません。戦争が止んだ後の焼け野原を見て、「ああ平和だ」とは誰も言いません。そこに、人間らしい生活が回復して初めて平和と呼ぶのであります。
 神さまとの正しい関係が作り上げられて初めて、和解が実現したのであります。神と人間との関係が平和になったのであります。
29節。
 『このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、
キリストの力によって闘っています。』
 使徒パウロは戦い続けています。それが、24節であります。
 『今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、
キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを
身をもって満たしています』。

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