同じ思いを抱き

2015年7月19日聖霊降臨節第9主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
勧めの言葉
 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。

フィリピの信徒への手紙 4章1節〜3節

▼2節から読みます。
 『わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。
主において同じ思いを抱きなさい』
 この二人が、どのような人物なのか、詳しいことは全くと言って良いほど分かりません。聖書中、しかも、ここに記されていることだけが手がかりになります。

▼3節を読んでから、また2節について考えます。
 『この二人の婦人を支えてあげてください』
 エボディアとシンティケが、婦人であったことが分かります。しかし、ここでも、どのような身分にあったかと、何も記されていません。厳密に言えば、何人かもさえ分かりません。
 『二人は、…福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです』
 二人は、使徒パウロの福音宣教の協力者でした。これは確かなことです。

▼しかし、その二人に対して、『わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい』
 このように言っています。
 二人は、必ずしも、『主において同じ思いを抱』いてはいなかったのではないでしょうか。
 この点について、少し疑問に思うこともありましたので、珍しくいろんな説教を参考にしてみました。先ず例外なく、二人の間に仲違いがあったという前提で、その後の話を進めています。実は私も4年前にこの箇所を読んだ時には、そういう仮定でお話ししました。

▼しかし、そこまで言い切ることが出来るのか、ちょっと疑問が残ります。新聖書大辞典で二人の名前を調べましたら、エボディアは載っていません。シンティケについては、このように記されていました。
 「スントケとユウオデアはあまり親しくなかったので、パウロは主にあって一つとなるように勧めていた」
 これが多くの説教者が、『エボディアとシンティケ』の不仲を前提に、話す根拠かと思います。
 逆かも知れません。多くの説教者の間で、『エボディアとシンティケ』とは不仲だと考えられているので、このように新聖書大辞典に記されたのかも知れません。

▼何故、多くの説教者は、この記事を読んで、『エボディアとシンティケ』の不仲に思い当たるのでしょうか。
 それが教会の現実だからではないでしょうか。
 あまり詳細にお話しすることは憚られますが、少なくとも私が経験した教会では、おうおうそのような現実がありました。
 女性同士とは限りません。男性でも同じことです。未だ若い牧師だった時には、そのことでどんなに苦しまなくてはならなかったか。思い出してもぞっとします。
 何よりも、このこと程、伝道を妨げるものはありません。

▼初めて教会にやって来た人は、それぞれ求めるものも、漠然と抱いている教会のイメージも異なるでしょう。しかし、何れにしろ、教会のしかも有力な信徒の間にいがみ合いがあると知ったら、大きな躓きを覚えずにはいられないと思います。実際、そういう現場を目撃してきました。 
 もし、その論争点が、伝道論だったら、伝道方針だったら、もう、これは笑い話です。あまりにも悲しい笑い話です。

▼3節をもう一度読みます。
 『なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を
支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや
他の協力者たちと力を合わせて、
  福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。』
 『真実の協力者』とは誰のことでしょうか。特定しようとすれば、そもそもフィリピ書は誰が誰に宛てて書いたのかという、著論的な問題になります。それは、この箇所を読む上で絶対のことではないと思います。
 1章1節の記述を、そのまま受けとめればよろしいのではないでしょうか。
 『キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、
キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに
監督たちと奉仕者たちへ。』
 特に、『監督たちと奉仕者たち』が上げられています。これも厳密に考える必要はないと判断します。今日で言えば、教会の牧師や役員のことでしょう。

▼『あなたにもお願いします』の方に、私は気が惹かれます。拘れば、『にも』です。では、先ずは誰なのか、それは、『エボディアとシンティケ』両人のことでしょう。 
 使徒パウロは、既にこの二人に話しているのだと思います。それだけでは、解決しなかったのかも知れません。まあ、仲違いだったとして内容は分かりません。意見の相違、それも伝道方針だったとしたら、私はすっきり分かる気がします。まあ、断定は危険ですが。

▼『命の書に名を記されているクレメンス』が誰かは、いろいろと説があるようですが、省略して良いでしょう。この人は、指導者だったようです。しかし、今、クレメンスその人に向かって、
『この二人の婦人を支えてあげてください』と言っているのではありません。
 推測に過ぎませんが、確率はかなり高いと思います。つまり、この時点では殉教を遂げていたのではないでしょうか。
 それが『命の書に名を記されている』という意味だし、クレメンスその人にお願いや忠告を出来ない理由でしょう。

▼もしそうならば、
 『二人は、命の書に名を記されているクレメンスや
他の協力者たちと力を合わせて、
  福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。』
 この表現も、生やさしいもではないことになります。
 私たちが、つい教会婦人という言葉から連想してしまうような、大事だけれども裏方の仕事、ではなかったかも知れません。
 何れにしろ、クレメンスという二人共に尊敬する指導者を失ったことで、この二人のそれぞれの考え方、方針が表に出て来て、結果、対立、仲違いになったのではないでしょうか。

▼二人共に、パウロにとっては大事な働き手であります。二人共に、信仰に生きている筈です。しかし、この二人は協力し合うことが出来ません。
 このような現実は、私たちの教会にも、教団にも残念ながら、現実に存在します。
 こういう類のことは、具体例で説明することは憚られますが、教団にとって、必要な大事な働きをしている何々牧師と、何々牧師は、どうも相性が悪い、そういうことがあります。

▼2節に戻ります。
 『わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。
主において同じ思いを抱きなさい。』
 既に申しましたように、これは直接二人に言っていると取った方が良いでしょう。まあ、手紙ですから、どんな場所でどんな風に読まれるかは分かりません。フィリピ教会員が揃っているところで、エボディアも、シンティケもいるところで読まれたとは、ちょっと考え辛いでしょう。

▼さて『同じ思い』という言葉です。これも、はっきりとはしません。しかし、『同じ思い』、どんなことについても同じという意味では勿論、ありません。
 肝心要の点についてです。つまり、『イエスはキリストなり』というような信仰に於いてです。
 これが一致していれば、洋服の趣味が違っても、食べ物の趣味が違っても、それは仕方がないし、かまわないのです。
 『イエスはキリストなり』という信仰で、一致していながら、あいつの何が気に入らない、かにがおもしろくないというのは、他のことよりも、自分の感情が大事だということに過ぎません。

▼教会員の誰と誰とが仲が悪い、そういうことは、ままあります。珍しくもありません。小さい問題であり、取るに足らないことかも知れません。
 しかし、深刻と言えば深刻です。最初申しましたように、こんなに人を躓かせることはありません。しかし、最も深刻なのは、教会にとってではありません。その当事者にとってです。
 彼にとっては、信仰よりも、自分の感情の方が、好き嫌いの方が大問題なのだから、これは、深刻であります。

▼互いに一致出来ない二人は、どうやって、折り合ったら良いのでしょうか。どうしたら、『同じ思いを抱』くことが出来るのでしょうか。
 互いに見つめ合って、一致点と不一致点を検証し、話し合って、妥協するのでしょうか。
 こういうことは、往々誤解が元にありますから、誤解を解く努力をするのでしょうか。
 私は違うと思います。
 
▼互いに向き合い、見つめ合うことは止めた方が良いと思います。ろくなことはありません。
 憎み合うということは、相手が見えて見えて、気になって気になって仕方がないということです。それなのに、真っ正面から向き合って良いことは何もありません。ますます、相手の欠点がよくよく見えて来ることでしょう。
 そうではなくて、お互いを見ることを止めればよろしいのです。
 お互いを見ることを止めて、同じものを見ればよろしいのです。
 それが、『おのが腹を神と』しないことであります。
 
▼1節に戻ります。
 『だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、
ある愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい』
 これを、エボディアとシンティケに当てはめて読むことが出来ます。
 エボディアとシンティケも、パウロが『愛し、慕っている兄弟たち』であり、パウロの『喜びであり』、『冠で』あり、『愛する人たち』なのです。
 それが、相争っています。
 少なくとも、協調出来ません。
 その二人に対して、『主によってしっかりと立ちなさい』と戒めています。
 同じ思いも、そも、『主において同じ思いを抱きなさい』です。あくまでも、『主において』です。『主によって』『主において』なのです。
 人間的な次元で互いに理解し合うとか、許し合うとか、そういう話ではありません。

▼『主によってしっかりと立ちなさい』
 それぞれがしっかりと信仰に立つことが肝心なことなのです。
 そうすれば、問題は自ずと解消するのです。
 こじれた関係では、相手のことばかりが見えます。我慢ならないと思います。彼の間違いを指摘しないではいられません。そうしないと、自分が傷つくように思います。損するように思います。
 しかし、相手の間違いを曝くよりも、自分自身の姿勢をただすことが大事です。
 
▼先週の聖書箇所は、ガラテヤ6章でした。
 その最初の部分だけ振り返ります。
  2節と5節、その一部だけを続けて読みました。
 『互いに重荷を担いなさい』
 『めいめいが、自分の重荷を担うべきです』
 この二つを、前後の文章から切り取って、並べて見ますと、真逆のことを言っているようにしか聞こえません。

▼互いに矛盾しているようにしか聞こえませんが、しかし、両方ともが真実であり、実は矛盾しているどころか、同じことを言っています。
 つまり、『自分自身の重荷を負う』ことの出来る者が、初めて、他の人の重荷を負うことが出来るということです。
 そして、他の人の重荷を負うことが出来る者、他の人の重荷に気付く者が、『自分自身の重荷を負う』ことが出来ます。

▼勿論、『自分自身の重荷を負う』ことが、なかなか出来ない状態にある者は、他の人間にかまうなとか、その逆とか、排除のために言われていることではありません。『自分自身の重荷を負う』とは、必ずしも、経済的に自立しているとか、信仰的に自立しているというような意味ではないと考えます。少なくとも、そういう所に主眼はありません。

▼このことが、今日の箇所についても、全く当て嵌まります。
 エボディアとシンティケ更には、クレメンス、この人たちが、信仰的に自立し、誰か人間の下に立っているのか、神さまの十字架の下に立っているのかが問われます。

▼3節をもう一度、読みます。
 『なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。
この二人の婦人を支えてあげてください。
  二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと
  力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。』

▼同じことが、教会そのものにも当て嵌まるかも知れません。
 私たちにも、相容れない教会があります。それが現実であります。勿論、統一原理を初め、異端の教派がありますし、寛容ではいられない、寛容であってはならない場合もあります。
 しかし、何れにしろ、糾弾し、排斥するよりも、もっと大事なことは、自分の姿勢を糺すことでしょう。

▼『命の書に名を記されているクレメンス』これも、すごい表現です。
 クレメンスとは、どんな人なのか、何故『命の書に名を記されている』のか、不明です。しかし、クレメンスとは、「柔和な」「情け深い」という意味を持つそうです。これは単に偶然でしょうか。
 エボディアは、良いりの意味で、シンティケは幸運なだそうです。
 偶然かも知れませんが、意味深ではあります。

▼最後に残った部分、『力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです』
 そうなんです。
 『この二人は、…力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです』
 少なくとも、かつては、そうだったのです。
 もしかすると、今もそうかも知れません。
 ここに、この二人の関係修復の可能性があります。
 もう一度、『力を合わせて、福音のために…共に戦』うしかありません。

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