主は我々の正義と

2014年11月30日待降節第1主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。

エレミヤ書 33章14節〜16節

▼『恵みの約束を果たす』。
 簡単に言い切っているように聞こえるかも知れませんが、これは大変な言葉であります。『恵み』、今は詳細をお話しする必要はありませんでしょう。『恵み』、神さまから下さる恩恵であります。もっと言えば、一方的な恵みであります。人間が神さまのために何かしらの働きをして、その結果、報酬をいただくということではありません。

▼働きに対する報酬ならば、この約束は契約であります。神さまの側に、履行義務があります。約束を守らなくてはなりません。しかし、初めから、恩恵であります。やるもやらぬも、神さまの御心次第であります。しかし、『恵みの約束を果たす』と言われるのであります。
 このような考え方は、旧約聖書の中で、随所に見かけます。典型的は、ホセア書でありましょう。

▼ホセアは、ゴメルを愛し、妻に迎えました。しかし、妻ゴメルは、夫ホセアの愛に対して、不倫で報います。そればかりか、夫を捨てて出奔します。その不倫の妻を、ホセアは探し出し、堕落しきっていた生活から救い出します。同じことが何度も繰り返されます。
 何故そのようにするのか、ホセアの愛は、真実の愛であって、妻の気持ちが変わってしまっても、ホセアの愛は、変わることのない真実の愛だからであります。
 勿論、ホセアの愛は、変わることのない真実の愛は、神さまの愛を説明しています。

▼『恵みの約束を果たす』。
 神さまは、かつて、ノアとその子孫とに約束されました。アブラハムとその子孫とに約束されました。ダビデとその子孫とに約束されました。
 この約束は契約であり、神さまにも人間にも履行義務がありました。しかし、人間がこの約束を捨てました。神さまの履行義務は消滅します。保険金を払わなかったら、保険契約は停止し、何かあっても、支払いを受けることは出来ません。当然であります。
 にも拘わらず、神さまは、『恵みの約束を果たす』と仰います。
 何故そのようにするのか、神さまの約束は、真実の愛であって、人間の気持ちが変わってしまっても、神さまの約束は、変わることのない真実の約束だからであります。

▼人間は実に弱い存在であります。神さまとの約束を守りたいと願いながら、体が、肉体の弱さが、心が、心の弱さが、それを許しません。時が、心と体を蝕みます。
 いつの間にか、神さまとの約束から、遠ざかっています。全く忘れてしまう人もあります。
 約束があったことを、積極的に否定する人もあります。
 しかし、神さまは、『恵みの約束を果たす』と仰います。
 救いを約束された人は、この約束を反故にされることはありません。

▼イエス様の弟子たちは、皆イエス様との約束を破りました。マルコ福音書14章50節、『弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった』。
 弟子の筆頭格のペトロは、14章29節、『たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません』と大見得を切りますが、14章30節、『イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」』
 イエス様の言葉に、31節。
 『ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばなら
なくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」
皆の者も同じように言った』
 結果は、イエス様の預言された通りになってしまいます。
 しかし、イエス様は、この約束を履行しなかった弟子たちの上に、教会を立てられたのであります。

▼マタイ福音書16章17~19節。
 『すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。
あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
  18:わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に
  わたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
 19:わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、
天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』
 ローマカトリックでは、この言葉が、教皇の権威の根拠となりますが、マルコと重ねて読めば、約束を履行しなかった弟子たちの上に、教会を立てられたのであります。

▼この箇所について、ペトロという一人の人間・人格の上に教会が立てられた、だから、ペトロの遺髪を受け継ぐ者が教皇として神さまを代理する、このようなローマカトリック的な理解を否定して、ペトロが代表する弟子たちの信仰告白の上に、教会が立てられたというのが、プロテスタントの理解であります。 私も勿論これを否定しませんし、原則、そこに立ちます。
 しかし、より厳密には、ただ、『恵みの約束を果たす』。
 この言葉だけが、教会の根拠なのであります。この約束の言葉の上に、教会が立てられているのであります。

▼『イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る』
 『イスラエルの家とユダの家に』と言われています。先週の説教で、イスラエルとユダという言葉のややこしさについてお話ししました。『イスラエルの家とユダの家に』とは、南北に分かれた両方の国にということであります。そもそも、南北に分かれたことが、罪の結果であります。南北に分かれたことで、彼らは既に、約束を反故にしたのであり、恵みを要求する権利などありません。
 しかし、神さまは、『恵みの約束を果たす』と仰います。
 
▼私たちの教団も、教会も、そもそもキリスト教の歴史がそうかも知れません。別れ争い、この世の権力と結び付き、逆に反権力闘争と結び付き、時には血を流す闘争をして来ました。
 その歴史を振り返れば、、神さまに恵みを要求する権利など持っていないでしょう。
 しかし、神さまは、『恵みの約束を果たす』と仰います。
 今日、教会が存在すること、それ自体が、『恵みの約束を果たす』という神さまの言葉にのみ、根拠を持つのであります。
 
▼『恵みの約束を果たす日が来る』
 エレミヤ書の時点では、今すぐにではありません。その前に、試練の時があります。むしろ、神に対する反逆の時代があります。不信仰が地を覆い尽くします。救いはその後であります。
 『見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を
果たす日が来る、と主は言われる』
 これは単純な預言ではありません。『恵みの約束』が預言されています。救いが預言されています。
 しかし同時に、試練、災いの預言でもあります。

▼このことにも先週触れました。エレミヤの裁きの預言は、同時に救いの預言でもあります。裁くということ自体が、神が人間に深く関わって下さるということであり、裁きこそが救いをもたらすのであります。
 その逆もまた真実なのであります。
 『恵みの約束』は、しかし同時に、試練、災いの預言でもあります。

▼『その日、その時』これは、普通、世の終わりの裁きの時を表現する言葉であります。ここでは、救いの預言になります。
 『その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる』
 『ダビデのために正義の若枝を生え出でさせる』
 一つには、ダビデ王朝、ダビデ家の復興が預言されていると言えましょう。
 イザヤ書11章でも、1節。
 『エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち』となっています。
 ダビデ王朝、ダビデ家の復興が預言されています。
 この預言は、マタイ1章の系図にありますように、イエス様の誕生によって成就したことになります。
 
▼しかし、ダビデ王朝、ダビデ家の復興が最大のテーマなのではありません。肝心なことは、『正義の若枝を生え出でさせる』にあります。 
 イザヤでも、先程の引用箇所の直後、11章5節。
 『正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。
 6:狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く』
 正義と、その結果としての平和が主題なのであります。正義と、その結果としての平和によってこそ、神さまの約束は成就するのであります。

▼正に、15節。
 『彼は公平と正義をもってこの国を治める』であります。
 ここも、イザヤと符合します。
 11章4節。
 『弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち/
  唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる』
 
▼ここでも、『恵みの約束を果たす』とは、罪の中に住む人間に取って都合のようこととは限りません。
 『その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる』
のでありますから。
 更に言えば、この裁きは、『その口の鞭をもって』行われます。福音は、時に裁きをもって臨むのであります。

▼先程触れたペトロに戻りますと、常に申しますように、この人は、いろんな意味で弟子の代表格であります。人間そのものの典型であります。
 彼が躓いたのは、先ず恐怖のためでした。そのために、イエス様が捕らえられた現場から逃げ出しました。次に、寒さに耐えられなくなってたき火に近づき、そのために正体を見破られました。
 時間的には遡りますが、ゲッセマネの園で、14章34節。
 『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』、イエス様に言われます。
 にも拘わらず、眠りこけてしまいます。これが三度繰り返されます。
 眠い、怖い、寒い、これに耐えられない弱さを人間は抱えています。多少強弱はありますが、似たり寄ったりであります。そういう人間の弱さを神さまは赦して下さいます。
 
▼しかし、『唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる』。
 これもまた、神さまの言葉なのであります。
 弱い人間を赦して下さる神さまは、人間のずるさや、憎悪や、醜い嫉妬をも赦して下さるのか、そうではないでしょう。
 旧約時代の人は、神のみ姿を見たら、人間は死ぬと考えていました。その通りでありましょう。弱さだけではなく、罪を抱えた人間が、神さまの前に立ったら、滅びるしかありません。

▼エレミヤの16節。
 『その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる』
 『安らかに人の住まう都となる』に至ったには、神さまの正しい裁きがあり、そして、赦しがあったのであります。
 このことは、私たちの教会と、また私たちの国と重ねて読む必要がありましょう。『正しい裁き』それが、平和の絶対条件であります。
 神さまの『正しい裁き』が行われるところが、平和なのであります。
 神さまの赦しを感じるところが、平和なのであります。

▼33章1節を読みます。ここから、少しだけ、前回の同じ箇所での説教と重なります。
 『主の言葉が再びエレミヤに臨んだ。このとき彼は、まだ獄舎に拘留されていた』
 既に長い時間、獄舎に拘留されており、エルサレム陥落の日まで、逃亡出来ないように狭い古井戸の中に入れられています。
 エルサレムは城郭都市であり、狭い城内に、大勢の人々がひしめき合い、餓死者が出るような状況となりました。死者を城外に運び出すことも、葬ることも出来ず、街に死臭が溢れるというような様でありました。

▼エルサレムの事態はますます深刻になります。誰の目にも、いよいよ滅亡を免れることが出来ないと映った時、人々は、その恐怖からでありましょう、何とも愚かしい行為に走ります。その間のことは、32章33節以下に記されています。
 『彼らはわたしに背を向け、顔を向けようとしなかった。わたしは繰り返し
教え諭したが、聞こうとせず、戒めを受け入れようとはしなかった。
 34:彼らは忌むべき偶像を置いて、わたしの名で呼ばれる神殿を汚し、
 35:ベン・ヒノムの谷に、バアルの聖なる高台を建て、息子、娘たちを
モレクにささげた。しかし、わたしはこのようなことを命じたことはないし、ユダの人々が、この忌むべき行いによって、罪に陥るなどとは思ってもみなかった。」』
 いよいよ国が滅びる、それを避ける術はないと知った人々は、一種のパニック状態に陥りました。自分達の息子・娘を、ベンヒンノムの谷に連れ出し、これを殺してバアルに捧げたのであります。
 息子も娘も捧げますから、どうか私だけは助けて下さいと、こういう、愚かな残虐な行為に走ったのであります。

▼エレミヤは、今、国が滅びようという切羽詰まったその時に、預言しているのであります。6~7節。
 『しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。そして、ユダとイスラエルの繁  栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。』
この預言は基本的には慰めの預言であります。
 しかし、ちょっとタイミング的に早過ぎるのであります。滅亡の直前に回復を預言することは、滅亡を前提としているが故に問題があります。

▼8節を振り返ります。
 『わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す』。
 滅亡、捕囚を前提とした回復の預言なのであります。

▼16節に戻ります。
 『その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう』
 『主は我らの救い』、イザヤ書33章2節に同じ言葉があります。
 『主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。
朝ごとに、我らの腕となり/苦難のとき、我らの救いとなってください』
 『主は我らの救い』、これが、これだけが、真に信仰に立ち生きる人間の武器であります。
 病の床でも、苦しめ迫害する者の前でも、誤解無理解の前でも。
 間違っても、バアルの神に頼ってはなりません。他の神を頼り、神ならぬ神の信者となった者は、最早救いがありません。

▼17節。
 『主はこう言われる。ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は、
絶えることがない』。
 クリスマスの出来事で、これは現実になります。
 イエス・キリストが王として即位したからであります。そして、そこに新しい国民、新しいイスラエル、教会が誕生したのであります。

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