キリストによる癒やし

2015年2月8日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

ルカによる福音書 5章12節〜26節

▼日課に従って、二つの出来事を一緒に読みます。滅多にないことであります。二つの出来事を一緒に読むのですから、二つの出来事の共通点に眼を向けるのは、当然のことと思います。
 二つとも、所謂奇跡物語であります。このことが先ず共通点と言えば共通点であります。しかし、それは特にルカ福音書の場合、実に沢山の出来事に共通することであります。
 二つとも、熱心に救いを求めた人が登場します。しかし、これもルカ福音書の場合、実に沢山の出来事に共通することであります。
 しかも、前半は当人の熱心さでありますが、後半は当人ではなく、その友人たちの熱心さであります。

▼実はもう一点、共通点があります。これが大きいのではないでしょうか。
 ここに登場する人物は、前半の人も後半の人も、違反行為を行っています。このことが、両者の共通点であります。
 ちょっとややこしい話なので、詳しく、順にお話しします。
 12節。
 『全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し』
 私たちから見れば、敬虔であり、控えめであり、且つ熱心に見えます。実に立派な姿勢に映ります。
 『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』
 ちょっともったいぶった言い方にも聞こえますが、これは翻訳上の困難さでありましょう。
 普通に聞けば、謙虚で、なおかつ、熱心であります。

▼しかし、厳密に言えば、これは律法違反であります。『全身重い皮膚病にかかった人』は、大勢の人々の中に立ち混じってはなりません。
 更に言えば、13節。
 『イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると』
 これも違反であります。『重い皮膚病』が伝染病だとすれば、適切な行為だとは言えないかも知れません。
 まあ、『重い皮膚病』が伝染病ではない、少なくとも感染力が弱いという説もあります。しかし、現代の医学的知識ではなく、この時代の医学的知識では、伝染病であり、恐ろしい病気だと考えられていました。

▼常に申し上げることですが、殆どの奇跡物語・病気の人を癒やす出来事の中で、イエス様が、病人に手を置くようなことはなさいません。患部をさすってあげることもありませんし、それどころか、お祈りもしません。
 ただお言葉を掛けられるだけであります。
 それが、ここでは、『手を差し伸べてその人に触れ』と記されています。極めて例外的なことであります。
 勿論、イエス様は、この病気を恐れたりなさらなかったということでありましょう。病に罹った人を、そのままに受け入れられたということでありましょう。

▼ややこしいと言いましたのは、もっと別のことであります。
 同じ出来事をマルコ福音書が記した場合と比較してみます。
 マルコ1章41節。
 『イエスが深く憐れんで』、この言葉がルカにはありません。ルカは簡単に、
 『イエスが手を差し伸べてその人に触れ』であります。
 ややこしいのは、マルコの『イエスが深く憐れんで』の直訳は、『イエスは憤って』であります。意味不明とも思われます。元々の意味は馬が鼻息を鳴らすという言葉であり、ここから、普通は怒る、憤ると翻訳されるのでありますが、これでは意味が通じない所から、馬が鼻息を鳴らす、激しく興奮する、そして『深く憐れんで』という翻訳になりました。
 しかし、これは誤訳で、『イエスは憤って』が正しいと考える学者が少なくありません。

▼何れにしろ、『深く憐れんで』という表現は、ルカにはありません。他にも違いがあります。
 マルコでは、43~44節。
 『43:イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
  44:言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい』
 ここは、ルカの14節とほぼ共通していますが、45節。
 『45:しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、
  言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず』
 とあります。
 簡単に言えば、『重い皮膚病』を癒やされた男は、1に、律法に違反してイエス様に近づいた、2に、祭司に見せなさいというイエス様の言いつけを無視し、更に3、『何も話さないように』という命令にも違反しました。ために、イエス様の伝道が邪魔されたと書いてあります。
 これがルカにはありません。
 ルカの方が、この男に寛容だと言えるかも知れません。
 逆に言えば、ルカも、この男の違反行為を知っているのではないでしょうか。その上で、寛容だし、男の熱心さを認めているのではないでしょうか。
 そして、敢えて『イエスが手を差し伸べてその人に触れ』と記し、極端な言い方をすれば、イエス様も違反行為をした。男を救うためには、違反したと強調しているのではないでしょうか。

▼後半部の記事を見ます。
 18:すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、
家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
19:しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、
屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
 『中風を患っている人を床に乗せて運んで来』たことが既に常識に反しているかも知れません。そのために、病気に触るかも知れません。重篤な病人を癒やして貰うために、イエス様を家まで招いた話は沢山出てきます。
 しかし、この男たちは、時間的な余裕がなかったためでしょうか、そうだとしたら重傷で、いよいよ、乱暴な行為となるのですが、『床に乗せて運』ぶという非常手段に出ました。

▼まあこのことは、やむを得ないことだったとしても、『屋根に上って瓦をはがし』、これはあまりにも乱暴であります。当時の屋根は、薄く粗末だっのでありましょう。比較的簡単に穴を開けることが出来たのでありましょう。それにしましても、泥煉瓦のような素材で出来ている屋根に穴を掘ったら、おそらくは、崩れて、イエス様の頭にもゴミのようにバラバラと土が降り落ちたことでしょう。

▼そもそも、『群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかった』と、簡単に記していますが、どうしてでしょう。
 狭い家に、人がひしめき合っていたかも知れません。おそらくそうでしょう。しかし、病人が通ります、道を空けて下さいと言ったら、どうにかなるのではないでしょうか。
 それがならなかったということが、現実であります。つまり、ここに集まった人々は、私たちの教会に集まるような人ではなかったと思います。
 静かに御言葉に聞くような人ではなかったと思います。

▼自分こそ奇跡に与りたいと願って必死だった人もいたことでしょう。物見遊山の人もいたことでしょう。
 このことは、前半部でも同じであります。
 15~16節。
 『15:しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、
教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
  16:だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。』
 『教えを聞いたり』とあります。これも事実であります。しかし、それならば何故イエス様は、これらの人と一緒に祈られなかったのでしょうか。
 やはり、それが出来なかったのであります。出来るような人たちではなかったし、そんな状態ではなかったと考えます。

▼同じような混乱が、18~19節にも描かれているのであります。
 改めて読みます。
 『18:すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、
家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
  19:しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、
屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。』
 大混乱であります。めちゃくちゃであります。

▼それを見ておられたイエス様が、20節のように仰ったのであります。
 『イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。』
 『その人たちの信仰を見て』であります。
 この信仰とは何でしょうか。
 ユダヤ教的に律法を遵守したというようなことでは絶対にありません。道徳的倫理的なことでもありません。
 唯一点、必死さであり、全てをイエス様に託したという点であります。これしかありません。
 そして、このことが、前半の出来事との共通点であります。

▼ところで、『人よ、あなたの罪は赦された』とは、どういうことでしょうか。『その人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた』のでありますから、病人を屋根に運び上げた男たちのことであります。
 病人の『罪は赦された』なら未だ解ります。想像は出来ます。しかし、『罪は赦された』のは、病人を屋根に運び上げた男たちのことであります。
 彼らがどんな罪を犯していたのか、何も記されていません。
 もしかすると、病人を屋根に運び上げたこと、そのことでしょうか。この乱暴極まりない行為も、その熱心さ故に、友人を思いやる愛の故に赦されたということでしょうか。
 それとも、何をしたからしなかったからということではなく、人は皆罪人でありますから、その罪人が、この度起こった愛の業の故に『赦された』のでしょうか。

▼さて、21節。
 『ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。
「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、
  いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」』
 『ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか』
 まあ確かにその通りでしょう。正論かも知れません。しかし、今ここで言いますかという違和感は拭えません。
 今現実に起こった事柄の前で、神学的な意味での罪の赦しを論ずるのでしょうか。

▼『あれこれと考え始めた』と記されています。イエス様の言葉を聞いて直截的に反応したのではなく、何か文句の付け所はないかと粗探しをして、そうだそもそも罪を赦すのは神の業ではないか、イエスは、思い上がっていると、批判の論拠を見つけたのであります。
 つまり、批判のための批判であります。

▼22節。
 『イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。』
 彼らの考えなどお見通しであります。
 『何を心の中で考えているのか』
 彼らには、聖書の知識があります。多分、様々な修行も積んでいることでしょう。善行という信仰的徳も身に付けていることでしょう。
 この二つの話に登場する人々とは大違いであります。正に信仰的エリートであります。
 しかし、彼らの心の中には、愛はありません。苦しむ民衆への愛も、神への愛も。

▼23節。
 『『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。』
 一番簡単に説明すれば、そんなことは神にしか赦されないとファリサイ派の人が考える『あなたの罪は赦された』という言葉よりも、もっと困難な『起きて歩け』と言う言葉を、聞かせて上げようということであります。
 
▼そうして、24節。
 『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、
「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。』
 『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう』、はっきりと言い切っています。イエス様が即ち人の子、この場合はメシアだということ、『罪を赦す権威を持っていること』、それが明言されています。

▼つまり、ここで『罪を赦す権威』と癒しとが、完全に重なっているのであります。
 単に病気の治癒がなされたのではありません。罪が赦されたのであります。今日の二つの出来事ともそうであります。今日の二つの出来事の真の共通点は、罪の赦しなのであります。

▼私たちも、教会に集まるのは、癒しを求めて集まるのではありません。
 『「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」』
 罪の赦しであります。
 『あなたの罪は赦された』
 私たちが求めるものは、罪の赦しであります。
 
▼24節。
 『その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、
神を賛美しながら家に帰って行った。』
 罪の赦しに与った者が、『神を賛美しながら家に帰って行った』
 神を賛美するのであります。
 逆に言えば、例え病を癒やされても、神を賛美しないのは、罪の赦しに与っていないからなのであります。

▼26節。
 『人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、
「今日、驚くべきことを見た」と言った。』
 私たち今日の教会の関心で読めば、罪を癒やされたことへの感謝そのものが、伝道へと繋がりました。
 多分、本当の伝道力は、ここから生まれるのであります。罪を癒やされたことへの感謝、これこそが伝道の力であります。

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