全ての人と平和に

2015年8月2日聖霊降臨節第11主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

ローマの信徒への手紙 12章9節〜21節

▼聖書を読む時には、何時だって、全体の流れの中で読むことが大事です。今日の箇所も勿論そうして読むべきなのですが、その前に、先ず、19節の『神の怒り』、この言葉・表現に拘りたいと思います。
 『神の怒り』、このことを私たちはややもすると忘れている、忘れていないまでも、軽視しているのではないでしょうか。
 何時の頃からか、神さまはひたすらに優しく、人間が何をしても何を企んでも、赦して下さる方、そういう面ばかりを、見ているのではないでしょうか。

▼昔の神さまは、もっと怖かったような気がします。罪人を罰する神さま、地獄に落とす神さま、そういう印象が強かったように思います。地震雷火事親父という言葉がありました。そして、地震雷火事親父よりももっと恐ろしいのが神さまだったと思います。
 地震雷火事までは、今でも恐ろしいものですが、親父は、全然そういう存在ではなくなってしまいました。そして、今日では、すっかり優しくなった親父よりも、もっともっと優しいのが神さまだと考えられているのではないでしょうか。

▼『自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい』
 それは、神さまの怒り、その背後にある『正義』これこそが、恐ろしいもの、悪人には耐えられないものだからということです。
 『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』
 『復讐するは我にあり』です。神さま程、恐ろしい復讐をなさる方はいない、これが、前提になっています。なまじな仕返しをするよりも、神さまに任せた方が、より徹底した、厳しい刑罰が待っているという解釈です。

▼20節。 『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。』
 マタイ福音書の黄金律に通じるような、絶対的な愛の教えと聞こえるかも知れません。しかし、全く違います。
 『そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』
 一番簡単に説明しますと、罪を犯した人間が地獄の火に焼かれる時に、『燃える炭火を彼の頭に積むことになる』、少し温度を上げることが出来るということです。
 刑罰をより過酷なものに出来るという意味です。

▼マタイ福音書の所謂黄金律を、此処で確認しておきます。 5章38~40節。
 『 38:「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と
命じられている。
  39:しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
  40:あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。』
 43~44節も読みましょう。
 『43:「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』
と命じられている。
  44:しかし、わたしは言っておく。
  敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。』

▼マタイ福音書の所謂黄金律も、ローマ書と同じ背景を持っています。全く逆、裁きと赦しの違いのように聞こえますが、実は全く同じことです。裁きは神の業、『復讐するは我にあり』なのです。

▼9節に戻ります。
 『愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず』
 『悪を憎み』、これが先ず前提です。キリストの愛、教会の愛とは、悪を放任、まして容認することではありません。間違いは間違いです。勿論、優しさもそうでしょう。優しいとは、悪を見逃しにすることであってはなりません。
 『悪を憎み、善から離れず』
 はっきりとした立ち位置が決まっています。悪は悪、善は善なのです。その境目を曖昧にして、何でも赦してしまう、それは、キリストの愛、教会の愛ではありません。

▼10節。
 『兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。』
 ここでも、『兄弟愛をもって』『尊敬をもって』
 この大前提を忘れてはなりません。
 分かり易くするために、直截ここで説かれていないことも、少し付け加えて説明します。
 『兄弟愛』つまりは、一人の神、一人の父なる神を信じるから、信仰の兄弟となります。父なる神への信仰を前提としないで、兄弟愛は存在できません。とにかくみんな仲良く致しましょう。一緒に食べ飲み、楽しく過ごしましょう、これは、信仰の兄弟愛ではありません。

▼敢えて言えば、一つのパンを割いていただき、一つの杯に与る、即ち、聖餐を共にする、神の家族の食事を共にする、礼拝を共にするのが、信仰の兄弟愛です。
 
▼『尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。』
 これも全く同じことです。
 ここも一番分かり易い例で説明致します。
 昔、子ども同士の口喧嘩で、「おまえの母ちゃんでべそ」というのが、決まり文句の一つでした。どうしてでべそとわかるのかとか、細かいことには拘りません。とにかく、「おまえの母ちゃんでべそ」と悪口を言う、これが兄弟同士でとなると、実に滑稽です。
 「おまえの母ちゃんでべそ」これが兄弟なら、当然、自分の「母ちゃんでべそ」となります。

▼『尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。』とは、この裏返しです。実際に何かしら勝れた能力を持っているから、尊敬するというのではありません。同じ父の子だから、兄弟だから、信仰の兄弟だから、これが、これだけが根拠です。
 実際には、教会員の中に、勝れたタラントを持っている人がいますでしょう。そうでない人もいますでしょう。しかし、そのような能力があるかないとかではなく、彼が信仰を持っている人だから、父に選ばれた人だから、それが、それだけが、『尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。』の理由なのです。

▼この大前提の下に、11節以下具体的な教えが説かれています。
 『怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。』
 何に励むのか、何に燃えるのか、『主に仕え』ることにです。より具体的に言えば、現代でしたら、教会の様々な仕事に仕えるということでしょう。
 逆に言えば、教会の仕事は、いやいやつぶやきを言いながらすることではありません。義務だから仕方がないと、白けていては出来ないことです。

▼『希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。』
 人生、先のことを考えれば真っ暗、これが現代の現実でしょう。20年後、30年後の日本の未来に希望はないということが、言われます。一人ひとりの人生だと、もっと深刻かも知れません。20年後、30年後を夢見ることが出来るのは、年齢的にも、小学生かせいぜい中学生だけかも知れません。
 高校生にもなれば、現実が自分の能力の限界が見えてきて、自分の将来像も見えて来ます。しかも、それは望ましい将来ではありません。
 20年後、30年後は、暗い未来となってしまいます。

▼しかし、パウロの時代は、そんな生やさしいものではありません。明日の命が分からない中で、パウロはこのように言っているのです。
 もし、統計に基づく観測を頼りにするならば、希望なんて存在しません。パウロが言う希望の根拠は、信仰です。『苦難を耐え忍』ぶことが出来るのも、信仰故です。
 『たゆまず祈りなさい』
 これこそ信仰なしには、かなわない業でしょう。
▼13節を見ます。
 『聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、
旅人をもてなすよう努めなさい。』
 『聖なる者たちの貧しさ』とは、具体的には何を意味するのでしょうか。そも、『聖なる者たち』とは誰のことか。はっきりとは記されていませんから、諸説あります。普通に読むと、当時の教会の中の聖職者のことかと思いますが、どうもそうではないようです。
 今日でも信者のことを聖徒と言います。『聖なる者たち』とは、もっと単純に、信仰者、当時の教会員と考えればよろしいのではないかと思います。

▼当時の教会には、実にいろんな社会的階層の人が集まっていたようです。貴族や大商人というお金持ちもいれば、その日の暮らしに困るような貧しい人、奴隷までがいたようです。
 そういう現実の中で、余裕がある人は、貧しい人の貧しさを覚えなさいと言うことでしょう。また、当時は、教会の中で貧民給食が行われていました。その資金が要ります。それを献金しなさいということでしょう。

▼階級差別を乗り越えるというようなイデオロギー的な教えではありません。極めて現実的な対応を求めているのです。
 14節も同様です。
 『あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。
祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。』
 
▼日本基督教団が、安保法政、特に集団的自衛権の解釈、行使を巡って、「戦後70年にあたって平和を求める祈り」を出しました。先日開催された常議員会で緊急に提案されたものです。
 一時期教団の名前で、時の政治を批判する声明が頻繁に出されました。このような政治的発言は、随分久しぶりのものです。しかし、従来のものとは、一線を画するものです。そのことは、祈りの言葉に表れています。
  … 真に平和を造り出すことができる知恵と力を与えてくださるように、今この時、神の憐みと導きを祈り願います。
  … 為政者が謙遜になり、国民の思いに心を寄せ、秩序をもって政治を司ることができるよう切に祈ります。
  … 為政者が、権力を担うことは民意の委託であることを覚え、民に聴き、民の痛みを知り、民を尊び、民に仕える心が与えられるよう祈ります。
  … 私たちに他者の痛みや嘆きを自らのものとして受けとめる心を与えてください。
 そして最後は、 … 平和の君イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

▼自分たちには、時の政治を担う力がないのに、それ以上に命がけで戦う覚悟もないのに、批判声明を出して、それで自己満足しているのは愚かだと思います。
 教会がなすべきことは、祈ることです。
 『あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。
祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。』
 この時のパウロは迫害され、命の危険を覚えていました。実際、このローマ書が記された後、時を経ずしてパウロは十字架に架けられたのです。
 そういうぎりぎりのところで、パウロは、『迫害する者のために祝福を祈りなさい』と教えているのです。

▼15~16節は、矢張り、教会という礼拝共同体の中での、ごく実際的な教えだと考えます。
 『喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。』
 喜びも嘆きも分かち合いなさいということでしょう。教会では、実際にこういうことが起こります。
 100人の会員の中で、常に、重篤な病に苦しむ人があり、年に数人ずつ召される人があり、一方、子どもや孫が与えられ、結婚もあります。
 その時々に、喜び、泣き、嘆き苦しみ、また安堵させられる、これが、次々と、それどころか、重なり合って起こります。

▼16節。
 『互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。
自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。』
 『身分の低い人々と交わりなさい』というのですから、これは、身分の高い人への教えです。
 『自分を賢い者とうぬぼれてはなりません』と教え諭すくらいですから、インテリ向けの教えです。

▼その前提で読めば、17節の『だれに対しても悪に悪を返さず』という表現は意味ありげに聞こえてまいります。
 教会の中にも、こういう人がいたのです。悪に染まっている人がいたのです。
 最初にお話ししました。
 『だれに対しても悪に悪を返さず』と『復讐するは我にあり』は、全く重なります。

▼そもそも、『自分を賢い者とうぬぼれてはなりません』、自惚れるということは、自分で自分を評価することです。その評価が高かろうが低かろうが、自分で自分を評価すること、人を評価することも、つまりは、自分の価値観で裁くことであり、裁いてはならないという主の教えに全く反することになります。
 人を裁いてはならないということと、『自分を賢い者とうぬぼれてはなりません』、『だれに対しても悪に悪を返さず』、『復讐するは我にあり』は、全く重なります。

▼だからこそ、17節。
『すべての人の前で善を行うように心がけなさい。』
 普通に読めば、陰日向なくと聞こえますが、そういうことよりも、どんな相手にもということでしょう。同じことではありません。
 ここでも、『復讐するは我にあり』神が全てをご存じだという信仰の下にです。相手が理解してくれるか、評価してくれるか、逆か、それは絶対のことではありません。
 神の裁きを信じる時に、人間の評価は絶対のものではなくなります。

▼18節。
 『できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。』
 『できれば、せめて』何とも現実的な。パウロは案外そういう見方の出来る人のようです。硬い堅い人、妥協を嫌う人、そんなイメージが強いのですが、案外に現実的に対応する人です。少なくとも、教会員に、出来もしない事を強いたりはしません。

▼そういう前提で、最後に残しました21節の言葉も聞かなくてはなりません。
 『悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。』
 言葉の順番を入れ替えて読めば、『善をもって』ではなく、むしろ相手が相手だからと、悪をもって、暴力をもって、計略を持って、卑怯な手段を持って、手段を選ばず、悪に向かい合うならば、その時、この人は、既に『悪に負け』ているということになります。
 『悪に負け』るとは、悪に打ちのめされることではありません。悪に染まって、自分が悪になってしまうことです。

▼最後に、ローマ書から、パウロ自身の言葉を持って説明するのが正しいでしょうが、パウロの言葉だと長くなり、また、その文脈背景を説明しなくてはならなくなりますので、福音書から説明致します。
 ルカ福音書23章34節。
 『そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです。』
 この時、人々は何をし、何を考えていたのか。
 マルコ福音書27章。
 『42:「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ
十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
 43:神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。
  『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」』
 これは、『復讐するは我にあり』と真逆の言葉というべきでしょう。

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