心を刺し貫かれ

2015年1月4日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定通りにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 これは万民のために整えてくださった救いで、
 異邦人を照らす啓示の光、
 あなたの民イスラエルの誉れです。」
 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。ーあなた自身も剣で心を刺し貫かれますー多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

ルカによる福音書 2章22節〜40節

▼今日の箇所の登場人物は、シメオンとアンナの二人であります。二人共、この場面にしか登場しません。一体どんな人物なのか、それを知る手がかりは殆どありません。情報は、この記事のみであります。
 わずかな手がかりではありますが、探ってみたいと思います。
 先ず、シメオンの名前の意味、ユダヤ人の名前は、みな特別の意味を持っていますから、ヒントになるかも知れません。
 特に、福音書記者ルカは、この名前に特別の意味を持たせている場合があります。
 シメオンとは、聞くと言う語に由来するそうであります。
 神は聞くなのか、神に聞くなのか、議論があるようですが、今日の箇所の文脈からすれば、従来言われて来たように、神は聞くなのかと思います。

▼このシメオンについて、3通りに形容されてます。
 正しい、信仰が厚い、聖霊が宿っていた、このように記されています。すごい人に聞こえます。 
 正しい、はむしろ義しい。義であります。マタイ福音書1章の、『夫ヨセフは正しい人であったので』と同じであります。
 義しいという形容は、ルカ福音書と使徒言行録に目立ちます。ルカでは特に強調されています。
 十字架のイエス様について、百卒長の言葉がマルコでは、「本当にこの人は神の子であった」あります。これが、ルカでは、「本当にこの人は正しい人だった」となっています。
 このことを例に引けば、正しいという言葉が、ルカでは特に重要な表現であることを充分お分かりいただけると考えます。
 行い正しいとか品行方正とか、勿論そういう意味もありますでしょうが、神に着く人、神の陣営に属する人という意味が強いでありましょう。

▼『信仰が厚い』、信仰深い、実はこの通りの字は滅多に使われません。ルカが2箇所と使徒言行録2章5節と8章2節、これだけであります。
 『さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、
  信心深いユダヤ人が住んでいたが』
 ペンテコステ、聖霊降臨の場面であります。
 『しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ』
 ステファノの殉教の場面であります。ステファノは最初の殉教者であります。
 そして、殉教の直前と言いますか、むしろ最中に、ステファノは聖霊体験をします。
 『ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、
  神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
56:「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った』
 更に『ステファノは主に呼びかけて、
 「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
60:それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」
と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。』
 このことが偶然とは考えられません。
 今日の箇所との、類似性を見ることが出来ます。
 正しいという言葉が、何れも、聖霊そして殉教と結び付いて語られているのであります。
 このことは、今日の箇所を読む大きな手がかりになるでありましょう。
聖霊こそは、ルカむしろ使徒言行録の術語であります。

▼ルカに戻ります。25節。
 『そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で
信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた』
 シメオンは、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいました。
 つまり、この人は、特別な人、仙人の様な人ではなくて、敬虔なユダヤ教信者の典型として描かれているのであります。
 シメオンですから、12部族の一つ、シメオン族と関連があるかも知れません。既に滅ぼされた北王国の一員であります。末裔、残党、どう表現して良いか分かりませんが、何れにしろ、零落し、それだけに、ただ神の救いにのみ、メシアの誕生だけに望みをおく人なのであります。

▼26節。
 『そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、
とのお告げを聖霊から受けていた』
 ややこしいことが記されています。救い主に会う迄は死なない、生きて救い主を見ることが出来る、言い換えれば、見れば死ぬであります。
 この時代、不老不死への強い憧憬がありました。それはギリシャ思想にも、同じ時代の中国の思想にも現れます。
 吸血鬼伝説も一種の不老不死への強い憧れであります。
 シメオンはそれがかなえられた人、そういう見方も出来るかも知れません。
 しかし、彼の究極の願い・望みは、不老不死ではありません。
 『イスラエルの慰められるのを待ち望み』
 
▼彼の願いは、不老不死ではありません。イスラエルの救いであります。
 このことは、私たちの信仰生活、教会生活にも、そのまま重なるのではないでしょうか。
 教会は、自分の目標を実現するための舞台、或いは道場でしょうか。
 そういう人もあって良いかも知れませんが、やはり、教会のために働く、教会に仕えることによってこそ、教会から救いを得られるのであります。信仰の喜びは、教会のために祈り、教会を思うことによってしか与えられません。

▼29~32節の歌は、究極の救いに与った者の歌であります。
 『「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせ
てくださいます。
 30:わたしはこの目であなたの救いを見たからです』
 この歌で、何が強調されているのか。『安らかに去らせてくださいます』
 何故、やすらかに去ることが出来るのか。何故、静かに、満足して人生を終えることが出来るのか。
 御言葉が成就するのを見たからであります。つまり、神さまの御心が行われるのを見たからであります。

▼救いを見る、救いとは キリストの登場のことであります。つまり、ここでも、御言葉が成就するのを見ることであります。つまり、神さまの御心が行われるのを見ることであります。
 31・32節では、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいたことに加えて、異邦人の救い、全人類の救いが言及されています。これは、決してユダヤ至上主義ではないということを念押ししたものでしょう。

▼シメオンの実在を疑う人がいます。信じられないなら仕方がありません。結構でしょう。しかし、ならば尚更、ルカのメッセージ、即ち、初代教会のメッセージが際立つのであります。
 たまたまそのような人が居たということではなくなります。たまたまそのようなことが起こったではありません。シメオンが実在しないならば、むしろこのメッセージは強調されます。
 
▼34節。
 『シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。
この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりする
ためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています』
 シメオンの祝福であります。しかし、祝福とは言えないような、凄まじい内容であります。
 『多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、
  また、反対を受けるしるしとして定められています』
 何度もお話ししたことですから、簡単に申しますが、ルカ福音書のクリスマス物語では、平和が強調されています
 
▼羊飼いは、その職業柄、鞭や杖や、多分槍も刀も使い慣れています。また団体行動にも長けています。つまり、彼らは、今日これからでも有能な戦士に返信することが出来ます。
 その彼らが、新しい王の誕生をいち早く知らされたということは、本来ならば、新しい王の元に新しい軍隊が組織されるということであります。
 彼らは王の元に馳せ参じました。そこに天の軍勢が現れます。天からの援軍であります。それこそが、ユダヤ人が待望していたことであります。
 しかし、この軍隊は、エルサレムに攻め上るのではなくて、平和の賛歌を歌い上げました。

▼ところが、今日の箇所では、
 『多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、
  また、反対を受けるしるしとして定められています』
 実に物騒なことが預言されているのであります。
 矛盾ではありません。王の元に馳せ参じた者たちは、平和の戦いに赴く戦士となったのであります。
 私たちだって同様であります。それが伝道であります。
 マタイ福音書
 『平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる』
 口語訳では『平和を創り出す人々は、幸いである』でした。
 『神の子と呼ばれる』のは、平和を享受する人ではありません。『平和を創り出す人々』であります。

▼35節。
 『――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――
  多くの人の心にある思いがあらわにされるためです』
 もっと刺激的なことが語られています。
 これは決して唐突ではありません。 
 ルカ福音書1章51~53節。マリアの賛歌であります。
 『主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
52:権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
53:飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます』
 平和の歌である以上に、正義の歌なのであります。
 
▼ここで、最初に申し上げたシメオンの形容が、全て一緒になります。
 25節。
 『そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で
信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、
  聖霊が彼にとどまっていた』
 平和、正義、聖霊、これがみな重なるのであります。

▼ところで、
 『――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――
  多くの人の心にある思いがあらわにされるためです』
 これはどういうことでしょうか。
 勿論、マリアの殉教を預言しています。
 その時に、『多くの人の心にある思いがあらわにされる』とあります。
 もっと絞って、『多くの人の心にある思い』とは何でしょうか。
 全く新しいことが意味されている筈がありません。
 それは、シメオンの思いと同じであります。
 『「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。
 30:わたしはこの目であなたの救いを見たからです』
 
▼先程、シメオンは特別な人、仙人ではないと申しました。むしろ、信仰者そのものの象徴であり、代表なのであります。
 信仰者の望は、この世界が、救いを見ることなのであります。
 イスラエルが神さまによって贖われることなのであります。
 キリスト者も同様であります。キリスト者の究極の願いは、命・健康ではありません。真実が明らかになることであります。究極の救いを見ることであります。

▼矢張りシメオンの名前の意味は聞くにあるのではないでしょうか。
 神に聞く、神が聞く、これを特定する必要はありません。何れにしろ、私たちが神に何を求めているのか、神が私たちに何を求めているのか、問われるのであります。
 ルカ7章24節。
 『24:ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについ
て話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。
風にそよぐ葦か。
 25:では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。
  華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる』

▼神さまに、聖書に、教会に、何を求めるのかが、問われるのであります。
 『剣で心を刺し貫かれ』た時に、その心の裂け目から何が出て来るかが、問われるのであります。
 信仰が、霊が満たされているか、それとも、サタンの思いが詰まっているのか、見えてしまうのであります。

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