ベルゼブルの力とは

2015年3月1日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」

ルカによる福音書11章14節〜26節

▼『イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった』
 『悪霊』は『口を利けなくする』。このこと自体に、興味を覚えずにはいられません。なぜならば、11章の最初には、弟子たちに対して、主の祈りが与えられたという記事が載っています。その直後に、『悪霊』が『口を利けなくする』話が出て来るのであります。これは偶然でしょうか。とても偶然とは考えられません。
 『悪霊』は、人の口から言葉を奪います。それも、神への感謝、祈りの言葉を奪うのであります。

▼14節の『口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した』。
 ここも、同じように読むことが出来ます。『口の利けない人がものを言い始めた』とは、単に会話が出来るようになったということでしょうか。そうかも知れません。今まで言葉を発することの出来なかった人が話し始めたら、『群衆は驚嘆した』かも知れません。
 しかし、そんな単純なことではないかも知れません。

▼先週の聖書研究祈祷会の聖書箇所は、ルカ福音書18章35節以下でした。
 その43節。41節から読みます。
 『41:「何をしてほしいのか。」盲人は、
  「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。
 42:そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰が
あなたを救った。」
 43:盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、
  イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。』
 ここは眼が見えるようになる話であります。今日の箇所と重なるように思います。
 つまり、イエス様によって癒やされた者が、救いを与えられた者が、感謝して神を賛美します。するとこれを見た民衆も、『こぞって神を賛美した』とあります。神に感謝して、喜びに溢れて賛美することこそが伝道になります。
 伝道とは人を説得したり、まして洗脳することではありません。
 自分の感謝・喜びが周囲の人に伝わる、これが伝道であります。

▼今日の箇所でも、『口の利けない人がものを言い始めた』とは、単に会話が出来るようになったということではなく、神さまを賛美した、感謝を言い表した、喜びを言い表したということではないでしょうか。
 私たち自身が『口の利けない人』だったのであります。神を賛美する言葉など、持ってはいませんでした。真の喜びを持ってはいませんでした。しかし、主の祈りを与えられ、自分の口で神を賛美することが許されました。『口の利けない人がものを言い始めた』のであります。

▼しかし、その時に、15節。
 『「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者』がいました。こういう人が存在するのであります。
 こういう人は、自分が『口の利けない人』だということを知らないのであります。自覚しないのであります。
 何度もお話ししていますが、『ベルゼブル』、悪魔とは、『蝿の王』であり、人の心に巣くって、一切を空しいと思わせ、一切を腐らせるものであります。
 こういう人はイエス様の宣教の言葉も業も腐らせるのであります。
 こういう人は、『ベルゼブル』の言葉を語っているのであります。

▼『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』
 イエスさまに力があることは認めざるをえません。だからと言って、神の人であるとは限らない、悪魔の力で満たされているという可能性もあると言い出したのであります。
 この人は、兎に角信じたくないのであります。絶対に信じないという結論が先にあります。それを守り抜くためには、ベルゼブルなどというややこしいものを持ち出して、イエス様を神とは信じないが、ベルゼブルの存在は信じているようなことを言うのであります。
 約めて言えば、キリストを否定するために、悪魔を持ち出したのであります。キリストを否定するために、悪魔を信じるのであります。
 これは、教訓的であります。歴史を通じてそういうことがしばしば起こったのであります。人間は、キリストを否定するためには、悪魔を持ちすのであります。キリストを否定するためには、悪魔を信じるのであります。

▼16節。
 『イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた』。
 こういう人もいました。
 『天からのしるしを求める』ことよりも、『イエスを試そうとして』、これが問題であります。
 先週の伊藤多香子牧師による説教箇所で、サタンが登場しました。サタンは試みる者であります。この一事で解ります。『イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者』、これ即ち悪魔の仕業なのであります。悪魔に心を奪われ、悪魔に仕えているのであります。

▼試す、神を試みるということが、既に悪魔の業であります。何故なら、本来は、神が私たちを試すのであります。その逆は既に罪であります。神を試みる者は、神よりも高い処に立っているのであります。
 神よりも高い場所に立って、神を試みる者は、悪魔に他なりません。
 イエスは神とは限らない、悪魔かも知れない、或いは神であるしるしを見せてみろという者は、実は自分が悪魔の側にたっていることに、気が付いていないのであります。
 自分が悪魔の役割を果たしていることに、気が付いていないのであります。

▼17節以下の譬えは、何度もお話ししていることですし、今日は思いっきり省略致します。
 要するに、サタンは内輪もめなどという愚かなことはしない、内輪もめをして、サタンに利用されているのはあなたがただということであります。
 
▼20節と23節だけを見ます。
 『しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、
  神の国はあなたたちのところに来ているのだ』。
 しるしは既に与えられています。見えない人が見えるようになり、聞こえない人が聞こえるようになり、口の利けない人が話すようになっているのであります。
 神さまを告白し賛美しているのであります。
 神の言葉に聞き入っているのであります。 
 しかし、それを否定する人がどうしてもいます。
 人の心に巣くって、一切を空しいと思わせ、一切を腐らせるものに捕らえられているのであります。
 『イエスを試そうとして、天からのしるしを求め』るのであります。

▼先程引用したルカ18章43節。
 『そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰が
あなたを救った』。
 信仰があれば見えるのであります。神の恵みが。神の恵みが見えないのは、神の恵みを感じないのは、サタンに眼をふさがれているからであります。
 イエス様を見ないで、サタンを見ているからであります。

▼23節。
 『わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は
散らしている』。
 これを、私たちの教会の伝道活動と重ねて読むのは当然ではないでしょうか。
 要は神さまの業と信じて働いているかどうかであります。
 それを『悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』と見るならば、もう何も出来ません。

▼ルカ福音書では7章に、イエス様の足に香油を塗った女の話が記されています。ここでも、50節の結尾の部分に、『あなたの信仰があなたを救った』と述べられています。
 この女の行為を、39節。 
 『イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、
  「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、
   どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った』、
 このように記されています。ファリサイ派の人は、イエス様を試しています。それどころか、イエス様に落第点を点けています。
 普通に読めば、麗しい場面であります。しかし、それを冷笑し、自分だけが正しいように感じているのであります。
 悪魔に捕らえられています。神さまの物語が、この人には美しくなく、自分の物差しで測って、馬鹿ばかしいと言っているのであります。

▼同じ場面をヨハネ福音書で見ますと、このようにあります。
 12章
 『弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
5:「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、
  貧しい人々に施さなかったのか。」
6:彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである』。
 サタンに捕まっていたのであります。
 具体的にはお金に捕まっていたようであります。それなのに、『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか』などと、一見まっとうに聞こえることを言っているのであります。
 他人をごまかし、自分自身をも欺いています。それがサタンに捕まったということであります。

▼同じヨハネ福音書13章27節。
 『ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。
  そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」
  と彼に言われた』
 サタンがユダを捕まえました。しかも、それは、イエス様から『ユダがパン切れを受け取ると』であります。
 恐ろしいことであります。
 説教の後、聖餐式を守ります。魂の糧を頂く時であります。御国の食卓に着く時であります。
 聖霊に満たされる時であります。 
 この時に、ユダのように、サタンに捕らえられてはなりません。

▼24節以下は、前半部分とは別の話なのでありますが、しかし、関連性が深いからこそ、ここに置かれたのでありましょう。
 『汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、
見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う』。
 ここは昔から教会と重ねられて読まれて来たと思います。もし本当に重なるとしたら、恐ろしいことであります。
 悪霊にとって、教会が居心地が良いとしたら。
 『汚れた霊』が帰って来ても入る余地がない程に、聖霊に満たされていなければ、信仰に満たされていなければ、愛に満たされていなければ、『汚れた霊』が帰って来てしまうのであります。

▼26節は、もう私たちに対する警告でありましょう。
 『そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、
中に入り込んで、住み着く。そうなると、
  その人の後の状態は前よりも悪くなる』
 教会がこのような姿になってはなりません。

▼ルカの主の祈りの最後の部分はこうであります。11章4節。
 『わたしたちを誘惑に遭わせないでください』。
 誘惑とは何か、これだけで一冊の本のテーマになるでしょう。しかし、一番単純に言えば、今日の箇所にあることであります。
 ベルゼブルの力であります。ベルゼブルの誘惑であります。
 ルカ福音書4章12節。先週の箇所であります。
 『イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」
とお答えになった』
 『主を試』すことこそが、誘惑であり、サタンの業であります。

▼その逆、主によって試されるならば、むしろ、幸いかも知れません。イエス様は、ペトロを試しました。ペトロ即ち教会の代表であります。
 このペトロに言われました。
 ルカ福音書9章、18節と20節を読みます。
 『イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。
そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と
お尋ねになった』
 『イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと
言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」』
 神を試す者となってはなりません。試されて、『神からのメシアです』と答えなくてはなりません。

▼ヨハネ福音書21章17節を読みます。例外的に長い節であります。
 『三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」 ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい』

※イエス様・キリストの父なる神さま
 私たちは、静かな所で一人祈られるイエス様の許に押し寄せて、
 祈りの妨げをするような群衆に等しい者であります。
 絶えず、あなたの前に、呟きを言い、不満を持ち、不安を抱いています。
 私たちは、御心を理解せず、自分が理解出来ないから、信じられないから、 そんなことはあり得ないと、イエス様のなさった業さえも否定しようとする 学者たちに等しい者であります。
 そのような、私たちの救いのために、イエス様は十字架への道を歩まれたことを思います。
 どうか、いろんなことが理解出来ず、信じられなくても、
 イエス様は、私たちの救いのために、十字架への道を歩まれる、このことをしっかりと心に刻むことができますように。
教会修養会で、私たちの教会のあるべき姿について学び考え、話し合いました。どうか、このことを、少しずつでも、実践することが出来ますように。
 寒さも和らぎ、春の気配が感じられるようになりました。どうか、玉川教会に連なる者の心にも、日々の生活にも、春の日のような平安を与えて下さい。 特に、健康を損ねている者を省みて下さい。
 私どもも、これらの兄弟姉妹のために、日々祈ることが出来ますように。
 レントの中、イエス様の十字架を見上げ、隣人の傷みに目を向けて生きることさせて下さい。

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