私を連れて行って

2015年8月23日聖霊降臨節第14主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。†さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。

ヨハネによる福音書 5章1節〜9節a

▼先週礼拝後の報告の時に申しましたように、今後、月報を発行する週には、聖書入門的な意図をもって、説教箇所を選び、伝道的と申しますか、分かり易い、入門的な説教を心がけたいと考えます。
 ために、ごくごく知られている、何度も読んだ箇所を取り上げることになりますので、以前にした話と内容も、かなり重複しますが、ご了承いただきたいと思います。

▼6節から読みます。
 『イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気
であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。』
 ベテスダの池のほとりで、イエスさまと一人の男との間に、奇妙とも言える問答が交わされました。イエスさまの方から語りかけました。
 『良くなりたいか』。
 イエスさまは、この人の様子をご覧になり、また、38年間もこの場所にいること、奇跡を待っているということを、充分承知の上で、『良くなりたいかと言われ』ました。不思議な、奇妙な問に聞こえます。
 こんなふうに問う理由は一つしか考えられません。この男には、良くなりたいのか、良くなりたくないのか、さっぱり分からないという様子があったということです。少なくとも、良くなりたいという必死さは見えなかったのです。

▼昔、急性肝炎で入院していた時、同じ病室に、肝硬変の人がいました。この人は、夜な夜な病室を抜け出しては、近くのコンビニでカップ酒を飲んでいました。それが露見した時に、看護士さんが言いました。
 「あなた、本当に直りたいんですか」
 ベテスダの池のほとりで、38年間を過ごした男の姿が重なって見えて来ます。

▼病気で苦しいからこそ、入院しています。治療の内容まで詳しいことは分かりませんが、楽な治療ではなかった筈です。画期的という新薬が出たばかりだったと記憶しています。効果は抜群ですが、同時に激しい副作用があります。その苦しい治療を受けていながら、夜になると、コップ酒を飲んでしまいます。何故でしょう。その心境は、どんなものなのでしょう。
 直るんだろうか、直らないのではないか、そういう不安があったと思います。根拠のない想像ですが、直ったところで、病気のために失った仕事には戻れない。直っても仕方が無いのではないか。いっそ、このまま病院にいた方が気持ちが楽だ、そんなことを考えていたのかも知れません。

▼古い古い、まあ時効のようなものですから、話してもよろしいでしょう。当時未だ学生だった私は、ある人、Tさんといっておきます。この人と知り合いました。彼は、精神病院に長く入院していました。アルコール依存症です。お酒を飲んでいない時は、口数も少なく物静かな人です。しかし一端お酒を飲むと、人が変わったようになります。彼が精神病院に入ったというか、措置入院させられたのには、悲劇的な事件がありました。彼の父親が、酒乱でした。お酒を飲むと、家族、特に奥さんに暴力を働きます。

▼Tさんは、そのことで心を痛めていたのですが、気が弱く、父親に向かって意見することが出来ません。たまりかねて、彼自身がお酒に逃避し、酒乱となり、ついには、意図的ではなかったでしょうが、父親を殴り殺してしまったのです。そして、刑法的には責任能力なしということで、長い入院生活が始まりました。
 病院では勿論一滴のお酒も飲めませんから、元々の性格で、おとなしく模範的な生活でした。10年後、ナイトホスピタルと言いまして、昼間は工場で働き、夜は病院に帰る、そういう自由が与えられました。

▼その時に、周囲の人が配慮して、Tさんを娘に会わせようと手配しました。私は止めた方が良いのではないかと思いました。10年振りに娘と会うことが、どういう意味を持つのか、10年振りに現れた父親を、娘はどのように受けとめるのか、そんなことを思いますと、反対せざるを得ませんでした。
 しかし、娘は会いたいと言う。もう、反対出来ません。
 段取りが決まりました。その数日前、Tさんは、10年振りに酒を飲み、そして、車にはねられてなくなりました。事故が自殺かは分かりません。

▼病癒えることを、素直には喜ぶことが出来ない人がいます。むしろ、直らない方が、少しはましだと考える人が存在するのです。

▼長い脱線でした。素に戻ります。
 病に罹った人々が、必死に叫びながら、イエスさまに救いを願い求める、聖書では、そういう印象が強いのですが、ヨハネ福音書ではそうとも限りません。そういう場面はむしろ例外的です。
 『良くなりたいか』というイエスさまの問そのものが、なんだかピンと来ないような気もしますが、男は、答えます。
 『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。
 わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです』
 この二人の問答は、ちょっとピントが外れています。
 今日流で言えば入院中の人に、『良くなりたいか』と聞くのもどうかしていますが、『良くなりたいか』と聞かれたのですから、「ええ、良くなりたいです」とか、「いや無理でしょう」とか、それが普通の会話です。
 まあ敢えて解釈すれば、「治りたいのはやまやまですが、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」
 こういうことでしょうか。

▼男には、もっと他に言いたいことがあったのかも知れません。
 『わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです』
 もしかすると、男は、イエスさまが入れてくれるのを期待したのかも知れません。男の手を引いて、或いは背負って。
 しかし、イエスさまは、具体的には何もして上げません。
 イエスさまは、ただ、お言葉だけを与えました。
 『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい』
 その言葉が、男を救ったのです。
 イエスさまのお言葉で、男は、動いたのです。自分で行動したのです。そして、救われたのです。

▼どんなに子細に調べて見ても、イエスさまは、この男の手足を癒すような手立てを、何もしておられません。この物語の舞台設定、状況設定を踏まえますと、ベテスダの水が突然に動いて、イエスさまの方に近づいて来たという展開になった方が自然です。
 これが昔話や童話なら、絶対にそういう描写になっています。
 『わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです』
 その瞬間に水が動いて、しかも男の方に迫ってくる。昔話や童話なら、必ずそういう展開になります。
 男がこう言った時に、イエスさまがこの男を抱えて、池の方に歩まれても良かったと思います。そうしたら、聖書中でも特別に輝く一場面になったことでしょう。多くの画家がその場面を描き、有名な聖画として伝えられたことでしょう。
 せめて、イエスさまが水を汲んで来られて、この男の痛みのある部分にかけて上げたら良かったと思います。
 しかし、実際には、イエスさまは、何もなさいません。痛いところに手を置くことも、祈ることさえなさいません。

▼それどころか、男がどのようにして癒されたのか、この記事には、何も記されていないのです。
 イエスさまは、何もしていないのです。
 それは、事柄が、手足の痛みではないからです。
 男が患っていたのは、もっと根元的な痛みなのです。
 実は、福音書の奇跡物語は、ヨハネ9章等のごく少数の例外を除いて、同様です。つまり、奇蹟物語の中で、イエスさまは何もなされません。別の言い方をすれば、イエスさまは、超能力を持った療法士ではありません。イエスさまが癒されるのは、私たち人間が人間であるが故に免れることの出来ない、根元的な痛みなのです。

▼ある人は、聖書の奇跡物語を信ずることが出来ないと言って躓きます。
 ある人は、奇跡物語に魅力を覚えて、これに与りたいと必死になります。しかし、奇跡を信ずるか信じないか、それは絶対のことではありません。
 そうではなくて、聖書が奇跡物語を通して、私たちに、何を語っているかを聞かなくてはなりません。
 奇蹟物語は、そのような形式で私たちに何事かを伝えようとしているのです。

▼奇蹟という印象の強い出来事の陰に、時に隠れてしまいますが、ここに登場する人々は、イエスさまと言葉を交わすことで救われています。
 イエスさまの語りかけに対して、男は、『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです』このように答えました。
 これは、この男の38年間を凝縮した、この男の物語です。最近の1回2回、他の病人と動いた水を追いかける競争をして破れたという、そういうことではありません。男の言葉は、彼の38年間そのものなのです。

▼そして、これはついでに申しますと、現代の競争社会では、この男と似たような人生を強いられて生きている者が少なくないのです。『わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです』そういう、醜い競争社会に私たちは生きています。

▼具体例を挙げる必要もありませんでしょう。誰もが知っており、誰もが体験し、誰もがそのことに苦しんでいます。
 学校、特に入学試験のこと、会社のこと、入社試験、昇進。先頃話題になったテレヒドラマに描かれた幼稚園児のママさん同士の競争、争い。要するに人を出し抜くこと、そういう、醜い競争社会に私たちは生きています。不愉快になるだけでしょうから、具体例は挙げません。

▼先程触れましたTさんには、手助けしてくれる人が現れました。水のある場所まで連れて行ってくれる人がいました。
 しかし、それを拒まなければならない人もいるのです。救いを拒む人もいるのです。自分は救われてはいけないと思う人がいるのです。

▼参考になりますので、少し先の方を読んで見ます。11節。
 『わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです』
 この証言の通りだとすると、先ず癒しが行われました。それから、男は、イエスさまの言葉に従って、『床を取りあげて歩』きました。これは、安息日の禁を犯したことになります。
 14節も読みます。
 『その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。
 「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。
さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない』
 これを見ると、彼の救いは、病を癒されたことによっては未だ本当には実現していないのかも知れません。彼の救いが確かなものになるのは、この方がイエス・キリストと知った時です。
 彼の身の上に起こった物語が完結するのは、15節、
 『この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、
ユダヤ人たちに知らせた』
 このことによって彼の身の上に起こった物語が完結するのです。

▼以前にも、しかもこの箇所の説教でお話ししましたが、これ以上の例話は他に無いと思いますので、もう一度お話しします。
 ラーゲルレーブと言えば、女流で最初のノーベル文学賞を得た作家です。『エルサレム』を始め、聖書的・信仰的な著作が多数あります。という紹介よりも、『ニルスの不思議な旅』の著者と言った方が早いでしょう。ノーベル文学賞、『エルサレム』云々と言ったのは、唯の童話作家ではないということを強調したかったから申し上げました。この人の岩波文庫版『キリスト教伝説集』の中に、『ヴェロニカのハンカチ』と言う作品があります。その梗概、必要な箇所に絞ってお話します。

▼ローマ皇帝・ティベリウスは、権謀術数、血の粛清、その果てに皇帝の地位に上り詰めた人でした。ために晩年になって、己の地位に不安を覚え、周囲にいる誰をも信用することが出来ません。誰もが自分を脅かす存在にしか見えないのです。その醜い心の思いが顔に現れて、病となります。彼は顔を包帯で覆い、王宮深く身を潜めました。

▼そのことに大変心痛めたのが、乳母のヴェロニカです。彼女こそは、真にティベリウスを愛する唯一の人でした。彼女は、ティベリウスを救うべく旅に出ます。東の都に優れた預言者があり、どんな病気をも癒すと聞いたからでした。この旅の様子が物語の大半なのでありますか、これは省略致します。
 やっとの思いで都に辿り着いたヴェロニカは、不思議な行列に出会います。十字架を背負った男が、兵士に引き立てられて、丘の坂道を上って来ます。
 男は、沿道のヴェロニカの前まで来ると、力尽きたのか跪きます。彼が被った茨の冠からは、血が滴り落ちています。彼女は哀れに思い、駆け寄ると、ハンカチで男の額を拭います。すると、男は奇妙なことを言う。「おまえの願いは今叶えられた。」

▼ローマに帰ったヴェロニカは、ティベリウスに会い、旅の報告をします。不思議な預言者を見つけたけれども、彼は十字架に架けられて殺されてしまったと言いますと、ティベリウスは、はじめから気休めにも思っていなかった、この病を癒すことは誰にも出来ないと、虚ろに笑います。ヴェロニカは無言で、ティベリウスに一枚のハンカチ差し出します。そこには、十字架に架けられて殺されてしまった男の顔が、くっきりと映っていました。

▼その顔を見たティベリウスは、叫び出します。「ここには本当の男がいる。ここには本当の人間がいる。俺の周囲にいる男はみんな豚だ。しかし、この男は本当の人間だ。この男なら、俺の病気を癒してくれたかも知れない。しかし、男は死んでしまった。もう、望はない。」そう叫んだ瞬間、彼は身体に不思議な力がみなぎるのを感じます。包帯を外すと、顔の醜いはれ物はすっかり治っていました。彼の病は、他の人を信ずる事が出来ないと言う醜い心が表に現れたものです。一人の真実の人間との出会いが、彼の病の根本原因をいやしたのでした。
 ヴェロニカのハンカチの伝説を元にしたラーゲルレーブの小説です。

▼この話を初めて読んだ時に、私は、ベテスダ池畔の癒しと重ねないではいられませんでした。その主題は全く同じと言っても差し支えないと考えます。
 一人の人間が、ナザレのイエスという人間に出会って、手や足のことではない、もっと根源的な痛みから癒される話です。
 ところで、私たちにもハンカチがあれば良いのに、そう思います。それは、現に存在します。それは、ローマにある伝説のヴェロニカのハンカチのことではありません。

▼主イエスのお姿を映しているもの、そこで私達が主イエスに出会い、お言葉を聞くことさえ出来るもの、…勿論、聖書です。
 私達が聖書を読む目的、それは主イエスとの出会いです。この出会いが、この出会いだけが、私達の病を癒すのです。
 私達を、人間が人間であるが故に免れることの出来ない根元的な痛みから、癒すのです。

▼私たちは、聖書を通じて、この目で、むしろこの心で、イエスさまの姿を見ることが出来ます。それだけでも大きな意味があるかも知れません。その人なりに、考えさせられることがあるし、その人の人生に大きな影響を残す程のことかも知れません。
 しかし、私たちが真に救われるのは、この方がイエス・キリストと知った時、その時なのです。

▼私を、救いの道へと連れて行ってくれる人、それが出来る人と出あった時なのです。

この記事のPDFはこちら