夜通し苦労しましたが
2015年1月18日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)
イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
ルカによる福音書 5章1節〜11節
▼1節から順番に読みます。
『イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、
群衆がその周りに押し寄せて来た』
ゲネサレト湖は、ガリラヤ湖と同じであります。イエス様は、ガリラヤの人ですから、エルサレムに上って行かれるまで、活動の大部分は、このガリラヤ湖の近隣の町や村が舞台だったと思われます。4つの福音書には、大体そんなふうに描かれています。
▼ここに、『神の言葉を聞こうとして』、集まって来た『群衆が』いました。この表現を、このまま素直に聞けば、今、ここに集まり、イエス様の言葉に触れ、更に、奇跡を目撃体験することになるのは、『神の言葉を聞こうとして』、神の言葉を聞きたいと思って集まっていた人々であったということになります。このことは、大事なことだと考えます。
マルコ福音書を、読みますと、群衆という表現は同じでありますが、『神の言葉を聞こうとして』という説明はありません。ルカ福音書だけが、このことに特別に拘っているのであります。
他のどんなことのためでもありません。ただ、神さまの言葉を聞きたいと思って、人々が集まっていたのであります。そして、今日の出来事は、そのような人々の前で起こったのであります。
▼2節。
『イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。
漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた』
『網を洗っていた』そうであります。網を洗うことは、漁師にとって仕事の一部であります。漁を行うためには、欠かせない大事な仕事であります。
だから、この時のペトロたちは、全然魚がとれないので、すっかり嫌気がさしていたという読み方は、必ずしも当たらないと思います。
イエス様は、もう仕事が嫌になっていた人に対して、『私に従って来なさい』と仰ったのではありません。苦しかったかも知れません。辛かったのかも知れませんが、それでも仕事を続けていた人に向かって、『私に従って来なさい』と仰ったのであります。
そのように読むことも出来ます。むしろ、この読み方の方が自然ではないでしょうか。
▼もし、一生懸命に働いたのに、成果はさっぱりだったとしたら、たいていの人は、がっくり来て、やる気を失ってしまうと思います。
二・三日はゆっくりして、遊んで、気持ちを休めてからまたやろう、それが普通かと思います。
しかし、中には、直ぐに仕事を再開して、どこを、何故、間違えたのだろうと考え、働く人がいます。こういう人は、次には、きっと良い成果を得るでしょう。
ペトロたちは、良い結果を残せなかったけれども、がんばり続けていたのであります。少なくとも、逃げ出したのではありません。
▼3節。
『そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、
岸から少し漕ぎ 出すようにお頼みになった。
そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた』
『シモンの持ち舟に乗り』とあります。マルコ福音書とは、話の順番が大分違います。
マルコ福音書では、先ず、今日の出来事、つまり、弟子の召命があって、それから、シモンの姑の癒し、大漁の奇跡(マルコでは種まきの譬え)の順番となります。
けれども、ルカ福音書では、この時、既に、シモンの姑の癒しは終わり、シモンとイエス様は既知の間柄となっていました。シモンは、この時、もうイエス様に恩義がありました。
船に乗せることは勿論、網を打つことについても、イエス様の仰せに従う根拠が存在しました。
▼また、『シモンの持ち舟』という表現そのものに関心を持ちます。湖の漁ですし、大型船ではないでしょう。それにしても、『持ち舟』であります。財産であります。今日の網元のようなたいそうな存在ではなかったとしても、否、なかったとしたらなおさら、貧乏漁師だったとしたらなおさら、一艘の『持ち舟』は、貴重な財産であります。生活の根拠全てであります。
この事実は、最後の11節を読む上で決定的に重要になると思います。
▼先を急がず、順に読みます。
『舟から群衆に教え』とあります。
『舟から群衆に教え』とは、人々とは一定の距離を置くということなのでしょうか。教会である船でイエス様が話をされ、群衆との間は、湖の水で隔てられていたという事実を、どのように受け止めたら良いのでしょうか。
このことをもって、直ちに、教会とこの世との間には、一定の距離が必要だと断定することは乱暴ですが、少なくとも、その逆のことが記されてはいません。
▼4節。
『話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、
漁をしなさい」と言われた』
5節。
『シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、
何もとれませんでした。しかし、お言葉でありますから、
網を降ろしてみましょう」と答えた』
『夜通し苦労しましたが』、一晩かかっても釣果がないというようなことは漁にはつきもので、ペトロのこの言葉を、特別に重要視する根拠はないかも知れません。
一晩魚が捕れないから挫折するなんて人は、初めっから魚釣りをしません。
私の友人の牧師は、どこに行くのにも、何時でも、車に釣り道具を積んでいます。彼と一緒に、北海道から九州まで、あちこちに出掛けました。沖縄に行った時にも、釣り道具をどこからか借りて来ました。
夜遅くまたは朝早く、会議の間を縫って釣り糸を垂れます。しかし、彼が魚を上げた場面は、唯の一度も目にしていません。
まして、漁師は、そんな体験を何度も繰り返しています。そして、だからこそ、必死に、網を繕い、次の漁に備えるのであります。
▼『しかし、お言葉ですから』、イエス様の言葉は、理屈・常識に合わないとも言えますが、既にお話したように、ペトロがこのようにして、イエス様の命令に従う根拠は充分に存在します。
『お言葉でありますから』、説明を聞いて、本当にその通りだと、納得がいって、だから私もやってみようという場合と、そうではなくて、理屈は分からないけれども、あの人が言うのだから、無駄を承知でやってみようという場合があります。
この場合は、納得は行かないけれども、イエス様が言うのだからということであります。
▼何事でも、本当に納得がいったら、それはよろしいでしょう。理屈が解っていれば、がんばりも効きます。
しかし、理屈に合わなくともやらなければならない時があります。ここでこそ、信頼が問われるのであります。
『お言葉ですから』とは、理屈は分からないけれど、あなたに信頼してやってみましょうということであります。
私たちは、この逆に神さまに対して説明を求めることが多いのではないでしょうか。説明を聞いて理解出来るようなことはたいしたことではありません。そんなことは、神さまに聞くまでもないでしょうし、他の手段がいくらでもあるでしょう。
神さまにしか出来ないことは、私たちが説明を聞いても解らないでしょう。それなのに、私たちは、神さまに説明を求めるのであります。
▼6節。
『そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、
網が破れそうになった』
『おびただしい魚がかかり』、この大漁が、多くの人々に福音を宣べ伝え、救うことを象徴していることは、間違いありません。伝道の進捗であります。
『漁師たちがそのとおりにすると』、漁師としての経験を活かして、魚がいる場所を探すというようなことではありません。時と場所について、漁師としての常識に反していても、イエス様の言葉の通りにするという強調であります。
このことは、私たちに全く当て嵌まることでしょう。
私たちの理屈や方策、見通しではありません。私たちの伝道の根拠は、ただ神の宣教命令にのみあります。
▼7節。
『そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。
彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった』
イエス様のお言葉に従うならば、私たち人間の思いでは、想像することさえ出来ないことが、現実に起こるのであります。
▼『二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった』、『舟は沈みそうになった』ことに象徴的な意味はないと考えます。
もしあったら、とんでもない解釈も生まれて来ます。
一つの教会で伝道すれば、成果が上がるけれども、他の教会に手助けを頼んだら、船が沈みそうになった、折角の成果が台無しになるところだった、そんな読み方は無理だと考えます。
比喩的解釈の限界であります。
▼8節。
『これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
9:とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである』
『わたしは罪深い者なのです』、5章32節には、『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである』とあります。
超越者である神さまの臨在が、人間に対して、罪人としての自覚を惹き起こしました。
自己批判や自己卑下まして自己嫌悪が、罪人としての自覚を惹き起こし、悔い改めをさせるのではなく、イエス様の圧倒的な存在の前に、人はひれ伏し、罪人としての自覚を持つのであります。
▼同じような場面は、例えば、つい最近に読みました出エジプト記3章に描かれています。むしろ、これが今日の箇所の原点でありましょう。
出エジプト記3章4~6節。
『 4:主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間
から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、
5:神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎな
さい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
6:神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、
イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った』
▼出エジプト記のこの場面と今日の出来事とは、宣教への派遣という共通の主題を持っています。その中で、神の絶対的な存在の前で、ひれ伏すという共通点があります。
宣教・伝道は、ここから始まるのであります。
自分には、他のものに勝る能力があるのではないか、自信があるというところから始まるのではありません。
▼10節。
『シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。
すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、
あなたは人間をとる漁師になる」』
『人間をとる漁師』、直訳は『人間を生け捕りにする者』。旧約聖書では、人間を生きたまま危険から救うという意味になります。
『人間をとる』でも、『人間を生け捕りにする』でも、日本語の響きは良くありません。何か、奴隷の捕獲のようであります。
しかし、本来の意味は、「生け捕り」もっと深い意味で、生きたままに救い出すことなのであります。
▼11節。
『そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った』
『すべてを捨てて』、文字通りに受けとめて良いのではないかと思います。拘って読めば、『舟を陸に引き上げ』とは、次の漁の準備をしてからということになります。少なくとも、財産を守ってからということになります。そのことと、『すべてを捨てて』とは、矛盾といえば矛盾であります。
『すべてを捨てて』が先ず、読むべき言葉であって、その上で、漁師たちにとっては船は命も同然ですから、何しろ、大事に確保してからでなければ他のことは出来ない、そういう身に染みた習慣があったということで良いのではないでしょうか。
このことからも、彼らは、漁師という仕事に幻滅していて、その故に、伝道者という新しい仕事に魅力を感じたということではないと考えます。
▼召命、マルコ福音書の描き方は、何も説明がありません。それが説明であります。人間の思いではないということであります。
ルカは説明しようとします。
しかし、結局はマルコと同じことになります。私たちの中に根拠はありません。神のお言葉の中にある、そういうことになります。
▼お言葉ですから、 … イエス様の言葉を信じて、私たちは、神の国に行くのであります。
宇宙に行く人、宇宙飛行士は、いろんな知識を持っています。勉強します。
しかし、一人で全部分かっている訳ではありません。設計した人や、整備した人や、何千人という全ての仲間を信頼するしかないでしょう。
私たちは、神さまを信頼して、神の国まで飛んで行くのであります。まだ、言って帰って来た人は一人もいないのにであります。