わたしが命のパンである

2015年4月26日復活節第四主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

ヨハネによる福音書6章34節〜40節

▼『信徒の友』5月号に「そして家族になるー神の国への途上」という特集記事が掲載されています。主題は神の家族であります。
その記事には、血縁に依らない家族という話が集まってしまいました。なかなか読み応えがあると思います。是非、ご覧下さい。内、無記名の原稿一つは、私が書いています。何故か、『楽しいムーミン一家』についてであります。半年前の月報に記した原稿にちょっと手を入れたと言うか、むしろ省略したものです。

▼「そして家族になるー神の国への途上」という題名から想像いただけますように、神の家族は、血縁に依らないが、しかし、家族だということであります。
血縁が絶対ではないとすれば、それでは、そもそも家族とは何なんでしょうか。
一緒に暮らす。昔は、これで充分家族を定義出来たと思います。しかし、今日では、不確かであります。血縁関係にあり、間違いなく家族だと互いに思っているが、しかし、一緒に暮らしている訳ではない。今日では、これは、普通に見られることであります。
ややもすれば、夫婦だって、一緒に暮らしているとは限りません。
夫婦で牧師、それぞれ別の教会で責任を持っていると言う例もあります。これは、珍しくもありません。大抵近隣の教会間のことであります。
しかし、日帰りできない程離れて、それぞれ教会や学校の仕事を持っている場合もあります。

▼一緒に御飯を食べる。昔は、これで充分家族を定義出来たと思います。しかし、今日では、不確かであります。仕事や学校の関係で、それぞれ別々の時間に食卓に着くことは、珍しくないどころか、常態化している例が多いのではないでしょうか。
そもそも、一緒に御飯を食べるだけなら、食堂だってそうあります。毎日のように、同じ顔触れがそろうという、飯屋、居酒屋、スナックだってあります。

▼何かしら大事なものを共有する。一番には家業、昔は、これで充分家族を定義出来たと思います。主人家族と一緒に、従業員が住んでいるということが、昔は珍しくありませんでした。しかし、今日では、不確かであります。
現在放映中のNHK朝ドラには、今お話ししたような要素が全部盛られています。血縁による家族、血縁に依らない家族、家業とその継承者、一緒に暮らさない夫婦、彼らがくり広げるドラマを、楽しく観ています。
しかし、逆に言えば、こういうことが、朝ドラの主題になる程に、血縁も、食卓も、家業も、家族の印とはなっていない、当たり前ではなくなっているのであります。

▼さて、実は、教会という神の家族には、上に上げたことの全てが当て嵌まると考えます。
一緒に暮らす。これは礼拝等の集会に当て嵌まります。
一緒に御飯を食べる。これは、聖餐式であります。愛餐会はどうでしょうか。
何かしら大事なものを共有する。何しろ、信仰を、信仰告白を共有するのが、教会であります。

▼更に言うならば、血縁であります。
ユダヤ人たちは、血縁・血統を絶対のものと考えていました。まあ、日本人だってそうですし、殆どの民族がそうだと思います。
血縁・血統によってこそ、イスラエルが形成されると考えていました。そして、それがそのまま神に選ばれた民族であり、神の国に入れられ、救いに与る民族であります。
あまりに、当たり前すぎて、聖書から例を上げる必要がないくらいであります。

▼しかし、使徒パウロはこれを強く否定しました。典型的な例として、ローマ2章28~29節を上げます。
『28:外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、
また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。
29:内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”
によって心に施された割礼こそ割礼なのです。
その誉れは人からではなく、神から来るのです』。

▼このことは、パウロの専売特許ではありません。
例として、ルカ福音書3章8節を上げます。
『悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』
などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、
アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる』。
バプテスマのヨハネの言葉であります。
勿論、パウロやルカが正しいに決まっていますが、しかし、この一点を見逃してはなりません。

▼血縁・血統、更に言うならば、遺伝子のことではありませんが、キリスト者は、血に依って結ばれた存在なのであります。
血とは、十字架の出来事であります。
このこと、血に依って結ばれた存在であることを忘れたから、現在の教会の結びつきは、希薄になっているのではないでしょうか。

▼そもそもユダヤ人をユダヤ人たらしめた出エジプト時の出来事は、血に結び付いて語られています。出エジプト記には、沢山の血の出来事が描かれています。
何しろ、主の過ぎ越し、決定的は、民衆が契約の血を浴びたことにあります。
24章7節。
『4:モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに
祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。
5:彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、
更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。
6:モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、
7:契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、
「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、
8:モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主が
これらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」』。

▼教会とは、実は、血に依る結び付きを持った神の家族なのであります。
これを否定すると、教会の交わりは、希薄なものになってしまいます。

▼十字架による血の贖い、これが神の家族を作るのであります。

▼家族の定義で一番普通のことは、既に申しましたように、一緒に御飯・パンをいただくことでしょう。
パン、遡ってマナ、これこそ、聖書の家族に当て嵌まります。教会とは、神から下されたパン、遡ってマナによって養われる群れのことであります。
ところで、このパンをいただくこと、葡萄酒をいただくこと、即ち聖餐式、言うまでもなく、十字架による血の贖いのことであります。これが神の家族を作るのであります。

▼玉川教会の今年の主題は、『我らは信じかつ告白す』としました。日本基督教団信仰告白の冒頭部分であります。そして、年度聖句は、『代々の聖徒と共に使徒信条を告白す』であります。年度聖句としましたが、これは厳密には聖句ではありません。

▼完全に重複しますが、2015年度教会活動計画案の冒頭部分を読みます。

▼役員会では、定年を設けることや、人数削減について協議しています。選挙方法については、何度も改訂をして来ました。このような具体的なことを協議・決定するために是非必要なことは、そもそも役員の働きとは何かということについて、充分に学び、話し合い、共通の理解を持つことであります。これは教会論そのものの学び、話し合いに繋がります。そこでの一致がなければ、全て小手先のことで終わってしまいます。

▼このことは、礼拝、説教、伝道、祈祷、教会で行われる全ての営みについても当て嵌まります。
礼拝一つとっても、その形式はキリスト教の2000年の歴史の中で、実に多様であります。日本基督教団も、様々な伝統・教会理解を持つ諸教会の集まりであります。その諸教会で受洗し、育てられた人々が、玉川教会に寄り集まっています。
多様性の恵みもありますが、時には、混乱、不一致の原因にもなります。

▼その多様な中での共通点、必ず一致しなくてはならないことは、信仰の一致、より具体的には、信仰告白の一致であります。日本基督教団を一つに結び合わせるものは、この信仰告白以外にはありません。玉川教会も同様であります。
ここでの一致、共通理解を欠いていては、どんな手立てをもっても、話し合いを持っても、建設的にはなりません。

▼使徒信条をはじめとする基本信条に立った日本基督教団信仰告白を、改めて学び、考え、そして、玉川教会の教会論への具体化を模索することを提案します。

▼礼拝をはじめ諸集会への出席数が、大きく落ち込みました。ここ数年の内に亡くなった会員の数を考慮すると、自然減とも言えますが、一方で新しく礼拝に連なるようになった人の数が少ないということになります。新来会者が激減し、またその多くが、受付の用紙に、教会からの便りは無用と記しています。結果、求道者に当たる青年が少なくなりました。このままでは将来教会はどうなるのか、強い危機感を持たないではいられません。 … これは、昨年記した文章をそのまま引用しました。これは、14年度にも全く当て嵌まります。

▼そんな中で、2017年、玉川教会は創立70周年を迎えます。記念事業の計画案を立ています。記念事業は、単なるお祭りではなく、懐古でもなく、教会の新しい時代を切り開くためのものであります。
創立100周年を見据えて、長期的な展望、幻を持つということ、そのために最も肝要なことこそが、一つ信仰告白に立つこと、一つ思いで礼拝を守り、祈り、御業に取り組むことであります。

▼何を神の家族の共通項、中心と考えるのか。それが信仰告白であります。

▼ヨハネ6章41節以下の必要部分だけを読みます。

▼41節。
『わたしは天から降って来たパンである』。
これはいろんな意味で決定的に重要な言葉であります。イエスさまが、かく仰ったのであります。
『天から降って来たパン』が、出エジプトの出来事を指していることは間違いありません。『天から降って来たパン』であるイエスさまが、神の家族を形づくるのであります。
私たちは、私地の一年の歩みは、御言葉に聞きながら、学びながら歩むことであります。それが、神の家族を形づくるのであります。
他のことではありません。

▼43~44節。
『イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、
だれもわたしのもとへ来ることはできない。
わたしはその人を終わりの日に復活させる』。
この教会を主が導いておられること補信じて歩む一年、それが、神の家族を形づくるのであります。『つぶやき合うのはやめ』、『終わりの日の復活』を信じて生きる、一年を歩む、それが、神の家族を形づくるのであります。

▼46~47節。
『父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
47:はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている』。
『信じる者は永遠の命を得ている』、既に救いを約束されているのであります。そうではないような前提に立って、不安を口にしてはならないし、まして、つぶやきを言ってはならないのであります。

▼48節以下は、他の機会に譲ります。
ところで、本日の聖書日課は、34~47節であります。
ここでは、34~35節だけを読みます。
『そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」
と言うと、
35:イエスは言われた。「わたしが命のパンである。
わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者は決して渇くことがない』。
イエスさま以外のパンを求めても得られません。チョコレートパンがいい、あんパンが良いと言っても、仕方がありません。

▼私たちの命のパンは、既に与えられているのであります。
出エジプトの民になってはなりません。

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