愛によって新しく
2014年12月14日待降節第3主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)
娘シオンよ、喜び叫べ。
イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。
娘エルサレムよ、心の底から喜び踊れ。
主はお前に対する裁きを退け
お前の敵を追い払われた。
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。
お前はもはや、災いを恐れることはない。その日、人々はエルサレムに向かって言う。
「シオンよ、恐れるな
力なく手を垂れるな。
お前の主なる神はお前のただ中におられ
勇士であって勝利を与えられる。
主はお前のゆえに喜び楽しみ
愛によってお前を新たにし
お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」
わたしは
祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。
彼らはお前から遠く離れ
お前の重い恥となっていた。ゼファニヤ書 3章14節〜18節
▼本日与えられている聖書日課は、14~18節であります。これは、2010年の日課と全く同じであります。前回は、ゼファニア書3章全体、それどころか、ゼファニア書全体についてお話ししました。
ゼファニア書は、全体で3章しかありません。また、あまり馴染みのある預言書とは言えませんので、預言者ゼファニアとは誰か、ゼファニア書とは何かというお話しをしたつもりであります。
あまり間を置かずに、同じ箇所が与えられましたし、もし要望があれば、前回の説教原稿が残っており、コピーすることも出来ますので、今日は、出来るだけ14~18節に絞って、むしろ、17節に焦点を当てて読みたいと思います。
▼17節。
『お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。
主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし
お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる』
『主なる神はお前のただ中におられ』
これが、アドベントの第3週、クリスマス直前に、日課として取り上げられた理由だろうと思います。
『神はお前のただ中に』
インマヌエルに通じる、と言うよりも、ぴったりと重なるかと思います。
マタイ福音書1章23節。
『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル
と呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である』
▼『インマヌエル、神は我々と共におられる』
クリスマスの度に目にする聖句であり、教会学校生徒の聖劇でも、必ず耳にするセリフであります。ですから、何となく、その意味を理解しているように思っていますが、実はどうでしょうか。
これを本当に理解することが出来るのか、むしろ、実感することが出来るのか、実は大変に困難なことかも知れません。
新約聖書の冒頭、クリスマス物語に出てくる言葉であり、信仰の初歩と言えましょう。
「神さまがいると信じますか」
「信じます」
「信じられません」
これは教会学校の問答であります。
しかし、同時に信仰の奥義でもあります。
信仰生活が長く、聖書に親しんでいる人でも、結局は、この問答を心の内に繰り返しながら、信仰生活しているのであります。
▼『インマヌエル、神は我々と共におられる』
この言葉を、ゼファニアが預言しています。
それが、『神はお前のただ中に』であります。
戦乱が相次ぎ、北王国が滅亡し、クーデターが繰り返され、貴族や将軍たちが、覇を競い合う。そういう、この世の終わりとも言える時代のただ中で、ゼファニアは、『神はお前のただ中に』と叫んだのであります。
神さまは黄金輝く神殿の中におられるのではない。飾り立てられた儀式の中に姿を現されるのではない。
命の瀬戸際まで追い立てられ、絶望している『お前のただ中に』、それがゼファニアの預言であります。
▼マリアへの受胎告知も実は同様であります。
2000年のクリスマスの歴史によって飾り立てられ、中を覗いてみることも殆ど出来なくなっていますが、イエスさまが誕生し、寝かせられていたのは、貧苦の極まりとも言える家畜小屋の中の、汚らしい飼い葉桶の中であります。母マリアは、女王でも王女でも、貴族や軍人の娘でもありません。
当時の貧しい村娘であります。
そこに『インマヌエル、神は我々と共におられる』、『お前のただ中に』と天使が告げたのであります。
▼受胎告知の後で歌われるマリアの讃歌と、ゼファニア3章11~13節は酷似しています。
11:その日には、お前はもはや/わたしに背いて行った、
いかなる悪事のゆえにも/辱められることはない。
そのとき、わたしはお前のうちから/勝ち誇る兵士を追い払う。
お前は、再びわが聖なる山で/驕り高ぶることはない。
12:わたしはお前の中に/苦しめられ、卑しめられた民を残す。
彼らは主の名を避け所とする。
13:イスラエルの残りの者は/不正を行わず、偽りを語らない。
その口に、欺く舌は見いだされない。
彼らは養われて憩い/彼らを脅かす者はない。
ルカ福音書1章51~54節。
51:主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
52:権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
53:飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
▼ゼファニア3章17節に戻ります。
『お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる』
ゼファニア書とマタイ、ルカに基づいて、ここまでお話ししました。その後、
『主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし』
ここは、逆に読んだ方が分かり易いと申しますか、人間的には、逆だと思います。
11節をもう一度引用します。
『その日には、お前はもはや/わたしに背いて行った、いかなる悪事
のゆえにも/辱められることはない』
『背いて行った』者、『悪事』を働いた者を、神は、『愛によってお前を新たにし』、刑罰ではなく、愛によって『新たにし』、その新たにされた者、再びきれいにされた者と、『喜び楽しみ』、と記されています。
『喜びの歌をもって楽しまれる』と言うのであります。
▼これは礼拝の賛美に重なると思います。およそ礼拝する者は皆、神の前に出て、罪を告白し、神の愛によって清められて、その『喜びの歌をもって』賛美するのであります。それが礼拝であります。
これは、ゼファニヤ3章14節にも描かれています。
『娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。
娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ』
これは、神の愛によって清められ新しくされた者の、喜びであります。
▼少し脱線かも知れません。
神の愛によって清められるという、その一点で少しお話しします。
『続・豚の死なない日』という児童小説があります。続というくらいですから、以前月報で取り上げたことのある『豚の死なない日』の続編であります。
シェーカー教徒の貧しい少年を主人公としています。
その中にこんな一節があります。
『「ロバート、人間はだれでもまちがいをおかすことがある。みんな弱い存在なんだ。ハスケル・ガンプのことを恨んだら、わしも弱い人間になってしまう」タナーさんはため息をついた。「許す心は、消毒したり糸で縫うよりもずっと傷を癒やしてくれる」』
前後の紹介は無用かと思います。
▼罪深い人間でさえも、人を赦すことが出来ます。人を赦す方が、罰するよりも、自らの心を癒やすことが出来るのであります。
このことは、JOCSの活動にも繋がるものがあるように考えます。問題の多い国が確かにあります。そのままには放置できない不法が存在します。しかし、それらの国を攻撃し、或いは占領し、事が解決するのでしょうか。必ずしも上手く行かない例の方が多いように思います。
貧困の根絶、教育、医療、こういった方法は、時にまだるっこしく感じられます。無駄にさえ思える場合があります。しかし、結局は一番確かな方法ではないでしょうか。
神さまも、悪しき人間を憎み、滅ぼすよりも、愛をもって清める手段を選ばれたのであります。
▼18節。
『わたしは/祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。
彼らはお前から遠く離れ/お前の重い恥となっていた』
詳しくお話しする暇はありませんが、これは、クリスマスに重なります。
『祭りを祝えず苦しめられていた者』、羊飼いたちがそうであります。彼らは、この時代の経済構造の下で最底辺にいた人々を代表しています。東から北博士たちがそうであります。彼らは、この時代の政治体制の下で、はじき出されいた古い時代の人々を代表しています。
▼未だ読んでいない15~16節を見ます。
15節。
『主はお前に対する裁きを退け/お前の敵を追い払われた。
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。
お前はもはや、災いを恐れることはない』
少し難しいことを言いますが、なるべく約めて申します。
預言者アモス以来、神の民イスラエルへの厳しい裁きが語られて来ました。アモス以後の正統的預言者は、全員この前提に立って預言せざるを得ません。 しかし、その中で、救いを、その可能性を、必死に探るのであります。
▼別の言い方をすれば、預言者イザヤ以来、神の裁きの中を生き残る者、『残りの者』が探索されていくのであります。
ゼファニア書の『残りの者』とは、『主はお前に対する裁きを退け/お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる』ことによって、生まれるのであります。
『愛によって … 新たに』された者が、『残りの者』となるのであります。
このことは、19~20節にも描かれています。
19:見よ、そのときわたしは/お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。
わたしは足の萎えていた者を救い/追いやられていた者を集め/彼
らが恥を受けていたすべての国で/彼らに誉れを与え、その名をあ
げさせる。
20:そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。
そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で/お前たちの繁栄を回復するとき/わたしは、地上のすべての民の中で/
お前たちに誉れを与え、名をあげさせると/主は言われる。
▼2011年の4月初め、主に三陸地方の津波被災地を、教団新報の取材で訪問しました。都合5回ほど被災地に行っておりますので、前後とか時間とかが混同しまして確かな記憶ではありませんが、多分、釜石だったと思います。釜石新生教会が設けた、被災者の健康相談所という所に案内されました。教会の前の駐車場にテントが張ってあり、お茶の用意などもされていました。そこが、健康相談所でした。
中を覗いてみますと、何だか知ったような顔の人がいます。半信半疑でしたが、「玉川教会の牧師の竹澤と申しますが」と声を掛けますと、向こうが覚えていてくれました。
以前に、このJOCS報告会を開催させてもらった時に、講師として見えた楢戸健次郎医師でした。
▼たまたま帰国中で、日本におられたのかなと思いまして、「今は、どちらに」と尋ねますと、「ネパールです」との答えでした。
ネパールから、駆けつけて下さったのです。
『わたしは足の萎えていた者を救い/追いやられていた者を集め』
そういうことは、それこそネパールとかアフリカとかで起こる出来事かと思っていましたが、この日本で、JOCSの働きを目の当たりにするとは、何とも不思議で、その働きに感謝するよりありませんでした。
厳密に言えば、駆けつけて下さったのは、医師、救い手の方でありますが、そこに於いてこそ、『足の萎えていた者を救い/追いやられていた者を集め』られるのであります。
私どもの玉川教会でも、以来、震災救援のための募金を続け、当初目標の3倍を達成出来ました。これも、感謝でした。
▼もう一度、14節と17節を読みます。
『お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。
主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし
お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる』
『お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。 主はお前のゆえに喜び楽しみ/
愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる』
▼震災後、あちこちの夏祭りや秋祭りが、自粛、中止になりました。それどころではない、人手が足りない、資金が足りないということなら解ります。
しかし、自粛とは何でしょうか。
お祭りの意味、起源は、多くの場合、慰霊にある筈であります。
慰霊なのに、それを忘れて、単に自分たちの楽しみにしてしまっていたから、自粛という発想になります。
震災が起きたら、礼拝を自粛しますか。世の中には、不幸な目に遭っている人が少なくないから、礼拝は、自粛しますか。
そうではありません。
▼『主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし
お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる』
主に喜んで貰う、そのためには、どのような礼拝を献げるべきか、主に喜んで貰う、そのためには、どのような教会を形成すべきか、主に喜んで貰う、そのためには、どのような働きをなすべきか。
ここに立って考えなくてはなりません。
その時に、JOCSの働きを覚えます。これこそが、神さまに喜んで頂ける働きであります。その働きがある所には、必ず『喜びの歌』があります。