試練を喜ぶ者に

2015年8月16日聖霊降臨節第13主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。

 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。

 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。

ヤコブの手紙 1章1節〜11節

▼2節からご覧下さい。
 『わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい』
 苦労が、むしろ喜びだということは、充分に頷けることです。身近なところに、実例を見ることが出来ます。
 例えば、家庭菜園、ひたすら収穫だけが楽しみで、可能ならば、それまでの畑仕事はない方が良いという人は、家庭菜園など出来ません。しません。大変だ、大変だと言いながらも、耕すこと、種蒔き、水やり、草取りさえ、楽しむことが出来ます。それを楽しむ人が家庭菜園家です。
 『山椒魚戦争』等で知られるカレル・チャペクに、『園芸家の12月』という本があります。この本を読みますと、苦労こそが、園芸家の楽しみだということが良く伝わってまいります。
 勿論、収穫がなかったならば、これらの苦労は空しく、とても喜びとは言えません。しかし、収穫が絶対ではなく、そこに至る過程こそが楽しみなのです。
 まあ、誰でも知っていることです。

▼苦労を知らない人は、人間に深みがない、底が浅く、人間としてつまらないということも言われます。その通りでしょう。また、苦労したことのない人、痛みを味わったことのない人は、他の人の痛みを思いやることが難しいということも言われます。その通りでしょう。苦労を知らない人を友人に持ってはならないとさえ言われます。これも、その通りでしょう。

▼しかし、ここで言われているのは、『試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい』であって、苦労ではありません。試練です。
 さっきの畑仕事に準えるならば、耕し、種蒔き、水をやり、草を取り、その後に待っていたのは、台風によって全滅したというような話になります。そういう試練を、『この上ない喜びと思』うことが出来るでしょうか。とても無理だと思います。

▼ヤコブは、試練に出会って躓く人に対して、『試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい』と言います。つまり、試練を大胆に、肯定しているのです。
 ここに大きな意味があります。試練は、本当の信仰を養うために良い機会だ、つまり、試練に出会うことは良いことだと、ものの考え方を逆転します。
 このことは、試練に出会った者を断罪する、浅はかな信仰に対する批判でもあります。

▼私が知っている実例です。実例だからあまり詳しくはお話し出来ません。
 ある牧師の家庭を不幸が襲いました。先ず、小さい子どもが事故で亡くなりました。それこそ詳しく話すのは憚られるような仕方でなくなりました。その原因というか、責任は、牧師夫婦に有ったとは言えません。むしろ、教会にあったと思います。これが今の時代で、場所が教会ではなく、学校かなんかだったら、訴えられていたでしょう。
 この事故死は教会員も受け入れたと言いますか、大いに牧師夫婦に同情しました。その後、同居していた牧師のお母さんが亡くなりました。これも病気だから仕方がありません。ところが、それに続いて牧師本人が病気になりました。

▼そこから微妙に雰囲気が変わってしまいました。教会員の躓きになったのです。どうして牧師の家庭に不幸が続くのか、どうして牧師は病気になってしまったのか、神さまから見放されているのではないかとまでは思わなかったかも知れません。しかし、何だか教会が暗い雰囲気になり、牧師はとうとういたたまれなくなり、辞任に追い込まれました。

▼年齢がいった母親は兎も角、小さい子どもがなくなるという事実を、『いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい』と言われても無理な話です。教会員はこれを試練と受け止めないで、躓きとしてしまったのです。
 試練に出会った者を断罪してしまったのです。浅薄な信仰というしかありません。ヤコブが批判しているのは、こういう浅はかな信仰のことです。

▼諄いかも知れませんが、もう一つの例を上げます。つい先日、インターネットのニュースで見ました。インドで、魔女の疑いを掛けられた女性5人が、村人のリンチにあって、殺されたそうです。何故魔女とみなされたかと言いますと、この村では最近子どもたちが相次いで死亡しており、村で医者を自称していた女が被害者の女性5人を名指しして、黒魔術を使ったせいだと非難したのが集団リンチの発端だったと言います。最も不幸な目に遭った者こそが、根本原因だとみられたと言うことです。インドではこういったことが頻繁に起こるのだそうです。
 この例も、試練に出会った者を断罪してしまう、浅薄な信仰というしかありません。
 ヤコブが批判しているのは、こういう浅はかな信仰のことです。

▼女性5人は今月7日深夜、魔術によって村に病や不幸をもたらしたと怒る村人らに髪をつかまれるなどして家から引きずり出され、棒や石で殴られたり刃物で切り付けられたりして殺害されました。女性たちの家族は、「魔女だ、魔女だ」と叫ぶ村人たちを前になすすべもなかったと言います。
 
▼3節をご覧下さい。
 『信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています』
 忍耐です。信仰と忍耐が切り離すことの出来ないものとして、論じられています。これは聖書中頻繁に見られる表現です。
 自分の力を信じるにしても、誰か人の力を信じるにしても、忍耐が必要です。
 まして、神さまの力を信じて待つ時には、忍耐が必要です。信ずるということと、忍耐するということとは、殆ど、重なってしまうのです。
 信ずるけれども、待つことは出来ないというのは、言葉の矛盾です。
 何を待つかも大事ですが、如何にして待つかはもっと大事です。そこで信仰が問われます。
 ひたすらに堪える、大変です。耐えられる人はなかなか偉い人です。しかし、信仰者は、ひたすらに堪えるのではなく、そこにある神さまの御旨を信じて待つのです。希望を捨てないのです。

▼4節。
 『あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、
何一つ欠けたところのない人になります。
 まあ、その通りだと頷けます。理屈は分かります。しかし、それが出来るのなら、苦労はしないよと、一寸逆らいたくなる表現でもあります。
 問題は残りますが、5節を読みます。

▼『あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、
だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。
そうすれば、与えられます』
 4節と5節は、対になっています。
 人格も信仰も、忍耐によってこそ完成するという主張です。逆に言えば、時間をかけて、欠点を補い補正し、少しずつ、良い形を得ていきます。これは、当たり前すぎるくらい当たり前のことです。
 そして、5節、誰か他の人の場合でも同じことだと言うのです。
 最初から完全な人などいない、人格的にも、信仰的にも、何かしら、問題を持っていて普通です。
 時間をかけて、欠点を補い補正し、少しずつ、良い形を得ていきます。それが当たり前なのです。
 しかし、私たちは、4節のことは、当然と考えていても、5節のことは、当然とは思いません。
 
▼この人には、こういう欠点があると言って、断罪し、欠点を補い、修復するのことではなく、暴き立て、断罪することに、一所懸命になってしまうのであります。
 自分自身のことならば、何とか忍耐していこうと思う者も、他の人のことになると、その人の現在時点での様子しか見ないし、今、見たこと、今見た点数で、この人を裁き、切り捨てます。

▼何しろ、その人のために祈るということを忘れています。
 自分自身のためには祈ります。時には、自分の欠点を正視し、認めて、その上で、神さま、私を変えて下さいと祈ります。私を赦して下さいと祈ります。
 しかし、他の人の欠点を見た場合には、それを咎めだてることばかりに目が行って、祈ることは忘れています。
 この私の欠点を赦し、また直して下さる神さまならば、あの人の罪をも赦し、立ち直らせて下さるということを忘れています。
 少なくとも、忍耐して待つことをしないのです。

▼教会についても同じことが言えます。
 教会といえども、人間の集まりでありますから、そこには欠点があります。何もかもが整っているということはありませんでしょう。教会の欠点を暴き出し、断罪することは簡単であります。
 しかし、教会の欠点を暴き出し、断罪することは簡単でも、教会の欠点のために、祈り、忍耐することはなかなか困難なのです。
 ここで、忘れてはならないことがあります。それは、教会は神さまのものだということです。神さまが羊飼いとして、教会に集う者を、教会そのものを導いていて下さるということです。
 教会の欠点、そこに集う人間の欠点を、神さまがご存知ない筈はありません。限りない忍耐をもって、見ていて下さるのです。
 そのことを思わないで、欠点を暴き出し、断罪するようならば、結局、この人は、教会を信じていないのです。教会を牧しておられる神さまを信じていないのです。
 神さまを信じていない人が、この教会の信仰は間違っているとか、生温いとか、批判しても、それは、自己矛盾なのです。

▼6~8節は、一緒に読みます。
 『いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、
風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。
7:そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。
8:心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です』
 ヤコブは試練に出遭い苦しむ人には寛容ですが、『疑う者』については、容赦のない批判をしています。
 こういう人は、『風に吹かれて揺れ動く海の波』に過ぎないと言います。
 似たような表現があります。
 イザヤ17章14節。
 『国々は、多くの水が騒ぐように騒ぎ立つ。だが、主が叱咤されると
彼らは遠くへ逃げる/山の上で、もみ殻が大風に/枯れ葉がつむじ
風に追われるように。』
 イザヤ7章2節。
 『しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの
家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように
動揺した。』

▼ヤコブ書が誰によって何時の時代に記されたのかと言うことについては、議論があります。特定出来ないかも知れません。しかし、年代に何十年のずれがあろうとも、それが迫害の時代だったことは間違いありません。
 私たちが感じる苦労、私たちが受ける試練、それとは比べものにならないような、試練が、教会を、個々の教会員を襲っていました。
 ヤコブ書の試練・忍耐はそんな中で語られているということを忘れてはなりません。

▼9~10節。
 『貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。
10:また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。
富んでいる者は草花のように滅び去るからです』
 解釈が難しいかも知れませんが、なるべく簡単に申します。
 2~8節がそうであるように、9節以下も、教会の中の、ごくごく具体的な、人間関係のことを述べています。
 世の中には、地位とか富とか、絶対的な価値と思われていることがあります。しかし、それらのことは、教会では、通用しない、少なくとも、絶対的な価値ではありません。つまり、『貧しい兄弟は』教会の交わりの中では、相対的に、『自分が高められ』ます。
 逆に、『富んでいる者は』相対的に、低くされます。
 そのことを、貧しい者も、富める者も喜びなさいと言うのです。

▼11節。
 『日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは
失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消
えうせるのです』
 富も地位も絶対的なものではないという話の延長上で、容姿のことが上げられます。世の中では、これこそが、富よりも地位よりも、絶対的なものとされているかも知れません。
 しかし、『草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます』
 決して、絶対のことではありません。
 絶対ではないものを、絶対のもののように考えて、これを支柱にしてしまうと、例え梃子をもってしても、目的のものを動かすことは出来ません。動くのは、自分の方なのです。

▼絶対のものは、唯一、神様の御心のみです。だからこそ、人間の側で絶対のことは、唯一、この神様の御心を信じて忍耐することなのです。

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