種を蒔かれる人

2015年2月1日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

  大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、
 『彼らが見ても見えず、
 聞いても理解できない』
ようになるためである。」

 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

ルカによる福音書 8章4節〜15節

▼昔話に『舌切り雀』という話があります。決して、『舌切られ雀』ではありません。雀が誰かの舌を切る話ではなく、切られる話なのですが、『舌切り雀』であります。
 同様に『瘤取りじいさん』であって、『瘤取られじいさん』ではありません。じいさんが誰かの瘤を切り取る話ではなく、切り取られる話なのですが、『瘤取りじいさん』であります。
 私などは、最近初孫が与えられましたので、『小太りじいさん』、ちょっと太めのじいさんであります。
 まあ、上手く立ち回って、瘤を切り取って貰う話だと解釈すれば、『瘤取りじいさん』でも間違いではないかも知れません。
 しかし、『舌切り雀』は、不思議であります。

▼このことは、今日の日課に関係があります。今日の譬え話は、『種蒔きの譬え』『種蒔く人の譬え』でしょうか。それとも『種蒔かれの譬え』『種蒔かれる人の譬え』でしょうか。
 どのように小見出しをつけるかということが、そのまま解釈につながって行くと考えます。

▼順に考えてまいります。
 『種蒔きの譬え』『種蒔く人の譬え』だという前提で読みます。
 私たちの教会は、2000年間、種を蒔き続けて来ました。勿論、神さまの大宣教命令に従ってであります。
 マタイ福音書28章19~20節。
 『19:だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。  彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
  20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
  わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』

▼種蒔く人は教会であり、教会員であり、それを命じられるイエス様であります。
 玉川教会も70年近く、種を蒔き続けて来ました。その種は、『道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった』かも知れません。逆に見れば、道端にも種を蒔いたとも言えます。
 時を得ても得なくても宣べ伝えなさいと言われていますから、この種蒔き方法も間違いとは言えません。もっと効果的な方法、適切な機会・場所があったかも知れませんが、仕方がありません。
 玉川教会でも、チラシを配ったり、新聞に折り込み広告を入れたり、他にもいろんなことをして来ました。殆ど反応がなかったことが多いのでありますが、仕方がありません。決して間違いではなかったと思います。

▼『石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった』こともあったと思います。戦後の所謂キリスト教ブームの時に、玉川教会は誕生しました。蒔いた種も、こぼれた種も直ぐに眼を出すような時代環境でありました。
 人々は、食べ物にも餓え渇いていましたが、精神的にも信仰的にも、餓え渇いていました。人々は、群がるようにして、教会を目指し、礼拝に出席しました。
 その時代から70年、今はやっと二桁を保っているというような、東北奥羽の教会も、当時は100人200人の人が、文字通り会堂から溢れていました。
 その時代に信仰を得た人が、多くの教会で、未だに主力の教会員であります。

▼しかし、世の中が落ち着き、豊かになり、教会の外でも音楽に触れることが出来るようになり、文化を味わい、若い人同士の交流が可能になると、教会から人は去って行ってしまいました。
 決して茨の地ではなく、むしろ焼け野原に種は蒔かれたのでありますが、その焼け野原で『茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった』のであります。
 『茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや
富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない』
 世の中が平和で豊かになったら、人々は富を求め、思想的関心、宗教的関心を失っていったのであります。

▼今申し上げたことは、12~15節に記されていることと、殆ど同じであります。
 15節だけ改めて読みます。
 『良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、
忍耐して実を結ぶ人たちである。』
 玉川教会でも、これは実現したと思います。玉川教会にも『立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち』が与えられました。
 しかし、充分とは言えません。

▼私のささやかな菜園でも、ピーナッツなど幾つかの作物は、収穫したものの中から、良いものを選び、翌年の種とします。
 そうしますと、どんどん改良されて、質も大いに向上します。自前では種を生産できず、毎年毎年、新しい種を購入して蒔かなければならないようだと、採算が取れません。
 まあ、家庭菜園はそんなものです。赤字菜園です。

▼しかし、教会はどうでしょうか。あくまでも譬えではあります。
 玉川教会で洗礼を受けた人の子や孫が洗礼を受けるようになって、始めて、安定した教会が形成されるのではないでしょうか。
 私たちの教会は、これは大変に恵まれたことで、感謝するばかりでありますが、他の教会で信仰を与えられ転入して来られた方が、多数派であります。
 2世3世の方もあります。一番は5世ですか。ありますが、しかし玉川教会で洗礼を受けた人の子や孫が洗礼を受ける、この例は、僅かであります。
 過去数人であります。
 私たちの教会は、未だ未だ、開拓的な教会であって、自立した教会とは言えません。

▼日本の諸教会で、玉川教会で、教会の信仰、教会論が確立しているとは、とても言えません。その結果は、牧師が交替すれば、その度に大きく教会の方針が変わることになります。これを歓迎する人と、受け入れられない人とが出てきます。

▼かつては、欧米から種、つまり新しい神学や資金やらを導入して、日本に教会が立てられ、それが古びるとまた矢張り、欧米から種、つまり新しい神学や資金やらを導入するということが繰り返されました。今はそんな極端なことはありません。日本で育った教会が、自分たちの教会論・伝道論を持つに至っています。
 しかし、一個教会レベルでは、なかなかそこまで成長出来ていないのが現実であります。
 やはり、蒔かれた種が、実を実らせ、そこからまた新しい種が採れるようでないと、教会は成長出来ないのであります。

▼ここで、視点を全く変えなければなりません。話は、最初に戻ります。
 『種蒔かれの譬え』『種蒔かれる人の譬え』だったとしたらどのようになりますでしょうか。
 私たちの教会は、70年近く、種を蒔かれ続けて来ました。70年の間に、ざっと、3500回の礼拝を守り続けた勘定になります。
 3500回、礼拝で聖書が開かれ、御言葉が朗読された筈であります。つまり、御言葉の種が蒔かれた筈であります。
 私たち一人ひとりも同様であります。
 聖書研究祈祷会は、その倍以上、行われたと思います。家庭集会、その他、教会学校の礼拝は、大人と同じ数だけ。
 全部合わせたら、少なくとも1万回、聖書が開かれたことになります。種が蒔かれたことになります。
 その種は、どうなったのでしょうか。

▼私たちの教会は、道端に過ぎなかったのでしょうか。
 私たちの教会は40年前には、玉川学園前の駅の脇にありました。
亡くなった吉井さんから、こんな話を聞きました。
 40年前当時、この当たりは田舎で、万事のんびりしており、発車したばかりの伝書に、声を掛ければ止まって待ってくれたそうであります。
 玉川学園は谷地が多い所です。当時は下水設備が不完全で、雨が降れば道路がぬかるみ、通勤する人々は、長靴を履いて駅に向かいます。そして、駅の下駄箱で、革靴に履き替えたそうです。教会はその隣にありましたから、駅の下駄箱から溢れた長靴が、教会玄関の下駄箱に入れられたそうです。吉井さんは、当初、それが駅の下駄箱だと信じて疑わなかったと言っていました。
 玉川教会は、当時から開かれた教会だったのであります。いろんな人が入って来ました、でも多くの人が出て行ったのであります。
 玉川教会に蒔かれた種は、『人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった』のでしょうか。

▼12節。
 『道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、
後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである』
 ピーナッツを植える際に、是非とも必要なことは、種を虫や鳥から守ることであります。虫を防ぐためには、種ピーナッツを一端、灯油に浸します。それから、ポットに蒔きます。そうしないと、虫に食われてしまいます。しかし、あんまり長く浸していますと、灯油でふやけて、駄目になってしまいます。その加減はなかなか難しい。
 
▼ポットに蒔いて覆いを被せておかないと、全部鳥に食べられてしまいます。光と水は通さないといけませんから、網で覆います。なかなか面倒であります。
 こうして手をかけ、準備しても、ピーナッツは発芽率が悪く、せいぜい半分しか芽を出しません。発芽温度は25度、かなりの高温です。しかし、30度近くになったら、確実にひからびてしまいます。
 雨が多過ぎても腐ってしまいます。ですから、水はけの良い土地、土でなければなりません。
 牧師館の畑は傾斜地ですから、丁度良いようです。

▼さて、半分ほど芽を出します。一度芽を出せば、強くて、移植しても大丈夫です。もともと豆ですから、大して肥料も要らず、雑草にも強く、殆ど手をかけなくても勝手に育ちます。
 これが、ピーナッツを作る理由であります。季節季節に手間をかけなければならないようだと、とても時間がありません。
 里芋を作るのも殆ど同じ理由からです。最初は、1箇所に15~2センチ間隔で植えます。これは鳥に他減られる心配はないので露地栽培です。
 そして、芽を出して10センチ以上に育った所で、70~100センチ間隔で植え替えます。里芋は発芽率が良く、ほぼ100%芽を出します。
 それならば最初から、その間隔で植えたらよさそうなものですが、70~100センチ間隔で植えると、発芽率は俄然下がってしまいます。不思議なものです。

▼話は脱線するようですが、昔、大曲教会で薪ストーブを使っていた時の経験です。槇が1本だけになってしまうと、何故か消えてしまいます。消えかけた2本をくっつけると、再び勢いを取り戻して燃え出します。他がい゛互いを刺激するのでしょうか。理由は分かりません。
 しかし、このことは、信仰生活にも当て嵌まるように思います。孤独な信仰生活を守ることはとても困難なことであります。孤立すると、信仰の火が消えてしまうかも知れません。

▼8節。
 『また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」
 そして15節。
 『良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、
忍耐して実を結ぶ人たちである。』
 玉川教会が良い土地であるためには、何が必要か、玉川教会会員が良い土地であるためには、何が必要か、それが思案のしどころであります。
 答えは明確に語られています。
 『立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して』とあります。それが『百倍の実』に繋がるのであります。
 他のことではありません。聖書に聞くことであります。

▼イザヤの引用句は、丁寧な説明が必要かと思いますが、そうすればする程、今日の箇所、今日の主題からは離れてしまいます。今日は触れません。
 やはり決定的に重要なのは、『あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ』というこの表現だと思います。「あなたがた」と呼ばれている者を、教会と取ることはごく自然だと思います。「神の国の秘密」は、教会に対して開かれているので、他の者には、隠されている、こういう表現であります。
「秘密」とは、新共同訳聖書に用いられているように、「秘密」であり「奥義」ます。勿論、教会の聖礼典を指す言葉と同じであります。

▼この箇所の解釈は明らかであります。神の言葉は、主イエス・キリストによって教会にもたらされ、教会の働きによって、教会の働きによってだけ、宣べ伝えられ、そして、実を結ぶのであります。
「聞く耳のある者」つまり、信仰をもって聖書に向かい会う者にだけ、この言葉は開かれているのであって、それ以外の意図・それ以外の関心で向かい会う者には、閉ざされているのであります。
神によって、信仰を与えられ、教会に数えられた者に、その奥義・秘密は、明らかにされるので、教会と離れた所では、つまり、礼拝、聖礼典の場ではない所では、それは、閉ざされているのです。

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