血潮したたる

2015年3月29日復活節前第一主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」

ルカによる福音書22章39節〜53節

▼子どもの頃、小学校の低学年でしょうか。夜8時には布団に入らされます。それから1時間ばかり、隣の居間から聞こえてくるラヂオ放送を聴いて、何時の間にか眠りにつくというのが毎夜のことでした。曜日によって、落語か浪花節、それからラヂオドラマでした。
 そのラヂオドラマですが、三国志だったようにも思いますし、項羽と劉邦だったような気もします。時期がづれて、両方だったのかも知れません。

▼主人公と家臣たちが、必死の逃避行をしたあげく、結局は毒をあおいで死ぬという場面がありました。悲しい悲しい物語であります。そのことからすると、項羽と劉邦のように思います。
 しかし、後に司馬遼太郎の『項羽と劉邦』を読みましたが、ぴったりの場面はありません。まあ、小学生の時、半世紀以上前ですから、記憶の方が当てになりません。

▼三国志は、中学生になってから、吉川英治で読みました。これもぴったりと重なりませんが、こんな場面がありました。
 劉備玄徳、関羽、張飛が、曹操との戦に敗れ、後の燭の国に逃れていく場面であります。疲れ、飢えた一行が、山中一夜の宿を求めると、その家の主人は狼の肉を提供して歓待してくれます。
 翌朝旅立とうとして、劉備玄徳は、家畜小屋に人間の女の死体があるのを発見します。それは、宿を提供した主人の妻でありました。
 貧しく何のもてなしも出来ない男が、妻の肉でもてなしたという、何とも、恐ろしい話であります。
 三国志では、劉備玄徳は後に、この男の行いに感謝して、沢山の報償を与えたことが記されています。

▼私たちはイエスさまの十字架の場面を何度も読んでいます。十字架の死は、結局復活に繋がることも知っています。
 その結果、些か感覚が麻痺しているのではないでしょうか。十字架の残酷さ、非道さ、そのおぞましさが、薄められてしまっているのではないでしょうか。
 十字架の出来事は、本来、今挙げました項羽と劉邦の物語や『三国志演義』の残酷な場面にも等しい、残酷な出来事なのであります。

▼44節。
 『イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように
地面に落ちた。』
 イエスさまの苦しむ様が、描かれています。『苦しみもだえ』であります。ルカ福音書の他の場面のような、熱心であっても静かな祈りではありません。『苦しみもだえ』であります。
 『苦しみもだえ』ながら、『いよいよ切に祈られた』のであります。その時に、『汗が血の滴るように地面に落ちた』のであります。そこまで、切羽詰まった状況なのであります。

▼45節。
 『弟子たちのところに戻って御覧になると、
  彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた』
 イエスさまが『苦しみもだえ … 切に祈られた』時に、弟子たちは怠けて、ましてのんびりと眠りこけていたのではありません。
 弟子たちもまた、『苦しみもだえ … 切に祈った』あげく、『悲しみの果てに眠り込んでいた』のであります。
 体力的にも限界を超えていたでしょうが、『悲しみの果てに』、つまり精神的に限界を超えていたのであります。

▼『悲しみの果てに眠り込んでいた』
 想像してみていただきたいと思います。疲れ果て眠り込んでいた、これなら解ります。誰もがそんな体験を持っています。
 待ちくたびれて、飽き飽きして、いろいろありますが、『悲しみの果てに眠り込んでいた』という体験を持つ人は少ないと思います。
 そこまで追い込まれていたのであります。
 『悲しみの果てに眠り込んでいた』その眠りが安眠だとはとても思えません。むしろ、悪夢を見る眠りでありましょう。しかし、その眠りだけが救いと思われる程に、悲しみ、苦しんでいたのであります。体も心も疲れ果てていたのであります。

▼話が飛ぶようですが、今日の日課の前半部分、特に36節をご覧下さい。
 『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。
  袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい』
 これは、他の福音書とは大きな違いがあります。
 マタイ福音書26章52節。
 『そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。
  剣を取る者は皆、剣で滅びる』
 ルカであっても、普段のイエスさまからは、『剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい』というような発言が生まれて来るとは、到底考えられません。
 いちいち例を上げる暇はありませんが、ルカは平和の福音を説きます。あのクリスマスの場面を思い起こして下さい。羊飼いたちは、天に顕れた軍隊と共に、讃美歌を歌います。
 しかし、ここでは、『剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい』であります。

▼38節。
 『「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、
  イエスは、「それでよい」と言われた』
 普段とは全く様子が違います。剣を用意しなくてはならないような、非常事態なのであります。それが十字架の出来事なのであります。

▼49節。
 『イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、
  「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った』
 これをイエスさまは否定しません。止めなさいとは仰っていません。

▼50節。
 『そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした』
 ヨハネ福音書では、これはペトロの仕業であります。ヨハネはペトロの手柄のように見、ルカはペトロの恥と見たのでしょうか。分かりません。
 何れにしろ、ここまで、イエスさまは、剣を抜いて戦うことを咎めてはおられません。むしろ逆であります。

▼『右の耳を切り落とした』後で、そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、
  その耳に触れていやされた』
 やっとであります。
 私たちは正直ほっとします。イエスさまは矢張り平和の人で、剣で戦ったり、戦わせたりなさいません。
 しかし、それならば何故、剣を用意しなさいと言われたのでしょうか。
 『右の耳を切り落とした』のをご覧になって、溜飲を下げたとでもいうのでしょうか。そんな筈はありません。

▼ここでは、剣で戦うべき非常事態であることと、しかし、イエスさまは、それをなさらず、剣を納めさせたということが、同時に強調されているのであります。
 このことは、私たちにも、私たちの教会活動にも当て嵌まると思います。
 徒な平和主義ではありません。徒な寛容でもありません。間違いは間違いであります。戦うべきは戦うべきであります。異端を許してはなりませんし、神や教会への冒涜を許してはなりません。
 何とでも誰とでも、折り合いをつけて仲良くやりましょうというような話ではありません。
 平和のためなら、どんな宗教とも、一緒に祈りましょうというような話ではありません。
 ただ、剣を用いないのであります。むしろ、悪に捕まえられ、殺されるのであります。牽かれ行く子羊のように、黙して十字架の死へと歩み続けるのであります。

▼39節。
 『イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った』。
 イエスさまは、祈るために、オリーブ山に向かわれました.そして、その道は、十字架の死への道なのであります。
 弟子たちは、これに従ったのであります。従わなければならなかったのであります。

▼40節。
 『いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、
 「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた』
 誘惑とは具体的には何のことでしょうか。
 普通に読めば、後で眠りこけてしまったと書いてありますから、睡魔の誘惑ということになりますでしょうか。しかし、そんなことではないと思います。

▼鍵は、最後の53節にあると考えます。
 『わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに
手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている』
 この闇、闇の時代の支配のことだと思います。
 この闇は、後々までキリスト教信仰を苦しめるのであります。
 今日だってこの闇との戦いは続いているのであります。
 誘惑とは、この闇に身を委ねてしまうことであります。敗北して、闇の支配に下ることであります。
 そして、一方では、剣で戦うことではないでしょうか。
 先ほど申しましたように、剣を抜いて闇と戦う気概がなくてはなりません。しかし、剣を抜くことは、イエスさまの御旨ではありません。

▼41節。
 『そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた』
 『石を投げて届くほどの所に離れ』とは、祈りの声が聞こえない距離ということかと思います。
 聞こえないのなら、誰がこの祈りを聞いて記録したのかということになります。しかし、そんな批判をする人は、文学作品を読んだことのない人であります。文学の表現形式としては当たり前のことであります。
 肝心なことは、イエスさまが何と祈られたかということであります。

▼42節。
 『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください』
 何度もお話ししておりますように、今起こっている出来事は尋常のことではありません。
 喜んで受けとめるとか、へっちゃらとか、そんなことではありません。

▼その一方で、42節後半。
 『しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください』
 正に戦いなのであります。イエスさまの祈りが戦いなのであります。
 『この杯をわたしから取りのけてください』そして『御心のままに行ってください』矛盾と言えば矛盾であります。十字架の出来事は、そういう出来事なのであります。葛藤であり、戦いなのであります。

▼43節。
 『すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた』
 先々週の説教で申しましたように、ルカ福音書は、クリスマスの出来事と十字架の出来事とを重ねて描いています。ここもそうです。
 『天使が天から現れて、イエスを力づけた』
 クリスマスがそうであったように、この天使は、イエスさまを連れて逃げるようなことはありません。十字架の死を回避しないのであります。
 しかし、『イエスを力づけた』のであります。十字架への道、死への道を歩むことを、『力づけた』のであります。

▼このことは、私たちにも、全く当て嵌まります。私たちの信じる信仰は、所謂御利益宗教ではありません。信じれば、病も困難も止む、そういうことではありません。神さまが苦しむ者と共に居て下さると信じる信仰であります。
 自分の十字架を背負って、イエスさまに従う者を、慰め励まして下さる方がいると信じる信仰であります。
 私たちも祈ります。この十字架を取り去って下さい。そして、同時に祈ります。『御心のままに行ってください』、これが私たちの信仰であります。

▼47節。
 『イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダ
という者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた』
 イエスさまが『苦しみもだえ … 切に祈られた』のは、一つにはこのことのためではないでしょうか。イエスさまが選んだ十二人の一人が裏切り、お金で売ったのであります。
 しかも、48節にありますように、『ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか』愛と信頼を表す接吻をもって、裏切ったのであります。

▼マフィアズキッスという言葉があります。映画『ゴッドファーザー』にもそんな場面があります。マフィアはこれから殺させる相手に接吻をして、殺し屋に目標物を教えるのだそうであります。
 暗がりの中ですし、当時は写真なんてありませんから、ユダは接吻で人の子、つまりイエスさまが誰かを、捕らえに来た人々に教えたのかも知れません。
 正に、マフィアズキッス、裏切りの口吻であります。

▼ユダが何を考え何を重んじ、結果、何故イエスさまを裏切ったのか、ルカは詳しく記していません。一番詳しいといいますかはっきりと描いているのは、ヨハネ福音書であります。会計をごまかしていた、サタンが心の内に入ったと説明しています。
 ルカはそこまで記していませんが、『誘惑に陥らないように祈りなさい』、これが説明でありましょう。何かは解りませんが、ユダは誘惑に負けたのであります。単純にお金のことではないかも知れません。何にしろ、口吻をもって、イエスさまを裏切ったのであります。単純にお金のことだったら罪は軽かったかも知れません。しかし、ユダは許されない仕方で、裏切ったのであります。

▼もう一度53節を読みます。
 『わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに
手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている』
 闇に支配されるとは、光が信じられないということであります。
 信仰のない人でも何かしらを信じて生きています。例えば、愛とか友情とか正義とか、少なくとも家族とか。
 もし、何も信じられないとしたら、信じるられるものがないとしたら、この人は闇の中に生きているのであります。

▼現実、そのような人が多くなっているかも知れません。何も信じられない、信じるられるものがない、その結果は、自分の欲望だけが行動の規範であります。そのような人が多くなっているかも知れません。

▼私たちは、信じる者が与えられていることをこそ、喜び、感謝します。例え、『主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
  死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。
  あなたがわたしと共にいてくださる。 あなたの鞭、あなたの杖
  それがわたしを力づける』
  詩編23編であります。

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