聖霊と火によって

2015年1月11日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについても、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻へロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

ルカによる福音書 3章15節〜22節

▼16節の後半から読みます。
 『わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない』
 当時のパレスチナでは、自由民は革製の靴を履いていたそうであります。経常としてはサンダルに近いものであります。裸足で歩くのは、奴隷等の下層の民だけであります。
 そこから、靴を脱ぐことは、私はあなたの奴隷に過ぎませんという意味を込めることになり、畏敬と服従のしるしとなりました。
 イスラム教徒がモスクに入る時に必ず靴を脱ぐのにはこうした意味があるそうです。
 客の靴の紐を解くことや、また靴を持つことは奴隷の役目とされていました。
 バプテスマのヨハネは、自分とイエス様の違いを、『わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない』と表現しています。

▼バプテスマのヨハネが、このように言ったのは、15節に戻ります。
 『民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、
  もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた』
 民衆のメシア待望が、その理由でありました。
 『メシアを待ち望』むことは、律法を守ることと並んで、ユダヤ教の核心であります。しかし、預言者イザヤの頃から数えても、既に800年、彼らは、有り体に言えば、待ちぼうけ状態だったのであります。
 何度も、彼こそがメシアと期待される人物が登場しました。その度毎に、期待は裏切られて来たのであります。

▼以前に紹介したことがあるかと思います。
 『ユダヤ警官同盟』という小説があります。現代アメリカのユダヤ人作家の作品ですが、ここでは、彼こそがメシアと期待された天才が死んでしまうところから、物語が始まります。このメシア候補は、やくざのボスの息子で、薬物中毒者です。
 大きな賞を同時に三つも受賞した大変面白い小説ですが、これ以上内容を紹介する必要はありませんでしょう。要するに、ユダヤ人は今でも、メシアを待ち望んでいます。しかし、現実、待ちきれるものではありません。次第に、信仰の中で、民衆のメシア待望は希薄なものになっています。事実上失われたと言う人さえいます。だから、天才とはいえ、やくざのボスの息子で薬物中毒者がメシア候補にされておかしくないのであります。
 あくまでも小説の中野ことではありますが、メシア待望は希薄なものになっています。

▼これは私たちキリスト者の場合、来臨信仰に重なるように思います。私たちは、使徒信条にもありますように、
 『天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、
 生ける者と死ねる者とを審きたまわん』
 キリストの来臨を待ち望む民であります。
 勿論、代々の聖徒と共に使徒信条を告白する、私たち日本基督教団の信仰でもあります。

▼しかしながら、キリストの来臨を、どれほど真剣に待ち望んでいるかというと、極めて曖昧であります。
 戦前の牧師などは、保険に入らなかったそうであります。来臨の時、言い換えればこの世の終わりが近づいているのに、保険に入っても仕方がないだろうという考え方であります。
 このような考え方が正しいかどうかは兎も角、切迫感、現実感を持っていました。
 今は、それが殆どありません。来臨を否定することは、異端でありますが、しかし、殆ど現実味がありません。
 これを強調する教会・教派を、ペンテコステ派と呼んで、自分たちとは違うと考えていることこそが、その証拠であります。
 まあ、この問題は今日の主題からは外れますので、これ以上は申しません。

▼さて、話は戻りまして、バプテスマのヨハネを、メシア候補としたことも、不思議と言えば不思議であります。民衆がかつて期待していたメシア像からは、随分と外れていると思います。
 民衆が期待していたメシア像とは、例えばモーセであり、預言者エリであり、サムエルであり、そして誰よりも、ダビデ王、ヨシア王であります。
 一方、イザヤの「苦難の僕」のメシア像があります。しかし、これはイエス様によって、その十字架によって現実になるまでは、民衆のメシア像とは、かけ離れたものだったと思います。
 現に、民衆は、「苦難の僕」の姿を取られたイエス様を、メシアとは認めなかったのであります。

▼こういう背景があって、バプテスマのヨハネは、自分とイエス様の違いを、『わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない』と表現したのであります。
 限りなく小さくなっていたメシア像を、真のメシアの姿に取り戻そうとしたのであります。

▼バプテスマのヨハネとイエス様の違いは、16節と17節に記されています。
 16節。
 『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが … その方は、聖霊と火で
  あなたたちに洗礼をお授けになる』
 これが先ず違いであります。
 『水で洗礼を授ける』、これは、実際にバプテスマのヨハネが行っていたことであります。その内容は、禊ぎ、浄めのようであります。いろんな宗教に共通して見られることであります。体を洗い浄めることが、魂を浄めることと重ねられます。

▼これに対して、イエス様のそれは、『聖霊と火で … 洗礼をお授けになる』とあります。『聖霊』でというのは、具体的に説明しろと言われたら困りますが、それでも何となく分かるような気もします。
 『火で … 洗礼を』とは、一体どういう意味でしょうか。
 その説明が、17節になります。
 『手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、
  麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』
 これは裁き、振り分けが語られています。
 箕という道具は全く見かけなくなりました。見たことのない若い人に、何と説明したら良いだろうと戸惑います。
 竹か麦を編んだ、ちりとりを大きくしたような形状の、『箕』に、脱穀した米や雑穀を入れ、バッサバッサと振り動かしますと軽い殻は飛び散り、穀物だけが残ります。
 その上で、『麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』つまり、必要なものと入らないものとに、振り分け、更に、不必要なものは焼き捨てるというのであります。

▼植物によっては、枯れた茎や葉を完全に除いて焼いてしまわないと、翌年の収穫に差し支えるものがあります。アスパラガスなどが該当します。我が家のアスパラガスは、昨年全滅しました。
 このまま放置すれば枯れてしまうと解っていても、その時間が取れなくて、みすみす駄目にしてしまいました。
 ヨハネ福音書15章には葡萄の譬えがあります。葡萄も同様のようです。枯れたものを取り除かないと病気が発生しやすくなります。バラもそうです。

▼つまり、バプテスマのヨハネのように水で洗うだけでは不十分だ、火で焼き浄めなければならないと言っているのであります。火で焼くことは、究極の消毒でしょう。
 『聖霊と火で』、つまり、聖霊もまた、人の魂を浄めるために降されるのであります。
 洗礼を受ける時に、聖霊が降されるということを強調する教派・教会があります。その通りでありますが、それは、何か霊的な能力が与えられるという意味ではありません。
 むしろ、汚れた人間的な思いが捨て去られ、神を思う思いで満たされるということであります。
 霊的な能力が得られるというのは、ちょっと了見違いだと思います。

▼18節も続けて読みます。
 『ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、
  民衆に福音を告げ知らせた』
 『ヨハネは、ほかにも … 福音を告げ知らせた』
 ここから先ず読み取らなくてはならないことは、16~17節が、バプテスマのヨハネによる福音だということであります。これが福音だから、『ほかにも … 福音を告げ知らせた』と記されているのであります。
 福音でしょうか。嬉しい知らせでしょうか。裁きの知らせではありませんか。
 『麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』
 まあ、麦にとっては福音、殻にとってはその逆、悪い知らせとなりますでしょうか。

▼そんな話ではありません。福音とは、確かに『良き知らせ』でありますが、朗報という意味ではありません。福音とは、イエス・キリストのことが語られることであります。
 自分にとって耳障りが良いか悪いか、口当たりが良いか悪いか、ではありません。
 そこを間違えている人がいます。楽しい話が福音ではありません。クリスマスを福音と感じても、十字架の出来事を福音とは受け止めないとしたら、それは全く福音に触れたことにはなりません。
 同じ意味合いで、裁きの言葉こそが福音である場合が少なくありません。旧約預言者の裁き、滅びの預言も、また、イエス・キリストを預言しているが故に、福音なのであります。

▼19節~20節には、全然別次元のことが記されています。
 しかし、18節までと無関係ではありません。ただ、バプテスマのヨハネが登場人物だという理由だけで、ここに置かれているのではありません。
 19節。
 『ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので』
 他の機会にお話ししていますので、約めてお話しします。

▼領主ヘロデは、領主と呼ばれていることからも分かりますように、王ではありません。父ヘロデ大王の全領地を相続することは出来ず、その一部の領主に留まっていました。
 そこで、シリア王の娘を妻に迎え、力を得ようと企みました。しかし、これがローマの疑心を招きます。そこで、シリア王の娘を離縁し、ローマに育ちローマ帝国にコネクションを持っているヘロデアと再婚しました。ヘロデアは元々領主ヘロデの兄弟の妻であります。これとの再婚は、不道徳的なことでした。
 ですから、バプテスマのヨハネに批判されたのは当然ですが、単に、道徳的な罪だけではなく、領主ヘロデの政治そのものが批判されたと見てよろしいでしょう。
 娘を離縁されたアレタスⅣ世は、ヘロデを攻撃します。このことで、結局ヘロデはローマから領地を召し上げられ追放されます。
 領主ヘロデの公私にわたる不定見、節操のなさこそが批判されたのであります。

▼20節。
 『ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事に
もう一つの悪事を加えた』
 福音を語る者を、『牢に閉じ込め』ることこそが犯罪であります。
 福音を語る者を、語らせないようにすることこそが悪事であります。

▼19節~20節には、全然別次元のことが記されていますが、18節までと無関係ではないと申しました。
 つまり、この出来事もまた福音の一部なのであります。

▼本日の聖書日課には、21~22節も取り上げられています。
 短いものですが、大変に重要な箇所であります。
 本当なら、ここだけで1回の説教箇所とすべきではないかと思います。しかし、聖書日課で読んでおりますし、既に難解も読んでいる所ですから、なるべく簡単に、結論部だけを申します。
 
▼イエス様が洗礼を受けたことは、正に、方向転換であります。勿論、イエス様が罪を悔い改めて、罪汚れを洗い落としたということではありません。そうではなくて、イエス様が、私たちの中に入って来られたのであります。
21節。
 『民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
  イエスも洗礼を受けて』
 イエス様が洗礼を受けられた時に、『天が開け』たのであります。つまり、天と地との間に、通路が出来たのであります。
 神の声が、神の言葉が、地に及んだのであります。
 神の国が始まったのであります。イエス様が洗礼を受けられた時に、神の国が始まった、これが、イエス様の洗礼の意味であります。

▼22節。
 『聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た』
 マルコ福音書では、1章10節。
 『水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった』
 マタイ福音書では、3章16節。
 『イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、
天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自
分の上に降って来るのを御覧になった。』

▼三つの福音書に共通して語られていることは、聖霊が降ったということであります。
 聖霊が降った出来事は、洗礼と結び付けて語られています。
 洗礼と聖霊降臨とは、切り離すことの出来ないものなのであります。
 聖霊が下されたのは、イエス様が水に浸かり、そしてそこから上がられた時であります。
 
▼これは、私たち人間の場合の方が分かり易く説明出来ます。
 私たちが一度水に浸かるのは、そこで一度死んだということを意味しています。再び浮かび上がるのは再生であります。復活であります。つまり、洗礼とは、一度、肉のまま、生まれたままの自分を殺して、新しい命に生き返ることを意味しています。
 これは全侵礼だろうと、滴礼だろうと同じことであります。形は違っても、その意味するところは全く同じであります。

▼ではイエス様の場合には、どうなのでしょうか。
 イエス様は、一度死ななければならないような罪を犯した方ではありません。
 悔い改める必要もありません。
 しかし、教会はキリストの体であります。イエス様は教会の罪のために、教会を贖いご自分のものとされるために、洗礼を受け聖霊を受けられたのであります。
 イエス様の洗礼と聖霊は、教会の洗礼と聖霊なのであります。

▼『天が開け』、この表現は重要であります。
 天が開いたから、そこから聖霊が下されるのでありますが、そういう単純なことに止まりません。
 神の国が開かれたのであります。天国の入り口が開かれたのであります。
 つまり、今、神の国が、この地上において始まったのであります。

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