御言葉の前に立つ

2015年5月10日復活節第6主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

ルカによる福音書7章1節〜10節

▼礼拝説教のテキストとして、旧約聖書と新約聖書と、二箇所を挙げる牧師がいます。特に珍しいことではありません。旧約か新約かどちらかを挙げる牧師と、半々、もしかしたら、両方挙げる牧師の方が多いかも知れません。
 私は、両方挙げると、どっちつかずで散漫になるかも知れない、どうしても説教時間が長くなるという理由から、両方を挙げることは滅多にありません。
 しかし、両方の方が正しいのではないかなとは、日頃考えています。

▼今日の箇所は、旧約も挙げた方が良いだろうと判断しました。理由は、聞いていただければ納得いただけるかと思います。聖書箇所だけでも合点が行かれるかも知れません。週報に旧約聖書箇所を記すことは致しませんでしたが、今日のテキストは旧新約聖書2箇所と思って頂いた方がよろしいかも知れません。
 列王記下5章1節以下、ナアマン将軍の話であります。そもそも、ナアマン将軍の話が、先週の聖書日課平日の旧約聖書箇所として取り上げられています。
 朗読すると長くなりますので、粗筋でお話しします。

▼アラムの将軍ナアマンは、重い皮膚病に罹っていました。捕虜にされナアマンの家で仕えていたユダヤ娘は、「イスラエルの預言者エリシャならナアマンの病気を直せるだろう」と、彼の妻に進言します。
 アラムの王は、これを受けて、ナアマンの病気を癒やしてほしいという内容の手紙と多くの贈り物を持たせて、イスラエルへ送り出します。
 イスラエル王は預言者エリシャとの関係がこじれていました。そこで、手紙を、アラムからの嫌がらせか、イスラエルを攻撃する機会を狙ったものと邪推しました。自分の服を引き裂き、この事態を危惧した程です。それを知ったエリシャは、ナアマンを自分の元に送るように、王に願い求めます。
 ナアマンは、自分の病を癒やすために、エリシャ自らが患部に手を置いて祈ってくれるものと考えていました。しかし、エリシャは「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい」と命じます。そう言われて、ナアマンは一度は腹を立てて帰ろうとします。

▼絶望的な病に苦しみ、召使いの少女の情報にまですがったナアマンは、しかしそれでも、一国の有力な将軍としての立場を捨てることは出来ません。彼の地位にふさわしい特別な手当、待遇を期待します。
 病にあったからこそ、自分の立場、プライドを保ちたかったのかも知れません。
 ここに大きな教訓があります。人間は自分を特別扱いして欲しいのであります。病気だからこそ、苦しいからこそ、神さまに特別扱いして欲しいのであります。

▼脱線かも知れませんが、この機会に申します。一昔前の小中学校では、学級の中にリーダーとなるべき子、逆に問題児になるかも知れない子を見出し、これをうまく利用したり、協力させたりすることが、学級掌握の鍵だと考えられていました。要は、何人かを特別扱いするのであります。それがクラス運営の鍵だと考えられていたのであります。一昔前ではなく、二昔前かも知れません。
 今では、これは原則、してはならないことであります。人権問題とかもありますが、要は、長い間に、効果よりも弊害の方が大きいことが分かったということであります。

▼これは教会、牧会ということにも当て嵌まるかと思います。教会員の中で、真に頼りになる人を見出す、或いは作る、そして、絶対の信頼関係を持つ、これが牧師の牧会能力だと考える人があります。確かに、一昔前の教会では、このような現実がありました。多分効率的で、確実な手段なのでしょう。
 しかし、ここからこそ、ほころびが生まれ、破綻に至る教会も少なくないようであります。何処がとかとは言えませんが、私は、こういう事例を沢山見せられてきました。
 
▼ナアマン将軍物語の続きを、今度は引用します。
12.イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。
13.しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」
14.ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体 は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
15.彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」

▼主題をなるべく簡単に説明します。どんなに有力な人間であっても、神の前に特権など持ちません。謙虚にひれ伏して、初めて救いに与ることが出来る、こういうことだと思います。もしナアマン将軍が、自分の立場・誇りを絶対のものとして、最後まで譲らなかったならば、彼は救いに与ることは出来なかったのであります。

▼百人隊長の物語に話を移します。
 今日の箇所に登場する百人隊長は、5節を読みますと、会堂一つを寄進したとあります。
 百人隊長のふところ具合は分かりません。しかし、百人隊長とは、高級軍人という程の地位ではありません。おそらく彼は、ローマ人でもギリシャ人でもないでありましょう。決して、有り余る財産を持っていたのではないと考えます。会堂一つ建立するのにどれほどのお金がいるのかは分かりませんが、並大抵のことではありません。 

▼百人隊長の名前さえ記されていません。何とか百人隊長記念会堂とか、名前を付けたくなります。しかし、この百人隊長には、そのような執着は見えません。
 そのことが、むしろ、不思議であります。
 そもそも、この人は、どのような信仰を持っていたのでありましょうか。
 先程も申しましたように、この人が、ローマ人でもギリシャ人でもないと思います。
 そして、勿論、ユダヤ人でもありません。聖書からは、結局何人かは分かりません。
 しかし、深くユダヤ教に帰依していました。割礼を受けた改宗者だったのでしょうか。そうだとも、そうではないとも書いてありません。

▼その辺りのことを読むのに、6~7節しか手がかりはありません。
 これを見ますと、割礼を受けた改宗者だったようにも思えます。だからこそ、会堂を寄進したのでありましょうか。
 しかし、別様にも読めます。
 つまり、ローマの軍人であるという立場を踏まえ、改宗して真のユダヤ教徒、ユダヤ人になり得なかったからこそ、このように言っているのかも知れません。そういう読み方も、否定できません。
 
▼まあ、どちらにしても、普通の人に、このような言動が取れるでしょうか。
 冗談や酔狂で、ユダヤ教に帰依しているのではありません。決断、覚悟のいることであります。
 その決断を、覚悟をしたのでありますから、それに拘るのが当たり前なのであります。
 また、何人だったのかは分かりませんが、ユダヤに進駐している軍人であります。高級軍人とは言えませんが、百人の部下を持つ隊長であります。
 こういう中途半端な地位にいる人こそ、威張りたくなるものであります。他の人が認めてくれないからこそ、威張るのであります。
 この百人隊長の姿勢は、謙虚などという言葉で表現出来ることを越えています。不思議であります。

▼その不思議の理由は、矢張り、信仰であります。
 8節。
 『わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、
一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。
また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」』
 軍隊の規律・秩序と教会の規律秩序とを重ねでいるのでありましょう。
 この箇所から、具体的教訓として受け止めるべき事柄でありましょう。特に、私たち日本のプロテスタント教会には、あまりにも、この規律秩序が欠けているからであります。

▼しかし、この箇所に於いて一番肝心なことはそういうことではないでしょう。
 肝心なことは、イエスさまの言葉のことであります。
 直接には、7節にこれが出てきます。
 『ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。
  ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください』
 『ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください』
 ここであります。
 イエスさまの言葉が、人を癒すのであります。そのことを、この百人隊長は、信じて疑わないのであります。

▼そして、イエスさまの言葉こそが、教会の秩序・規律なのであります。
 会堂を寄進した程の百人隊長が、イエスさまに願い求めるものは、イエスさまのお言葉なのであります。唯、お言葉のみなのであります。
 このことそ、私たちがここから、信仰上の教訓として受け止めるべきことでありましょう。
 私たちは、何を求めて、教会に集い、何を願って、聖書を開き祈るのでありましょうか。癒しであります。病院でも得られない、魂の癒し、救いであります。何が、そのような魂の癒し、救いを私たちに与えてくれるのか。それは、イエスさまのお言葉なのであります。
 イエスさまのお言葉以外にはありません。
 にも拘わらず、私たちは、イエスさまのお言葉以外のものを、イエスさまのお言葉ではないものを、教会に求めるのであります。聖書に期待するのであります。

▼逆に、私たちは、何を述べ伝えることが出来るのでしょうか。何が、この世に於ける教会の存在理由でありましょうか。
 イエスさまのお言葉なのであります。唯、イエスさまのお言葉を、宣べ伝えるのであります。
 それ以外に、教会が持っていて、他人に分け与えることが出来るものなどはありません。

▼使徒言行録3章6~8節。
 『ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。
  ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
7:そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。
  すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
8:躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして
神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った』

▼ペトロが与えたものは、金や銀ではありません。食べ物でもありません。『イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』という言葉であります。 約めて言えば、信仰を与えたのであります。それが、『足やくるぶし』の病に苦しみ、この障碍のために、乞食としてしか生きる術を持たなかった男を、救ったのであります。麗しの門前で、乞食をするために、人々の前で跪いていた男を、立ち上がらせた、つまり、救ったのであります。

▼ルカの9節に戻ります。
 『イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。
「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない』。
 『これほどの信仰』とは、勿論、会堂を寄進する程の、熱心な信仰生活のことが踏まえられているでありましょう。
 それ以上に、会堂を寄進したという事実に拘泥しないこと、手柄とはしないことでありましょう。
 そして、それ以上に、自分の軍人としての立場や、他のことに拘泥せず、むしろ自分を、本来、ユダヤ人ではない者、つまり、無資格な者であるとし、謙遜に信仰に仕えたことでありましょう。
 そして、それ以上に、他の者ではなく、イエスさまのお言葉を求めたことなのであります。唯、イエスさまのお言葉に信頼し、そこに救いを見たことなのであります。

▼10節。
 『使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた』。
 イエスさまのお言葉は、病人を癒したのであります。

▼ナアマン将軍を癒やした力も、百人隊長の部下を癒やしたのも、神の言葉であります。そして、これに与ることが出来たのは、御言葉に聞いたからであります。

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