狼は子羊と共に宿り

2014年12月21日待降節第4主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊に満たされる。
芽に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち
唇の勢いをもって逆らうものを死に至らせる。
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。

狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
その日が来ればエッサイの根は
    すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。 

イザヤ書 11章1節〜10節

▼先ず6~8節をご覧下さい。 6節。
 『狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。
  子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く』
 一緒にいられる筈のない者同士が、しかし、共にいる、しかも平和で共存するということが記されています。
 本来、あり得ないことであります。

▼ごく限られた条件下なら、不可能ではないかも知れません。つまり、狼と小羊、どちらも自然の中で生まれ育ったのではなくて、人間に飼育されているとすれば、それも、未だ幼く、本能に目覚めていなければ、そんなニュースが放映されるかも知れません。
 豹と子山羊、子牛と若獅子についても、同様であります。
 
▼ちょっと気になりますのは、『狼は小羊と』であって、子狼は羊とではありません。子狼は羊とならば、少し実現可能性があるのではないでしょうか。同様に『豹は子山羊と共に』ではなくて、子豹は山羊と共にならば、あり得ます。
 ところが、3番目、『子牛は若獅子と』、これは初めから該当します。

▼矢張り、『狼は小羊と』と描かれているのは、あり得ないことが現実になるという預言であって、それが起こりうる可能性を探しても意味はないと考えます。あり得ないことなのであります。

▼以下、イソップ物語の一つを引用します。
 大きな悪い狼が子羊を見て、食べたいと思いました。
 しかし、すぐには子羊を食べません。狼は子羊を殺してしまう口実を考えました。
 人々に悪い奴とは思われたくないからです。
 そこで狼は子羊に言いました。「去年、おまえは私の悪口を言ったろう」
「私はまだ赤んぼうです。去年は生れていませんでした」
「おまえは私の夕食を食べてしまったろう」
「あなたの夕食なんて食べられませんよ。まだ幼いんです、飲むことしかできません」
「 おまえは私の水を飲んだだろう」
「でもお母さんのお乳しか飲めないんです」
「そうかい?」
 狼は言いました。「でも私は食べることができるし、おまえを食べてやろう。
 今すぐに、夕食がほしいからな」
 そういうと、狼は子羊にとびかかりました。そしてそれが子羊の最期でした。
 教訓が付いています。悪事を働こうとする者は、いつも何かしら口実をみつけるものだ。

▼生き物の楽園という類のテレビ番組を良く見ます。地上の最後の楽園という表現もしばしば見られます。鯨やイルカが楽しそうに泳いでいるような海、多くの種類の生き物が棲息し、楽園と呼ばれるのに違和感がない、自然豊かな土地があります。しかし、ここでは、毎日毎日、自然の中で、それこそ、ごく自然に捕食行為が行われています。
 大きな強い生き物が、小さい者弱い者を食べる、それをまた、より大きな動物が捕まえて殺し、食べてしまうということが、日常的に行われているのであります。
 鯨やイルカのような大型の海洋生物が、一日に食べる小魚などの生き物の数は、半端な数ではありません。正に、日ごと繰り返される大量虐殺であります。
 これが本当に天国なのか、楽園と呼ぶことが出来るのか、むしろ、弱肉強食の地獄ではないでしょうか。

▼7節。
 『牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく
干し草を食らう』
 私は毛蟹や車海老が大好物です。決して安くはありませんが、時々買います。忙しい時間が続いた後、一所懸命に働いた後、まあ、言ってみれば、自分へのご褒美というところです。私の家族は特に好物という訳ではありませんので、殆ど独り占めで食べます。
 それはよろしいのですが、食べる前には調理しなくてはなりません。調理とは、要するに、殺すことであります。
 財布に無理をして買ってきては、料理する段になって、ちょっと後悔します。こんな残酷なことをしなくても良かった、他に食べ物はいくらでもあるのに、買わなければ良かった、でも、買ってしまったからにはもったいないし、今更海に帰すことも出来ないし、 … 結局食べてしまいます。

▼つまり、殺してしまいます。車海老がフライパンの中でバタバタ跳ねている音を聞くと、何と残酷なことをしてしまったと悔やみます。しかし、結局食べてしまいます。
 予め捌いたものを買ってくれば、こういう修羅場には出会わなくて済みますが、生き物を食べる、誰かが殺したものを食べる、それに違いはありません。

▼そんなことを考えますと、菜食主義が正しいような気が致します。私は、青年時代の一時期、トルストイにかぶれて、肉を食べるのを止めました。2年間くらいでしょうか。行きつけのラーメン屋さんでも、必ずチャーシューを残すものですから、チャーシューが入らなくなり、代わりにメンマが大盛りでした。
 江戸時代までの日本では、四つ足は原則食べません。
 そうしますと、イザヤの教えは、ユダヤ教よりも、キリスト教よりも、仏教でこそ、実現していることになります。

▼しかし、一例として上げれば、ウサギを数えるのに、一頭二頭とは言いません。一匹二匹とも言いません。何故か、1羽2羽であります。どうしてなのか、ウサギは獣ではなく、鳥だからであります。鳥だから食べてもかまいません。
 このことも、そうですし、獣は駄目、魚なら良いと言うのは、そもそも偽善的であります。いっそ、イノシシも1羽2羽か一匹二匹にした方が良かったかも知れません。

▼ところで、狼と小羊、豹と子山羊、子牛と若獅子、更に、牛と熊、獅子と、牛これらは、憎み合う敵同士という組み合わせではありません。捕食者と被害者であります。食べる者と食べられる者であります。一方的な加害者と被害者であります。
 つまり、イザヤ書に描かれている場面は、互いの歩み寄りではありません。仲直りでもありません。まして調停や和解ではありません。
 私たちは、今日の箇所を読んで、自分をどちらの側だと考えるのでしょうか。食べる側ですか、食べられる側ですか。
 
▼このことは8節にきわまります。
 『乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる』
 これは初めから食う食われるの関係ではありません。むしろ、危険がない、不幸がない、そういう究極の世界であります。
 それが9節に表現されています。

▼9節。
 『わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。』
 ここも少し拘って読みたくなる表現であります。
 つまり、『害を加えず、滅ぼすこともない』とあります。「害を加えられず、滅ぼされることもない」ではありません。
 食う食われるの関係で、変えられるのは、変えられるべきなのは、食べる側なのであります。
 逆に言いますと、自分を食べられる側だと考えている人は、変えられることはないでありましょう。罪の告白はないでしょう。
 そして救いに与ることもないでありましょう。
 自分自身を捕食者だ、弱い者を食べる捕食者だと認識しなければ、告白しなければ、イザヤ書を読んだことにはならないのであります。

▼4節。
 『弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち/
  唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる』
 ここに描かれていることは、一見、平和とは逆であります。
 特に後半部分、
 『その口の鞭をもって地を打ち』
 鞭とは、普通には動物を従えるためのものであります。『口の鞭』つまり、言葉が鞭のように、悪しき者を鞭打ち、たしなめ、従えるのであります。
 福音宣教は、『その口の鞭をもって地を打』つ業であります。
 一番簡単に言えば裁きであります。

▼厳密に言えば、誰かしら悪しき者を鞭打つとは書いていません。『地を打ち』であります。つまり、この世界そのものであります。
 鞭打たれるのは悪しき者であって、自分は関係ないと思ったら大間違いなのであります。
 自分自身を鞭打たれる者だ、鞭打たれるべき者だと認識しなければ、告白しなければ、イザヤ書を読んだことにはならないのであります。

▼『唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる』
 最近、ロバート・マキャモンが書いた魔女裁判の本を読みました。魔女は火あぶりにされますが、魔女に操られた男は、鞭で打たれます。1回で激しい痛みと共にみみず腫れがはしり、同じ場所を叩くと皮膚が破れ、痛みよりも熱を持つそうであります。3回目、痛みと熱のために気絶します。
 鞭打ちは10回なされるのでありますが、実際にはそこまで必要ありません。その前に死んでしまうからであります。
 そういう恐ろしい場面を読みました。

▼『その口の鞭をもって地を打ち/
  唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる』
 この厳しい刑罰と、
 『弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する』
 この厳しい裁きと、福音的知らせとは、全く重なるのであります。裁きのないところに、刑罰のないところに、平和は実現しないのであります。

▼それは、クリスマスの場面でも同じであります。先週も引用しました。マリアの賛歌。
 『50:その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
51:主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
52:権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
53:飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます』
 裁きと福音は全く重なるのであります。

▼3節。
 『彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって
裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない』
 神による裁きが行われて、初めて平和が実現するのであります。
 この箇所については、以前にこの箇所を読んだ時にお話ししたことを、簡単に要約してお話しします。
 データが残っていないので、何時の時かは忘れました。
 
▼普通ならば、『目に見えるところによって裁きを行』いでしょうし、『耳にするところによって弁護する』でしょう。
 きちんと自分の目で見て、正しく裁きをつける。きちんと自分の耳で聞いて、正しく裁きをつける。そういう表現が普通だと思います。
 しかし、『目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない』と記されています。
 『目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない』とは、人間の恣意ではなく、神の御旨に従ってということでありましょう。
 正しい裁きによって生まれる、正しい平和とは、神の御旨が実現することであります。

▼しかし、誰がこの裁きに刑罰に、鞭打ちに絶えられるでしょうか。鞭は10回ではなく、30回も必要かも知れません。それ程に、人間の犯した罪は深刻で、重いものがあります。
 人は、せいぜい鞭打ち3回しか耐えられません。
 犯した罪に足りる贖いを果たすことは出来ません。
 この鞭打ちに耐えて下さった方がいます。鞭打ちに絶えられない人間のために。
 それが、イエス・キリストであります。

▼常に申しますように、クリスマスとは、神の子が人間の姿になられたことであります。人間の姿になられたとは、病、死、孤独、こういった苦悩を自分のものとされたということであります。
 神が、裁かれ、鞭打たれ、つばを吐きかけられ、罵倒され、そして殺された、それがクリスマスによって始まったのであります。
 神が、裁かれ、鞭打たれ、つばを吐きかけられ、罵倒され、そして殺された、ことが、人間の救いになるという、大いなる逆説であります。
 神は、悪しき者を裁き、鞭打ち、つばを吐き、罵倒し、そして殺すのではなく、裁かれ、鞭打たれ、つばを吐きかけられ、罵倒され、そして殺される者となったのであります。それがクリスマスであります。

▼1~節。
『エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
2:その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/
 主を知り、畏れ敬う霊』

▼6~8節以下に描かれる平和は、相対的なものではありません。誰かが幸福になる代わりには、誰かがその犠牲になるというようなものではありません。ここに描かれる平和は、絶対的な平和であります。
 そもそも平和とは何か、平和とは戦争がないことなのでしょうか。その通りでありましょう。それは平和の大前提であります。しかし、戦争のないこと、イコール平和ではありません。
 『主の霊がとどまる』、『主の霊』に満たされることが平和であります。
 まして、私たちの教会に於いて、『主の霊』に満たされることが平和であります。

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