必ずあなたと共に

2014年11月16日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
 モーセは神に尋ねた。
「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこういうがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。
 「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
 これこそ、とこしえにわたしの名
 これこそ、世々にわたしの呼び名

出エジプト記 3章1節〜15節

▼事ここに至るまでの経緯をお話ししようと思えば、それだけで30分の説教は終わってしまいますので、省略せざるを得ません。
 今日の箇所に限定して読んでまいります。と申しましても、1~15節と、随分な分量があります。更に、ここには絶対に触れないわけにはいかない重要な使信が三つも散りばめられています。そのことに限定して読みたいと思います。

▼先ずは、2節であります。2~3節を読みます。
 『そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。
彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。
3:モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。
どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」』
 『どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう』、確かに不思議なことであります。モーセが驚くのは当然であります。しかし、驚くべきは、『燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた』、もっと限定して、『主の御使いが現れた』ことではないでしょうか。

▼『主の御使いが現れた』ことが何よりも不思議なことであり、敢えて言えば、あり得ないこと、奇跡であります。他のことは、その舞台設定に過ぎません。
 この文章では分かり難いのでありますが、この時点では、モーセは未だ『主の御使い』の姿を見ていないと思われます。まず、『燃え尽きない』柴を見て、不思議に思い、4節、『道をそれて見に』行き、その結果『主の御使い』に出遭ったのであります。

▼ここで、二つのことを確認したいと思います。二つとも、既にお話ししたことであります。先ず、驚くべきは、『燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた』こと、もっと限定して、『主の御使いが現れた』ことであり、『燃え尽きない』柴は、舞台設定に過ぎないということであります。
 今一つは、『燃え尽きない』柴という印を見て、モーセが『道をそれて見に』行き、その結果『主の御使い』に出遭ったことであります。
 私たちも、同じような道筋を通って、『主の御使い』に出遭うのではないでしょうか。
 『燃え尽きない』柴ほどには、不思議な出来事ではないかも知れません。しかし、何かしら、日常を超えた出来事を目にし、或いは耳にし、或いは体験して、聖書や教会に興味を持ちます。そこで、日常の『道をそれて見に』行く人が、出会いの時を体験するのであります。

▼人生という道を歩いている時に、私たちは、普段目にしないものを見ます。それは、教会の伝道集会かも知れません。もしかすると、チャペルコンサートやバザーかも知れません。
 普段耳にしないことを聞きます。それは礼拝で語られる聖書の言葉であります。もしかすると、聖書の言葉から生まれた讃美歌かも知れません。
 それを見ても、聞いても、特に何も感じることなく、通り過ぎてしまう人が多いでしょう。しかし、ふと立ち止まる人もあります。そして、道をそれて、藪の中に分け入る人もあります。
 『燃え尽きない』柴だったら、誰もが目を留め、不思議を感じることでしょう。しかし、多くの場合は、そんなに際立ったものではないようです。
 しかし、立ち止まり、道をそれて、確かめようとする人はあります。

▼4節。
 『主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。
神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた』
 2節には、『主の御使いが現れた』と書いてありますが、ここでは、『主は』であります。
 解釈が難しいのでありますが、モーセは、単に『燃え尽きない』柴ではなく、むしろ『主の御使いが現れた』のを見て、『道をそれて見に』行き、そして、主の声を聞いたとも言えるかも知れません。
 そしてその結果、ここで、主の声を聞いたのであります。

▼ここで、脱線になることを恐れず、また、誤解を恐れず、お話ししなければなりません。なるべく、率直にお話しします。
 礼拝の中で聖書が朗読されます。その聖書の言葉に基づいて、牧師が説教します。この時に、牧師は、主の言葉のメッセンジャーであります。メッセンジャーと言えば、どなたも抵抗を持たれないでありましょう。しかし、『主の御使い』と言ったら、どうでしょうか。途端に、反感を持たれるかも知れません。牧師が何を偉そうに言っているのかということになるかも知れません。
 しかし、メッセンジャーも、『主の御使い』も同じことであります。
 牧師が天使になるわけではありません。そういうことではなくて、礼拝の中で聖書が朗読されること、その解き明かしとしての説教が語られることは、主の言葉を取り次ぐことなのであります。そういう意味でメッセンジャーであり、『主の御使い』であります。

▼牧師の説教よりも、司会者による聖書朗読をお考え下さい。これは、まさしく、主の言葉を語ることなのであります。
 常々お話ししますように、説教が省略される礼拝は、必ずしも珍しいことではありません。しかし、聖書朗読が省略される礼拝は、あり得ません。聖書朗読がなければ、それは礼拝ではありません。
 それだけではありません。
 礼拝を守るということが、既にして、『主の御使い』の業なのであります。
 モーセは、『主の御使いが現れた』のを見て、『道をそれて見に』行き、そして、主の声を聞いた、これは、全く礼拝に出席することに重なるのであります。
 先程、チャペルコンサートやバザーをきっかけにして、信仰につながる場合があると申しました。しかし、礼拝こそが、そのきっかけ、出会いなのであります。

▼礼拝とは、『燃え尽きない』柴なのであります。新約時代で2000年以上、モーセからなら3000年以上、『燃え尽きない』柴なのであります。
 私たちの礼拝では、蝋燭の火を灯すことはありませんから、ピンと来ないかも知れません。しかし、多くの教会・教派では、2000年以上、蝋燭の火を灯し続けて来ました。それは、福音の灯火であり、その源は、『燃え尽きない』柴なのであります。
 ここで、ここでだけ、人は『主の御使いが現れた』のを見、神の声を聞くのであります。

▼5節。
 『神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。
あなたの立っている場所は聖なる土地だから』
 これは大事なことであります。
 『あなたの立っている場所は聖なる土地だから』、私たちがついつい忘れてしまうことであります。
 9月に、名古屋の金城教会にまいりました。教団の伝道推進室と、出版局との共催による講演会であります。何人かの挨拶があり、私も挨拶に立たされたのですが、その時、私は前日、日曜日の打合せに参加していなかったものですから、失敗してしまいました。何が失敗かと申しますと、他の人は、講壇に上がるためのスリッパを履いていたのに、私だけは靴のままだったのです。仕方がないので、靴を脱ぎ、靴下で講壇に上がりました。

▼靴を履いて講壇に上がることの是非を言いたいのではありません。スリッパも、靴下も、所詮は履き物でしかありません。履こうが履くまいが、その場所を、『聖なる土地』だと認識しているかどうかであります。『燃え尽きない』柴を見ているかどうかであります。
 イスラム教では裸足にならないと、礼拝堂に入ることは出来ないそうであります。ユダヤ教では、男子はキッパという妙な形の帽子を被らなければなりません。
 私たちの目には、滑稽とさえ映るのでありますが、しかし、ここでは聖なる場所が強く意識されているのであります。
 そして、そのことは私たちに欠けているものであります。他の宗教と比較しても、これだけ礼拝堂が、礼拝儀式が世俗化している宗教は珍しいのではないかと思います。そして、そこにこそ、私たちの教会の落とし穴があるのではないでしょうか。

▼6節。
 『神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、
イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて
顔を覆った』
 ここでは、二つのことを強調しなければなりません。第一は、後半部、『モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った』であります。
 これが原則なのであります。罪ある人間は、神の顔を見ることが出来ないのであります。
 創世記3章8節。
 『その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると』
 この出来事以来、人間は、『主なる神の顔を避けて』生きているのであります。

▼ヨハネ福音書21章7節。
 『イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。
シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、
 上着をまとって湖に飛び込んだ』
 これが基本であります。復活の主に出遭ったペトロは、『上着をまとって湖に飛び込んだ』のであります。
 
▼もう一つの強調点は、前半であります。
 『わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』
 これは、神さまが、イスラエルの歴史と共に歩まれ、『アブラハム、イサク、ヤコブ』と。共にいて下さったということであります。
 その神さまが、イスラエルと共にいて下さる神さまが、7~9節の言葉を語っておられるのであります。
 イスラエルの苦悩を、イスラエルの悲しみを、知っておられると言うのであります。

▼だからこそ、10節。
 『今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。
わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ』
 モーセは、『燃え尽きない』柴を見ました。そのことが、『主の御使いが現れた』のを見ることにつながり、ついには、神さまの言葉を聞くことにつながりました。
 『モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った』のでありますが、そのモーセに神さまは真っ正面から語りかけられ、そして、使命を与えられました。
 『燃え尽きない』柴を見たことが、そこにつながって行くのであります。
 つまり、私たちが奇跡、不思議に与るとしたら、それは、神によって使命を与えられることになるのであります。
 その使命と関係なく、『燃え尽きない』柴を見たとしても、それは単なるオカルト体験であります。

▼11節。
 『モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。
  どうして、ファラオのもとに行き、
しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか』
 もっともな言い分であります。つまり、モーセにはそんな志も、意欲もありません。
 能力もないでしょう。
 しかし、神は、
 12節。
 『神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、
わたしがあなたを遣わすしるしである。
  あなたが民をエジプトから導き出したとき、
  あなたたちはこの山で神に仕える』
ここでも、『わたしは必ずあなたと共にいる』ということと、『わたしがあなたを遣わす』というこことは、全く重なるのであります。

▼そもそも聖霊がそうであります。無目的に聖霊が下されることはありません。聖霊を何か人間的な努力で獲得できる超能力のように考える人がありますが、聖書が言う聖霊は、そういうものではありません。
 神さまが何かの目的に人間を使わされる時に、聖霊が下されるのであります。『わたしは必ずあなたと共にいる』ということ、人の働きと共に神さまがいて下さるということが、聖霊の働きであります。

▼13~14節は、特に、14節で示される神の名前、『わたしはある。わたしはあるという者だ』、ここは、神学的な考察のもとに理解されるべき所でありましょう。
 ここから、神を、神の名前を「存在の根拠」と、解する神学者がいます。とても魅力的です。しかし、そういうことに触れていると、説教が終わりませんので、限定して読みます。
 ここでも、後半と切り離して読むことは出来ません。
 つまり、
 〈『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだ〉。
 ここでも、神の名前が示されたことと、宣教への派遣とが結び着くのであります。宣教への派遣と無関係に、神の名前が啓示されることはありません。

▼15節。
  『神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう
 言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、
 ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
 これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名』
 諄いようですが、ここでも、神の名前が示されたことと、宣教への派遣とが結び着いています。 

▼別の言い方をすれば、私たちは、神の名前によって、神の名前のもとに、宣教するのであります。
 この箇所だけで、何通りにも、神さまの名前が啓示されていると読むことが出来ます。しかし、それを突き詰めれば、『イスラエルの人々』と共に居て下さる神さま、『イスラエルの』歴史と共に居て下さる神さま、神さまのご用に当たる者と居て下さる神さま、ここに収斂するのであります。

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