狭き門より入れ

2014年10月19日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

マタイによる福音書 7章7節〜14節

▼のらくろの漫画で知られる田川水泡さんの『人生おもしろ説法』という本が4半世紀ぶりに、復刻されました。田川水泡さんは、私たちの玉川教会員であり、葬儀もこの会堂でなされました。
 私の所にも一冊届きましたので、早速読んで見ました。何しろのらくろの水泡さんですから、大変に面白い、どんどん読み進んでしまいまして、簡単に読み終わるのがもったいないくらいです。
 しかし、決しておもしろおかしいだけではない、深い信仰が背景にあることが分かります。何時もなら、マナの文庫に置くのですけれども、これは手元に取って置きたい、もう一冊手に入れてから、マナの文庫に寄贈します。
 特別限定版ですから、手に入らないかも知れません。

▼この本に、「井戸を掘れ」という話が載っています。短いものですが、更に約めて紹介します。
 最初の部分だけ、そのまま読みます。
 フランスの農家の主人が、馬車をひいて町へ野菜を届けに出たとき、ポンプ屋が器械の説明をしながら水を汲み出しているのをみて、これは便利だと思ったから帰りがけにポンプを一大馬車に積んで帰ってきた。
 早速取り付けてポンプ屋がいう通りに動かして見たが水が一滴も出てこない。そこで町のポンプ屋を呼んで調べてもらうことにした。ポンプ屋はすぐに来てくれたが、「旦那、井戸はどこにあるんです」「井戸、そんなものがあるくらいならポンプなんか買うものか」

▼この後に水泡さんは、
 井戸がないのにポンプを買うのもおかしな話しですが、信仰がないのに神に祈るのと同じことです。
と話を続け、信仰と祈りについて論じ、結論ではこう言います。
 水が欲しければ井戸を掘りましょう。

▼井戸を掘らなければ水は出ません。
 ポンプがなくても、井戸があれば水は出ます。
 水泡さんの言う通り、水が欲しければ井戸を掘りましょう。掘っても水が出ないかも知れないという不安はあります。しかし、井戸を掘らなければ水は絶対に出ません。

▼このことは神さま、信仰にも当て嵌まると思います。今日の箇所に記されている、求めなさい、探しなさい、門をたたきなさいとは、つまりは、井戸を掘りなさいということでありましょう。
 井戸を掘らずに、ただ待っていても、何もやって来ません。何も変わりません。

▼『求めなさい。そうすれば、与えられる。』
 『そうすれば』であります。そうしなければ、井戸を掘らなければなりません。本当に求めているのか、本心から願っているのかということが問われていると思います。 
 何もせずに、ただ待っているのは、実は条件付きの願いなのではないでしょうか。只でくれるなら貰ってやる、頼むのならそうしてやる。
 これでは、とても、願い祈っているとは言えません。

▼『探しなさい。そうすれば、見つかる。』
 ここでは、本当に探しているのかということが問われています。
 以前に話しましたし、玉川教会たよりにも書きました。
 山野さんという先輩と、しばしば朝食やお昼を一緒にしました。神学校には食堂がありませんので、隣接のキリスト教大学の学生食堂へ通います。当時は未だ小さいゴルフ場があり、農場では乳牛を飼っていました。その脇道や、時には真ん中を突っ切って歩きます。今思い返すと、何とも優雅な散歩道でした。
 その散歩中、山野さんは、突然しゃがみこみ、そして一瞬のうちに、すっと立ち上がります。その手には、四つ葉のクローバーが一本。
 こんなことがしばしばです。何もキョロキョロと見回し探しながら歩いているのではありません。普通におしゃべりし、普通の速度で歩いていて、突然しゃがみ、たちまち四つ葉のクローバーを拾い上げるのです。

▼私も真似てみました。しかし彼のようには行きません。それどころか、しゃがんで手探りしても見つかるものではありません。
 探せば探すほど、ここには絶対に一本の四つ葉のクローバーも存在しないと、むしろ確信に変わります。すると、脇に立っていた彼が、選んでいるようすもなく、無造作に一本摘み上げます。それが確実に四つ葉なのです。

▼山野さんは、何かにつけ、お説教好きな人なのですが、四つ葉のクローバーについても、説教調になりました。
 「君は、四つ葉のクローバーを探していないでしょう。四つ葉のクローバーなんてある筈がない、見つかる筈がないと思っているでしょう。君が探しているのは、三つ葉のクローバーなんだよ。三つ葉のクローバーなら存在すると確信しているから、三つ葉のクローバーを探して、見つけて、そして、四つ葉のクローバーなんか存在しないと言っているのが君だ」。
 そこまで決めつけなくても良いと思うのですが、確かにその通りかも知れません。

▼山野さんが卒業し、西国の教会に赴任して行った後のことです。
 何時ものように、考え事をしながら、むしろ思い患いを心の中でつぶやきながら、食堂への散歩道を、独りで歩いていました。
 ふと立ち止まりしゃがみ込みました。もしかすると、その時、山野さんのことを思い出していたかも知れません。彼がいなくなって、以前にも増して、寂しい日々でした。
 しゃがみ込み、全く無意識の内に、クローバーを摘んでいました。それが四つ葉のクローバーだったなんて、そんな上手く出来た話はありません。当然、三つ葉のクローバーでした。しかし、四つ葉を探そうという気持ちになりました。そして、そんなに間を置かずに、見つけたのです。四つ葉のクローバーを。生まれて初めてでした。
 嬉しいというよりも、何故だか、照れくさいような、恥ずかしいような気持ちになったことを、覚えています。

▼それから、私は、クローバー採りの名人になりました。一瞬に見つけ出すという芸当では山野さんに適いませんが、五つ葉のクローバー、これは何十本では止まりません。少なくとも百本以上は見つけました。六つ葉のクローバー、これは数十本、七つ葉、十本ほど、そして最高は八つ葉のクローバー、これは一本だけ。
 結局、私は最後まで四つ葉のクローバーを探していなかったのかも知れません。五つ葉、六つ葉、七つ葉、そして八つ葉のクローバーに目が行ってしまうのでしょう。

▼六つ葉以上のものは、大事な本に挟んで保管していましたが、いつの間にか四散しました。たった一本の八つ葉のクローバーは、僅か数日後に、教会で見せびらかしたのがいけませんでした。80歳を超えたご婦人が、「まあ珍しい、ちょうだい」と、その一言で持って行かれてしまいました。返してくれとも言いづらく、結局そのまま。これが、クローバー収集から離れる直截的な契機になりました。

▼『門をたたきなさい。そうすれば、開かれる』
 門を叩くとは、真剣さを表していると思います。しゃにむにということであります。夜中に熱を出した子どもを夜間救急につけていくような真剣、必死さであります。
 しかし、事が信仰の事だと、案外、素直になれないのが人間であります。

▼『狭い門から入りなさい』
 連想するのは、大学や就職試験の狭き門野ことでしょう。安易に流れてはならない、困難な所程入る値打ちがある、そんなふうに理解されているようであります。まあ、その通りでしょう。
 これは、教会、信仰にも当て嵌まる筈であります。と言うよりも、本来教会に向けて、教会員に向けて語られた言葉であります。
 ところが、教会のこと、信仰のことだと、途端に広い道になります。誰でも入れる、そのように考えがちです。しかし、イエス様はそのようには言っておられません。
 
▼先ほどの井戸とポンプの話の続き。
 クリスチャンは、つまり、既に井戸を持っている人には、ポンプが役立ちます。井戸を持っていない人は、ポンプよりも先ず、井戸を掘ることであります。

▼『滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。』
 広々とした道こそ、誰でもが入れる道であります。しかし、その道はどこに続くのでしょうか。
 広い道は、横切ることも出来ます。
 引き返せます。

▼『しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。』
 『人生おもしろ説法』から、もう一つ紹介します。
 『ビリでもいいから』という見出しが付いています。今年亡くなった文芸評論家にして牧師、『信徒の友』編集委員長も努めた佐古純一郎先生の言葉が引用されています。簡単に言います。信仰も人生もマラソンだということであります。ビリでも良いから、完走しなさい。この言葉が、田川水泡さんの信仰を支えたのだそうであります。
 その通りであります。『ビリでもいいから』完走することであります。
 
▼私は、むしろ駅伝がぴったりかと考えます。
 タイムではなく、襷をつなぐことが出来るかどうかであります。
 私たちは、11月2日に、例年のように、聖徒の日・永眠者記念礼拝を守ります。その時にも、日本基督教団信仰告白を唱和します。
 そこに、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す、とあります。
 信仰は、駅伝の襷のごとくにつながれて来たのであります。

▼ポンプの話に拘ります。井戸があってポンプがあっても、それだけでは水は汲めません。呼び水が要ります。つまりサイホン式と同じで、出て来る水が、次の水を呼ぶ、引っ張り上げるのであります。ですから、最初は、ポンプに水を入れる必要があります。これが呼び水であります。
 信仰が信仰を導くのであります。駅伝の襷のごとくにつながれていくのであります。

▼最後に、『人生おもしろ説法』から、もう一つだけ紹介します。
 『名画の切り売り』という見出しです。
 これも、最初の部分だけ読みます。
 「画商さん、この額に入っているセザンヌの静物だがね、こんな大きな絵は私の部屋には大きすぎるので、はじっこのこの果物一個だけ、切り取って売ってもらえないかね」
 水泡さんは、この小咄をもとに、洗礼と教会を論じています。

▼ちょっと引用します。
 教会がもし簡単にこの人の要求を入れて、洗礼を行わないまま会員と同等に待遇したとすれば、その教会は聖なるものとしての価値を失うことになるのではないでしょうか。こうした安易さは、キリスト教を堕落させることにもなりかねません。

▼「はじっこのこの果物一個だけ、切り取って売ってもらえないかね」これは、『求めなさい。そうすれば、与えられる。』『探しなさい。そうすれば、見つかる。』『門をたたきなさい。そうすれば、開かれる』
 これらのイエス様の言葉とは、全然別のものであります。
 教会に、礼拝に、聖書に、本のちょっとのもの、端っこにあるものを求めることは、謙虚ではありません。
 救いを求める、魂の救いを求める者が、『求め、探し、門をたたくものが、
『そうすれば、与えられる。』『そうすれば、見つかる。』『そうすれば、開かれる』のであります。
 

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