全ての人が満足した

2015年2月15日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

ルカによる福音書 9章10節〜17節

▼5000人にパンが与えられた今日の出来事は、四つの福音書に共通して記されている極めて特異な記事であります。その内、マタイとマルコには4000人のパンが重複して記されています。4福音書に計6回記されており、礼拝でも、これらの箇所について繰り返し読んでいます。
 どうしても重複する処、重複してもお話ししなければならない結論部分を、先ず、お話しすることに致します。

▼たった5つのパンと2匹の魚で、何故『みんなの者は食べて満腹した』のか。この不思議について、結論部分を説明します。
 キリスト教2000年の歴史の間に、いろいろと解釈され、説明がなされて来ましたが、何故パンが増えたのか、このことに拘っている限り、正しい解釈は出来ないでありましょう。
 問題は、17節であります。
 『すべての人が食べて満腹した』ここが肝心であります。
 皆で分かち合うにはとても足りないと見えた、ほんの僅かなものを、皆で分け合ったら、皆が満足しました。これが結論であります。

▼お金や食べ物など、殆どのものは、分け合う者の人数が増えれば、一人ひとりの取り分が減ります。けれども、皆で分かち合うと、かえって、一人ひとりの取り分が増えるものが、現実に存在します。
 友情などはそうであります。音楽もそうであります。そして、それらは、目には見えないもの、数字に置き換えたり、計ったりすることが出来ないものであります。
 私たちは経験上からも、そのようなものが存在することを知っています。

▼何より、神の言葉であります。皆で分かち合うと一人ひとりの取り分が減るどころか、皆で分かち合うと、かえって、一人ひとりの取り分が増えるのであります。
 礼拝も、聖書研究会も、そのような場でありたいものであります。皆で御言葉を分かち合い、互いにより豊かにされる、そのような場でありたいものであります。

▼しかし、一方で、このことも指摘しておかなくてはなりません。皆で分かち合うと一人ひとりの取り分が減るどころか、かえって、一人ひとりの取り分が増えるものが、皆良い物であるとは限りません。憎しみ・敵意もまた、分かち合うことで増幅するのであります。
 そのことは、今日の世界情勢を見ていれば、良く分かるというよりも、痛切に感じさせられることであります。
 教会は神の言葉をこそ、神の言葉だけをこそ、皆で分かち合う必要があります。他のものを分かち合うことに気持ちを奪われると、結果は、憎しみ・敵意を増幅することになりかねないのであります。

▼以上のこと、結論を前提として、順に読みます。10節。
 『使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。
  イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた』
 『帰って来て』とありますのは、9章1節以下に記されている『12弟子の派遣』のことであります。
 また、10章には、『72弟子の派遣』の出来事が述べられています。
 つまり、5000人にパンが与えられた奇跡物語は、『12弟子の派遣』と、『72弟子の派遣』の間に起こった出来事とてし描かれているのであります。
 しばしば、教会でチャージして、この世界に出かけ、そしてエネルギーを使い果たして、またチャージするために教会に戻ってくるという言い方がなされます。
 これは全く正しいと考えます。チャージするのは、神の御言葉であり、神の愛であります。

▼伝道のために働く時に、最も肝心なことは、その人自身が、礼拝で、御言葉で養われているということであります。聖書に聞くことをしない者が、伝えられる筈もありません。
 逆に、人に教えることが一番の学びになるという説があります。その通りだろうと思います。
 昔々、『ビーチャと算数』という話を読んだことがあります。小学校の教科書に載っていました。
 ビーチャは算数が苦手です。嫌いでした。しかし、ある時に妹に頼まれて算数の宿題を教えなくてはならないことになりました。妹の学年の算数が分からないというのでは、兄の面子が丸つぶれですから、ビーチャは真剣にこの問題に向き合います。そして、考えに考えて、ちょっとしたヒントから、見事に問題を解き、これを妹に教えてあげ、面目を保ちます。
 それがきっかけで、ビーチャは算数が苦手で葉なくなり、嫌いではなくなり、むしろ大好き、大得意科目になるという話であります。
 私たちも同じことであります。宣べ伝えるためには、何となくでは通用しません。しっかりと学び、そして確信をもって語らなければなりません。
 そうする時に、信仰が養われるのであります。

▼11節。
 『群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、
神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた』
 10節に『イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた』とありますのに、人々はイエス様と弟子たちとを追いかけたのであります。そして、そのような人を相手として、『イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた』のであります。
 何故だかイエス様は弟子たちだけを連れて、群衆の元を離れました。しかし、人々は、求めて自ら足を運び、そうして、『神の国について』の御言葉をいただき、また、病から癒やされたのであります。
 願い求める者に、御言葉も救いも癒やしも与えられるのであります。
 願い求めることをしない者に、果たして御言葉が与えられるでしょうか。

▼12節。
 『日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。
「群衆を解散させてください。そうすれば、
  周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。
  わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです』
 既に結論として申しましたように、教会とは、御言葉を分かち合う処であります。
 弟子たちは、イエス様の御言葉で養われている者の、食料を心配するという、間違いを犯しています。弟子たちは、あくまでもパンのことしか考えていません。ここで注意して頂きたいことは、パンのことを言いだしたのは、飢えた人々ではなくて、教会の方であります。
 弟子たちなりに、植えた群衆に配慮しています。しかし、中途半端であります。

▼13節前半。
 『しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』 ここで大事なことは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』というお言葉であります。つまり、イエス様は、弟子たちが『食べ物を』持っているという前提でお話しされています。
 彼らは、『食べ物を』持っているのであります。
 その『食べ物を』とは、勿論、御言葉の糧、霊を養う糧のことであります。

▼ここで私たちが考えるべきは、私たちの教会もまた、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』このように命じられているということであります。
 その『食べ物を』、私たちは本当に持っているのかと、問われているのであります。

▼13節後半。
 『彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません』
 彼らは、自分たちが持っているもの、イエス様によって与えられたものが見えていません。数えていません。
 『パン五つと魚二匹しかありません』このように答えています。『パン五つと魚二匹しかありません』と思っているのであります。
 このことも、私たちの教会に当て嵌まります。『パン五つと魚二匹しかありません』このように答えていてはなりません。

▼14~15節は省略します。
 16節。
 『すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、
  それらのために賛美の祈りを唱え、
  裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた』
 これは、単純に食料を配給する話ではありません。あまりにも明かであります。聖餐式を連想させられます。

▼17節。
 『すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、
十二籠もあった』
 最初に申しましたように、イエス様の御言葉だけが、『すべての人』を『満腹』させ、その霊を養うのであります。

▼さて、ルカ福音書では、文脈、出来事の順番が大事であります。
 マタイ福音書と比べて、マルコ福音書と比べて、微妙に順番が違っているのであります。
 その結果は、5000人のパンの出来事と、所謂ピリポ・カイザリヤの告白とが密接なものになっています。
 こういうことは、一覧表でも作って見ませんと、なかなか言葉で説明するには限界がありますので、結論部分だけ簡単に申します。
 信仰告白の物語とパンの奇跡の物語とが入り組んでいるのであります。
 先ずこの点に注目しなければなりません。

▼9章の7~9節の後には、9章18節の出来事が続いて自然なのであります。しかし、その間に、ペトロのメシア告白が挟み込まれています。
 これが偶然である筈がありません。
 5000人のパンは、洗礼を受けた者に限定して与えられたのではなかった。誰にも等しく与えられた。…その通りであります。
 だから、聖餐式は誰彼と差別することなく、その場に居合わせた全ての者に与えられるべきである…そうでしょうか。
 既に読みましたように、ここで本当に問題になっているのは、パンのことではありません。そうではなくて、心の糧のことであります。信仰のことであります。
 神さまは、確かに、全ての者にパン、心の糧を下さったのであります。誰にも分け与えられたのであります。その時には、皆が満足したのであります。
 しかし、その中から、信仰を告白して、イエス様に従い続ける者とそうでない者とに分けられて行くのであります。
 蒔かれた種を育てる者とそうでない者とに分けられて行くのであります。

▼21節以下に少しだけ触れます。
 御言葉に与り信仰告白した教会、告白した教会に対して、秘密の言葉が与えられるのであります。秘蹟が起こるのであります。
 つまり、パンの奇跡が、教会に集う人々に与えられた栄光ではありません。教会に集う目的は、パンに与ることではありません。正確にはそれだけではありません。
 教会に集い、御言葉の糧に養われ、信仰を告白し、その結果、秘蹟に与るのであります。
 つまり、十字架と復活の言葉を聞くのであります。
 
▼28節以下には、山上の変容のことが語られています。ルカ福音書では、パンの奇跡、信仰告白、山上の変容が直に並べられているのであります。
 山上の変容、この時、教会は栄光に包まれました。
 つまり、教会が教会に変えられるのであります。

▼諄いようですが、もう一度整理します。
 教会に大勢の人々が集められます。その多くは、飼う者のない羊のようであって、餓え渇いています。パンにも水にも飢えている人がいるかも知れませんが、多くは、魂が、信仰が餓え渇いているのであります。
 そこに神様からパンが与えられます。これは、食料と考えるならば、取るに足らない量に見えます。しかし、これは、全ての人々の魂を養い満足させることが出来ました。

▼その人々の中から、全員ではありません。人々の中から、信仰告白をする者が現れました。これらの者に対して、イエス様は、例え話ではなく、目に見える手品染みた奇跡の形ではなく、神の国の神秘を授けました。秘蹟であります。彼らには、十字架による救いが、復活の出来事が語られたのであります。
 逆に言えば、十字架による救い、復活の出来事は、信仰を持った者の耳にしか聞こえないのであります。見えないのであります。
 逆に言えば、他の人には見えない十字架が見え、十字架の言葉が聞こえてくることが、信仰であります。
 もっと言えば、専門的な学びとか、訓練、修行、献金、そのようなことで、見えて来る、聞こえて来るのではありません。必要なのは信仰だけであります。

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