自分の十字架を背負って

2015年3月8日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

ルカによる福音書9章18節〜27節

▼繰り返し読んでいる出来事が、また日課として与えられました。と申しましても、これまではマタイ福音書でありまして、ルカは二度目になります。聖書研究祈祷会では大分前に読みましたが、その時の原稿はパソコンの不具合により消失しています。
 それも御心かも知れません。過去の学びに拘らず、新しい気持ちで読みたいと思います。

▼先ず確認したいのは、文脈であります。文脈などと言うと、とても難しいことのように聞こえるでしょうが、要するに順番であります。
 ルカ福音書では、今日の出来事の前に、5000人のパンの奇跡が起こり、これに、ペトロの信仰告白が続きます。
 このことを、聖餐が先ずあって、そこから信仰告白へ繋がるという図式であると解釈する人がいます。まあ、一つの解釈であり、説得力もあると思います。
 ここから、洗礼を受けていない人も聖餐式に与ることが出来るという理屈になります。

▼しかし、5000人のパンの出来事を体験した人々は、ユダヤ人であり、洗礼は既に受けていた、少なくとも割礼を受けていたと取ることも出来ます。
 信仰告白はしていないが、洗礼は未だ、しかし、聖餐には与ったとなれば、喜ぶ教派もあるだろうと思います。これも、理解出来ますし、一定の説得力もあると思います。
 これに対して、違った解釈もありますし、そもそも、5000人のパンの出来事は、聖餐式の起源でなく、愛餐会の起源でと主張する人もあります。

▼しかし、どのような聖餐論の立場に立とうとも、自分の中に結論が既にあって、その論拠を聖書に探すという姿勢は問題でありましょう。
 予め結論を用意して、それから後、都合の良い聖書の箇所を探すということならば、どんな説でも立てることが出来るでしょう。
 聖書は、私たちの主義主張の道具ではありません。私たちは、あくまでも、聖書に聞くのであります。

▼文脈の2番目をみたいと思います。
 ペトロの信仰告白の上に、厳密に言えば、これはペトロ1人の信仰告白ではありませんから、信仰告白した群れ、つまりは教会に、死と復活が予告されます。教会に与えられた秘儀、奥義であります。
 十字架と復活は、信仰告白がなければ受け止められない出来事だということが出来ます。
 十字架と復活は、理性・理屈では説明の付かない事柄であります。十字架だけなら可能なようでありますが、理屈で説明出来る十字架は、単なる自己犠牲に過ぎません。
 自己犠牲的に国家や人類に仕え、命をも捧げた人は、何もイエス・キリストだけではありません。大勢います。

▼これに対してイエスさまの十字架の出来事は、贖罪の出来事であります。イエスさまの十字架によって、他の人間の罪が贖われるのであります。これは、理屈で説明出来るものではありません。
 信仰によって受けとめるべき事柄であります。まして、復活は、信仰によって受けとめるのでなければ、それはオカルトであります。
 贖罪と関係ない十字架・むしろ死と復活は、オカルトであります。吸血鬼やゾンビの世界であります。
 昔から人間には、吸血鬼やゾンビへの憧れがあるようで、無数といっても良い伝説や小説が存在します。
 それらは、オカルトであって信仰とは無関係であります。

▼信仰告白した群れに、死と復活が予告されます。これが2番目に押さえておきたい文脈であります。
 文脈の3番目、死と復活の予告に続いて、所謂山上の変容の出来事が起こります。次週の日課であります。
 その時に詳しく申しますが、山上の変容とは、信仰告白した教会に十字架と復活が告げられ、更に、そのことを通じて神の国が実現するということであります。

▼約めて言えば、今日の箇所、信仰告白と十字架の死・復活の予告は、神の国がこの地上に来たる時、その時になされた告白なのであります。
 『神からのメシアです』と言ったペトロの告白は、メシアという言葉の中に、この人によって、神の国が来るという信仰を言い表しています。

▼以上を前提にして、順に読みます。
 18節。
 『イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。
そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった』
 ここについては、これまでも繰り返しお話ししてきたことを繰り返すしかありません。
 『弟子たちは共にいた。そこでイエスは』とあります。この問いかけは、『弟子たち』に向けられたものであります。でありますから、その後のペトロの答えも、ペトロ1人のものではなく、『弟子たち』のものであり、つまりは、教会のものであります。
 イエスさまは、教会に対して、信仰告白を求めておられます。
 何故私たちは信仰告白をするのか、しかも、繰り返し告白するのか、イエスさまがそれを求めておられるからであります。

▼19節。
 『弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。
ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』
と言う人もいます。』
 『弟子たち』が答えたのは、一般論であります。ああいう説もあります。こういう説もあります。
 イエスさまが求めておられるのは、そんな答えではありません。
 いろんな知識を持っていれば、それだけイエスさまへの理解を深めたということにはなりません。
 勿論、教会についても同じことが言えます。

▼2節。
 『イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』
 ああいう説もあります。こういう説もありますではなくて、『あなたがたはわたしを何者だと言うのか』、私たちの考えを、私たちの信仰を問われるのであります。
 ここでも、『あなたがたは』であります。イエスさまが求めておられるのは、ペトロ1人の答えではありません。教会の答えであります。
 そこで、『ペトロが答えた。「神からのメシアです。」』
 この答えは、教会の答えであります。

▼私たちは、聖餐式のある礼拝で、皆で声をそろえて、日本基督教団信仰告白を唱和します。個々人の考え思想ではなくて、教会の答え、教会の信仰告白だから、皆で声をそろえて、唱和します。
 賛美についても同じことが言えます。個々人ではなくて、教会が声をそろえて賛美することが大事なのであります。

▼21節。
 『イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて』
 話してはならないという前提で話されます。
 何故話してはならないのでしょうか。
 話してはならないのなら、どうして教えたのでしょうか。
 ややこしい聖書学的説明がありますが、省略します。
 結論だけを言いますと、これは神の国の秘密であります。『だれにも話さないように』つまりは、教会の中だけでということであります。
 先程申しましたように、これは信仰を持って受けとめるべき出来事、神秘なのであります。

▼22節。
 『次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、
祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』
 信仰告白を持たない者には通じない神の言葉なのであります。教会の中だけでと言いましたが、それは教会で独占すると言う意味ではありません。
 逆に言いますと、イエスさまの十字架と復活の神秘を、誰にでも理解出来る事柄に置き換えることは出来ません。
「復活とは、文字通りに受け止めてはならない、人が抑圧を逃れて自分を取り戻すことだ」とか、「生き生きとした人生を取り戻すことだ」とかと言う人がありますが、それは間違いなのであります。
 イエスさまの十字架と復活の神秘を、誰にでも理解出来る言葉に置き換えることは出来ません。置き換えてはなりません。
 信仰をもって受け止めるべき、神秘的事柄なのであります。

▼23節。
 『それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、
自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』
 イエスさまの十字架と復活の神秘を受けとめて信じることと、イエスさまに従うこととは全く同じことであります。
 信じてはいるけれども従わないということはありません。従わないということは、信じていないということと同じであります。

▼『自分を捨て』、これもイエスさまに従うことと全く同じことであり、十字架と復活の神秘を受けとめて信じることと全く同じことであります。
 『自分を捨て』とは、出家するとか、まして厭世的になるということとは違います。
 自分自身の欲望や価値観、思想信条で生きるのではなく、イエスさまの言葉を信じて生きるということであります。

▼『日々、自分の十字架を背負って』、捨てることよりも、むしろ、『背負』い続けることであります。それが、『自分を捨て』なのであります。
 誤解を恐れず、もっと簡単に言えば、『自分の十字架を背負って』生きる、つまり、神さまに与えられた使命を果たすことこそが、『自分を捨て』ることなのであります。
 神さまに与えられた使命を顧みず、自分自身の欲望や価値観、思想信条で生きることが、神さまを捨てることであり、神さまから逃げることであります。

▼24節。
 『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
  わたしのために命を失う者は、それを救うのである』
教会はこの逆説の上に立っています。もし、復活信仰を初め、イエスさまの教えを、現代の科学的合理的思惟に矛盾しないように作り替えたならば、もうそこには教会存在しないのであります。教会は生命を失うのであります。

▼ちょっと脱線かも知れませんが、この頃、盛んに教会の敷居を低くするという風に言われます。その通りでしょう。反対はしません。しかし、教会の敷居を低くすることで、いろんな不純なものが入って来たり、大事なものが流失してしまうかも知れません。その用心だけは忘れてはならないでしょう。教会の敷居を低くするということは簡単なことではありません。
 相当の覚悟、準備をもって向かわなくてはならないことであります。

▼同様に、世間一般の、普通の人にも理解して貰える平易な言葉で福音を語りましょうと言われます。その通りでしょう。反対はしません。
 しかし、例えば、グルコミンサンという言葉が、毎日毎日、テレビや新聞の宣伝で使われています。この言葉を初めて聞いたのは、つい最近のことであります。
 他にも、栄養素などでは、どんどん新しい言葉が出て来ます。経済や哲学だって同じことですし、電機製品もそうであります。
 つまり、人々は新しい品物、新しい言葉を求めているのであります。

▼逆にキリスト教、聖書の言葉が、一般社会に流失しています。三位一体とか、何々の洗礼を受けるとか、沢山あります。何々のバイブルがそもそも該当します。ギリシア語は人気で、いろんなアニメに登場します。エブァンゲリオンというギリシア語を知らない人はいません。福音という意味だとは知らないかも知れません。しかし、小学生も知っていることはであります。
 松江ではアレフという学習塾がありました。これはABCではありふれている、ギリシャ語でアルファでも、意外性はない、そこでヒブル語のアルファつまりアレフを使ったのかと思います。アレフは今では、オウム真理教の名前になっています。

▼エクレーシアというマンションもありました。経営者はクリスチャンではありません。どうしてエクレーシア、集会、即ち教会という名前にしたのかは、解りません。
 メシヤという食堂もありました。この経営者は他教会の教会員でした。
 早稲田にはタベルナというイタリアンレストランがあります。これは、仕方がないかも知れません。タベルナとはイタリア語で、食堂だそうです。
 新大久保には、ヘランという食堂があります。腹ヘランかなと思いましたが、韓国料理の名前だそうです。
 ケンネルというペットショップは、残念ながら見たことがありません。ケンネル、英語で犬小屋なんですが。

▼響きの良いヒブル語を使いたいのなら、シェルティームなどいかがでしょうか。フランス語のような響きがあって、洒落た店に使えそうです。同じ意味のギリシア語はトゥアレタであります。もうお分かりでしょう。シェルティームとは、トイレのことであります。

▼25節。
 『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、
  失ったりしては、何の得があろうか。』
 教会は教会でなくてはなりません。他の姿に変身するなら、そもそも存在する意味がありません。そば屋がうどん屋になることもあるでしょうし、カレー屋さんになるかも知れません。食べ物を商うとも限りません。
 しかし、教会は教会でなくてはなりません。

▼26節。
 『わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる
天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。』
 教会を恥じる者がいたら、教会の言葉を恥じる者がいたら、簡単です。教会を去ればよろしいのであります。
 教会は教会の言葉を捨てることは出来ません。

▼最後に、27節。
 『確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは
決して死なない者がいる。』
 これが具体的に何を意味するのか、議論があります。多分、終末、世の終わりが近いということでありましょう。言い換えれば、神の国が近いということであります。
 そして、何より大事なことは、この預言は私たちに、私たちの教会に全く当て嵌まるということであります。
 何月何日に、終末、世の終わりが起こると言うようなオカルト的な意味ではありません。

▼しかし、神の国は近い、私たちは既に神の国を覗いている。そういう信仰に生きているのであります。

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