人生の旅路の同行者

2015年4月12日復活節第二主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

ルカによる福音書24章13節〜35節

▼順に読みます。
13~14節。
 『ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れた
エマオという村へ向かって歩きながら、
 14:この一切の出来事について話し合っていた』
 ここに記されたことだけで分かりますように、この二人の弟子は、イエスさまの十字架の出来事についても、そして復活についても、ちゃんと知っていました。18節以下を見ますと、最新の、詳細な情報を持っていたようであります。しかし、彼らは予定通りエマオという村へ向かって出発しました。
 つまり、十字架と復活の知らせは、彼らの予定を変える程の出来事ではなかったことになります。
 道々話題にしたくらいであります。そもそも彼らはイエス様の弟子であったとはっきり述べられています。しかし、復活のニュースに接して、予定を変更し、エルサレムに留まり、その先に起こることを見届けるというような気持ちはありません。
 その程度のニュースに過ぎなかったのでしょうか。それとも、余程重大な用事を抱えていたのでしょうか。それにしては結局、幼児を果たさずエルサレムに帰る結果となります。
 その程度の弟子だったという見方もあるかも知れません。

▼もう一度、14節だけ読みます。
 『この一切の出来事について話し合っていた』
 エルサレムを離れたけれども、『この一切の出来事』からは離れられません。心にひっかかっているのであります。そして、二人で『話し合ってい』ました。
 このこと自体が、象徴的なことのように思われます。
 十字架と復活の出来事に触れ、そして旅に出ました。教会員の場合は、礼拝で十字架と復活の出来事に触れ、そして家路につきます。
 教会の玄関を出たら、もう教会のことは忘れるという人もあるかも知れませんが、多くの人は、十字架と復活のこと、教会のことを、心で反芻しながら帰るでしょう。二人三人一緒なら、『話し合』うかも知れません。

▼どんな話になるのか、聞いて見たいような気がしますが、日曜の午後もずっと教会に残る立場では、これは体験できません。
 しかし、祈祷会の後と思われる人が、電車の中でいろいろと話しているのを聞いたことはあります。しかもそれは私が知っている教会の話でした。牧師も知っています。何だか盗み聞きしているようで気まずかったのですが、聞こえてしまったものは仕方がありません。知っている教会の話ですから、内容には触れません。
 しかし、考えさせられました。もし、この人たちが教会生活の喜びを語っていたら、伝道になるでしょう。逆だったら、えらいことです。本人にその気持ちはなくとも、教会の悪宣伝をしていることになります。

▼15節。
 『話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、
  一緒に歩き始められた』
 教会の帰り道にも、イエスさまはおられるかも知れません。聞いておられるかも知れません。
 まあ、イエスさまに知られたら恥ずかしいような話は、しない方がよろしいでしょう。
 
▼ところで、イエスさまは、何故、彼らについて行かれたのでしょうか。マルコ福音書ですと、弟子たちに『ガリラヤで会おう』と遺言されていますから、ガリラヤに向かっておられたのでしょうか。ルカでは、これは当て嵌まりません。イエスさまは、この後、エルサレムで弟子たちの前に姿を現されます。
 何故、この二人に先ず顕れたのでしょうか。特別大事な弟子だったとも、熱心な信仰者だったとも、思われません。

▼矢張り、イエスさまは、教会から家路につく、全ての人と共におられるのではないでしょうか。言い換えれば、信仰をもって、この地上の生活を歩む全ての人と一緒におられるということではないでしょうか。
 この二人は、そのことを示すために、用いられた存在ではないでしょうか。
 まあ、断定出来る程の資料はありません。先を読みます。

▼16節。
 『しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった』
 何故、『二人の目は遮られてい』るのか、不思議ですが、このことは、後で肝心な話、今日の箇所の主題としてお話しします。
 今は、取り敢えず、比喩的象徴的に読みます。
 私たちが礼拝を終えて、教会から家路につく、その時に、イエスさまが一緒に歩いておられたとしても、私たちは、それと気が付かないということではないでしょうか。
 他のいろんな時にも、妥当します。気が付かないのであります。隣におられるのに、十字架を見上げて、「イエスさま」と祈っているのかも知れません。

▼17節。
 『イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた』
 これも今は、取り敢えず、比喩的象徴的に読みます。
 イエスさまが私たちに語りかけています。私たちが礼拝を終えて、教会から家路につく、その時に。
 その時に、「何の話をしていたのか」問われているのであります。
 言い換えれば、教会から、礼拝から、家に何を持ち帰るのかが、問われているのであります。喜びか、感謝か、それとも逆か。

▼17節。
 『二人は暗い顔をして立ち止まった』
 これも今は、取り敢えず、比喩的象徴的に読みます。
 『暗い顔をして』
 弟子たちはイエスさまの死を悲しんでいます。立ち止まって、イエスさまの話をしないではいられない程に、悲しんでいます。
 教会の帰り道、『暗い顔をして』いる人は、少なくないかも知れません。教会の現状を考えれば、『暗い顔』にならざるを得ないかも知れません。牧師が一番暗いかも知れません。
 しかし、それは十字架を知っていても、復活を知らない信仰姿勢かも知れません。
 
▼18節。
 『その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか』
 これも今は、取り敢えず、比喩的象徴的に読みます。
 『この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか』これは、何とも皮肉と申しますか、考えさせられる言葉であります。
 彼らは本気にそう思っています。
 しかし、実際には、『この数日そこで起こったことを、ご存じなかった』のは、この二人であります。他の弟子たちもそうであります。『この数日そこで起こったことを』、その意味を、つまり十字架の意味を理解出来なかったから、彼らは、復活をも理解出来ないし、それだから、エルサレムから旅だったのであります。
 それだから、『暗い顔』にならざるを得ないのであります。
 このことは、私たちにも全く当て嵌まるのではないでしょうか。

▼『暗い顔』になるのは、教会の教勢が奮わないからではありません。財政が厳しいからではありません。敬愛する兄弟姉妹の健康が勝れず、一緒に礼拝を守ることが出来ないからでもありません。
 十字架の意味を理解出来ないから、復活をも理解出来ないから、それを実感出来ないからであります。
 『この数日そこで起こったことを、ご存じなかった』のですか、「この数年、日本の国に起こったことを、ご存じなかったのですか」、「この数年、教会に起こったことを、ご存じなかったのですか」、私たちは、神さまに対して、そんな思いを持っているのではないでしょうか。

▼15節に戻ります。
 『話し合い論じ合っていると』、興味深い表現であります。象徴的表現であります。十字架と復活について、どんなに『話し合い論じ合っていると』しても、何も変わらないし、何も起こらないのであります。教会は、このことのためにどれだけの時間を費やして来たのか、しかし、『話し合い論じ合ってい』ても仕方がないのであります。では、何をするのか、それは、後でお話致します。
 『彼らと一緒に歩いて行かれた』、これも、興味深い表現であります。象徴的表現であります。イエスさまは、常に、その弟子たちと共に歩いておられたのであります。その地上での生涯を通じて、そして、十字架の出来事の後までも。しかし、そのことに弟子たちは気がつかないのであります。

▼19~22節。
 長いので読むのは、省略します。あらためて黙読下さい。ここにはイエス・キリストへの望みと、そして絶望とが要約されています。特に、『あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました』
 これが彼らの望みだったことが分かります。その望みは十字架の出来事によって潰えたのであります。

▼22~23節。
 『婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23:遺体を見つけずに戻って来ました』
 婦人たちが捜していたのは、遺体であります。それは見つかりません。私たちも、イエスさまの遺体を捜してはなりません。そんな馬鹿なことはしないと、言い切れるのでしょうか。
 聖書の中に、2000年前に生きていたイエスさまを捜しているのではないでしょうか。2000年前に生きていた、そうに違いありませんが、これを言い換えれば、今は生きていない方を、聖書の中に捜しているのではないでしょうか。

▼22節。
 『天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです』
 『イエスは生きておられる』のであります。2000年前にではありません。今であります。
 そのことを弟子たちは受け止められませんでした。そして、私たちも。
 『仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました』
 驚いてはならないのであります。

▼24節。
 『仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、
あの方は見当たりませんでした』
 当然であります。生きて働いておられる方は、墓の中にはおられません。

▼25節。
 『そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く
預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち』
 正にそういうことであります。くらい顔をしてとは、そういうことなのであります。

▼26~27節。
 『メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。
  27:そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、
御自分について書かれていることを説明された』
 これは、イエスさま自らによる説教であります。
 32節によりますと、彼らは、この説教を聞き、
 『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、
  わたしたちの心は燃えていたではないか』
 感動をもって受けとめています。
 しかし、彼らの眼は開かれません。

▼彼らの眼が開かれ他のは、30節。
 『一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを 唱え、
パンを裂いてお渡しになった』
 この時であります。イエスさまが、『パンを取り、賛美の祈りを 唱え、
パンを裂いてお渡しになった』時であります。
 これが決定的なことだということを強調するために、これは35節でも繰り返されています。
 『二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときに
  イエスだと分かった次第を話した』
 『パンを裂いてくださったときに』これが強調されています。
 
▼この時、イエスさまが食卓でパンを取り、祝福して割き、彼らに渡された時に、二人の目は開けます。
 つまり、イエスさまが一緒に歩いて下さることによっても、説教を聞くことによっても、心が燃えるような体験をしたことによっても起こらなかった、真の出会い・救いがここに、起こっているのであります。
 30節の「パンを割いてお渡しになった」とは、イエスさまがご自身を渡されたことを象徴的に表現しています。この時に、彼らの目が開けたということが決定的であります。
全くイエスさまからの一方的な恩寵としてのみ、この食事は実現したのであります。そして、我々は、そのような恩寵を、何処に求めるべきか、…… 言うまでもありません。聖餐式であり、礼拝そのものであります。

▼16節には、『しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった』とあります。そして、31節には、『すると二人の目が開け』とあります。二人の目を遮っておられたのも、明けられたのも、神の力、神の御心であります。
何故、こんな回りくどいようなことをなさらなければならなかったのか。イエスさまに直接出会い、説き明かしを受け、心が燃えても、だめだったとすれば、聖書を読むことも、説教をきくことも、祈ることも、信仰にとって決定的なことではないと言わなければなりません。
それでは、これらのことは全く無駄なことなのか。否、必要欠くべからざるものだということを、今日の私たちに教えるためにこそ、この手順が取られるのではないでしょうか。

▼エマオ途上に現れたイエスさまが語り掛けて来られること、聖書が読まれること、お祈り、説教そして聖餐、全て礼拝のプログラムであるという点に、ご注目いただきたいと思います。
これらは、聖餐を中心とする礼拝の進行順序なのであります。
 19~21節によれば、エマオへと向かった弟子たちは、既にイエスさまを預言者として認識しています。言い換えればそのようなイエスさまとは既に出会っているのであります。しかし、それは、彼らの救いにはならなかった。キリストとしてのイエスさまとの出会いを待たねばならなかったのであります。
敢えて言うならば、史的イエスとの出会いが我々を救うのではなくて、復活の主としてのイエスとの出会いが、つまり、イエス・キリストとの出会いによって、我々は、初めて救いを見い出すことが出来るのであります。

▼私たちの人生の旅路の同行者となって下さるイエスさまと、信仰の道を歩きつづけたいものであります。

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