自分が蒔いたものを刈り取る

2015年7月12日聖霊降臨節第8主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

ガラテヤの信徒への手紙 6章1節〜10節

▼5年前にこの箇所を読んでいます。その時、厳密には6章1~6節でした。今回は、1~10節になります。そこで、先ず前回箇所と共通する1~6節を読み、それから、7~10節を読みたいと思います。
 前半部分でお話ししたいことは、ほぼ前回と重なります。むしろ、前回の要約と言いますか、直截主題に結びつくことに絞って振り返りたいと考えます。
 2節と5節、その一部だけを続けて読みます。
 『互いに重荷を担いなさい』
 『めいめいが、自分の重荷を担うべきです』
 この二つを、前後の文章から切り取って、並べて見ますと、真逆のことを言っているようにしか聞こえません。

▼参考のために、より直訳的な翻訳を見ますと、2節は、『互いに重荷を負い合え』であり、新共同訳聖書と殆ど変わりません。そして、5節は、『各人は、自分自身の重荷を負うべきであるから』これもほぼ同じです。そして、よりはっきりとします。

▼互いに矛盾しているようにしか聞こえませんが、しかし、両方ともが真実であり、実は矛盾しているどころか、同じことを言っています。
 つまり、『自分自身の重荷を負う』ことの出来る者が、初めて、他の人の重荷を負うことが出来るということです。
 そして、他の人の重荷を負うことが出来る者、他の人の重荷に気付く者が、『自分自身の重荷を負う』ことが出来ます。

▼勿論、『自分自身の重荷を負う』ことが、なかなか出来ない状態にある者は、他の人間にかまうなとか、その逆とか、排除のために言われていることではありません。『自分自身の重荷を負う』とは、必ずしも、経済的に自立しているとか、信仰的に自立しているというような意味ではないと考えます。少なくとも、そういう所に主眼はありません。

▼これを祈るという事柄に置き換えてみたらどうでしょうか。前回の要約からははみ出しますが、短く申します。
 真に自分の祈りを持っている人は、他の人のためにも祈ります。他の人のために祈る者こそが、自分自身のことも祈り、そして神に委ねます。
 もっと簡単に、一人で密室の祈りをする者は、礼拝や祈祷会の場で祈ることが出来ます。一人で密室の祈りをすることのない者は、礼拝や祈祷会の場で祈ることは出来ません。
 これは全然矛盾ではありません。
 『互いに重荷を担いなさい』
 『めいめいが、自分の重荷を担うべきです』
 これは、そういった意味合いで語られた言葉だと思います。

▼少し角度を変えて読みたいと思います。前回の引用と同じです。省略しようかとも思いましたが、これほど説得力ある例は他になく、もったいないので、またお話しします。
 児童文学者のエリック・C・ホガードに、『奴隷少女ヘルガ』という本があります。その扉に記された献呈の辞に、このように記されていました。
 「愛する息子マルクへ、君が大人になった時に、他人を愛するように、自分自身を愛することができるように。」
 これは、勿論、『隣人を自分のように愛しなさい』というイエスさまの言葉をもじったものです。

▼『隣人を自分のように愛しなさい』よりも、ホガードの「他人を愛するように、自分自身を愛することができるように」の方が、むしろ、リアルかも知れません。
 例えば、恋愛のことを振り返ってみれば、そこには
「他人のことを愛しても、自分自身を愛することが出来ない」現実があります。その逆「自分自身を愛しても、他人のことを愛することが出来ない」人もあります。

▼しかし、「自分自身を愛することが出来ない」ような者の愛に、異性が応えることが出来るでしょうか。ちょっと難しいでしょう。
 一方、「自分自身を愛していて、他人を愛することが出来ない」ような人間は、これは、魅力がないどころか、鼻持ちなりません。そんなナルシストか自惚れ屋は、絶対に嫌われます。

▼『隣人を愛』することの出来る者が、正しい意味で自分を愛することが出来るのだし、自分を愛することが出来る者が、『隣人を愛』することが出来るのだと思います。

▼やはり、『自分自身の重荷を負う』ことの出来る者が、始めて、他の人の重荷を負うことが出来るのであり、そして、他の人の重荷を負うことが出来る者、他の人が背負っている重荷に気付く者が、『自分自身の重荷を負う』ことが出来るのです。

▼もう一度、2節を読みます。
 『互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を
全うすることになるのです』
 これを文字通りに受け止めるならば、『キリストの律法を全うする』ことは、つまり、信仰の道を究めることは、『互いに重荷を担』うことによって、実現されることになります。
 『互いに重荷を担う』、このことと、先程の『隣人を自分のように愛しなさい』、つまり、イエスさまの教えの究極とは、同じことです。
 『隣人を自分のように愛』することと、『互いに重荷を担う』、このこととは、全く同じことです。

▼ここから、後半部、今回の固有の箇所を読みます。実は、5年前には、6節には全く触れませんでしたので、6節から読みます。
 『御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。』
 この言葉は、7節以下と読み合わせて、このような意味を持っていると解釈されています。定説と言って良いでしょう。
 つまり、当時の伝道者を、教会員が養う、伝道資金を出すという意味だそうです。
 初代教会は、使徒言行録にもありますように、財産を持ち寄って生活していました。その状況での話です。
 これが現代に通用するか、しないか、また、現代の牧師謝儀については、いろいろな考え方があり、この箇所だけで結論づけることは無理ですので、私もしません。
 諸教派の考え方に違いがありますので、正解はありません。ただ、それぞれの教団、教会に、考え得方も規定もありますから、それに従うべきだとは思います。それが不満な人は、牧師でも、信徒でも、他の教派なり教会に移るしか解決方法はありませんでしょう。
 2回続けてパスするのも何だか不自然ですので、最低のことを申しました。これ以上はよろしいでしょう。

▼7節。
 『思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。』
 6節で言いましたように、これは、献金のことかも知れません。しかし、それに限定して読む必要はないと思います。もっと拡がりを持って解釈されてもよろしいでしょう。
 『人は、自分の蒔いたものを、また刈り取る』その通りでしょう。
 自己責任という言葉がはやったことがありました。これを嫌う人もあります。まあ、分かります。しかし、昔は、自己責任などという柔らかい表現ではありませんでした。
 自業自得です。ここまで言うと、きついし、裁きの言葉に聞こえます。
 もっと単純に「蒔いた種」これだけで分かります。

▼『人は、自分の蒔いたものを、また刈り取る』とは、『自分自身の重荷を負う』ことにつながるようにも思います。自己責任の対義語は何でしょうか。責任転嫁、責任逃れ、自己弁明、そんなところでしょうか。
 自業自得の対義語は何でしょうか。どうもぴったり当て嵌まるものが思いつきません。棚からぼた餅では、ちょっとずれてしまいます。

▼天に唾するという言葉が昔はありました。今は殆ど死語でしょうか。昔から、意味を間違って使っていた人が多いそうです。間違いとは、天に向かって唾を飛ばせば、自分に落ちてくる。これが間違いですが、意味する所は間違っていないかも知れません。天に唾するとは、権威ある者に逆らうことです。何より、神を神と思わないことです。
 『人は、自分の蒔いたものを、また刈り取る』にも、共通すると考えます。

▼8節。
 『自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から
永遠の命を刈り取ります。』
 『自分の肉に蒔く者は』、平たい言い方をすれば、欲望に走る者はでしょうか。欲望に走る者は、快楽を得るではありません。『肉から滅びを刈り取』るのが、所詮だと、こういうことになります。
 肉体の快楽を求める者は、所詮、肉体の快楽しか得られない。本当の愛情は得られないということでしょうか。

▼9節。
 『たゆまず善を行いましょう』
 『善を行』うこと自体は、決して難しいことではありません。どんな悪人でも、本の気まぐれから、人や生き物を助けることだってあります。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い浮かべます。
 しかし、『たゆまず善を行いましょう』となると、全然話が違います。これは至難の業となります。
 同じ図式で、誰か人を愛することは、難しいことではありません。むしろ、当たり前に、誰かを愛しています。しかし、誰をもとなりますと、全然話が違います。至難の業となります。

▼イエスさまは、『汝の隣人を愛しなさい』と教えられました。隣人が良い人ならば、簡単な教えになります。しかし、そうでなければ、困難な教えになります。
 ですから私たちは、隣人を選びたくなります。自分の好みにあった隣人を捜して、隣に近づいて、『汝の隣人を愛しなさい』と言う教えを守ったと考えたならば、それはごまかしに過ぎません。

▼『飽きずに励んでいれば』
 これは、『たゆまず善を行いましょう』と重なります。
 逆に『飽き』るとは何でしょうか。要するに自分の都合、自分の好みということになります。気分が向けば、人に親切にするけれども長続きしなくて投げ出し、結局人に押し付ける、そんな例は珍しくないと思います。

▼『時が来て、実を刈り取ることになります。』
 元々が種の譬えですから、その譬えのままお話しします。
 私は、月報にもしばしば書きますように、家庭菜園が趣味です。しかし、時間に余裕がありませんから、この頃は、手のかからないものばかりを選んで、植えています。
 それでも全く手間要らずとは行きません。草取りくらいはしなくてはなりません。それさえ出来ませんから、出来映えは酷いものです。勿論、収穫は少なく、肥料代にさえ見合わないでしょう。
 みすみす収穫出来ないで放ってしまい、鳥に食べられることもあります。

▼10節。
 『ですから、今、時のある間に』
 時間がなくなるということを、前提にしています。
 使徒パウロ時代の教会は、いろんな意味でそうでした。何より、迫害、殉教が迫っていました。
 しかし、現代でも、『今、時のある間に』は、全く当て嵌まります。
 マタイ福音書6章34節。
 『明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。』
 これも、明日は明日の風が吹くという意味ではありません。むしろ、今日できること、今日なすべきことをしなさいという意味です。
 明日のことを考えたら、明日の準備をしたら、今日のことが出来なくなるであってはなりません。

▼『すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して』
 これも、『汝の隣人を愛しなさい』に通じますでしょう。
 
▼『善を行いましょう。』
 ここでも、種を蒔く譬えの延長で考えるべきだろうと思います。
 『善を行いましょう。』とは、種を蒔きましょう。福音の種を蒔きましょうです。そして、その種に水をやり、時には雑草を取り、それが、『善を行いましょう。』の意味だと考えます。

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