十字架の他誇るものなし

2015年9月6日聖霊降臨節第16主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。
 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

ガラテヤの信徒への手紙 6章14節〜18節

▼4年前に、ガラテヤ書6章11~18節を与えられて読みました。今日は14節以降です。前回の原稿を見ましたら、大部分を11~13節に費やしていました。そんな訳で、今日は11~13節には触れずに、14節以下に絞って読みたいと思います。

▼14節。
 『しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストのほかに、
誇るものが決してあってはなりません。』
 『主イエス・キリストのほかに、誇るもの』を持っている教会がありますでしょうか。有るかも知れません。
 『修道士カドフェル』を主人公、主な舞台を12世紀のイギリス修道院とした探偵小説全20冊のシリーズがあります。作者は、歴史家のエリス・ピーターズという人、歴史家ですから時代考証は正確です。
 その中に、『聖女の遺骨求む』という小説があります。直截関連することだけを紹介します。
 この時代、と言うのは十字軍遠征の直後になりますが、聖地つまりエルサレムから、様々な戦利品、むしろ略奪品がイギリスに持ち帰られました。その中でも、人気だったのは、キリストの十字架のかけら、その遺骸を来るんだ布といった類、聖遺物です。

▼この時代、各修道院毎に、特徴と言いますか、売り物を持っていなくてはなりませんでした。それがないと、参拝客が少なく、結果は献金がありません。それが、『聖女の遺骨求む』です。悲劇的な殉教を遂げた信仰者の遺骨、それも美しい女性の遺骨は霊験あらたかなりとして、高額で取引されたと言うのです。
 同じような話は、ケン・フォレットの『大聖堂』にも描かれています。

▼聖書に、イエスさまを『大食漢の大酒飲み』と呼ぶ記述があります(マタイ福音書11:16~19)が、イエスさまが架けられた十字架はさぞかし大木だったらしく、ある物好きな人が概算したら、この十字架は背丈が50メートルくらい有るそうです。つまり、それ程、世界中に十字架のかけらと言われているものが存在するということです。これを集めて一本の木にしたなら、どうしても50メートルになってしまうということです。
 勿論その大半は、と言うよりも、全てが偽物に違いありません。
 同じことが、仏舎利つまり、お釈迦様の遺骨にも当て嵌まります。仏舎利殿にまつられている遺骨を集めたら、お釈迦様の身長は100メートルを優に超えてしまうでしょう。1000メートルかも知れません。

▼実は、『聖女の遺骨求む』という題名を思い出せず、ネットで「遺骨」「聖遺骨」と検索してみました。
 そうしましたら、以下のような記事がヒットしました。
 長いので約めて紹介します。
 ロイター発。ローマ法王ベネディクト16世は28日、ローマの聖パウロ大聖堂の墓の中から、1世紀か2世紀の骨の一部が見つかったと発表し、これにより聖パウロの遺骨がこの墓の中に納められていることが裏付けられたと述べた。
 キリスト教では、使徒パウロの遺体は聖ペテロと共にアッピア街道の地下墓地に埋葬され、聖パウロ大聖堂が建てられたときにその下に移されたとされており、何世紀もの間、祭壇の下に聖パウロの遺骨があると信じられてきた。2006年に石棺が発見されたため、バチカンの考古学者が科学的な調査を行っていた。
 法王によると、石棺にドリルで小さな穴を開け中を確認したところ、「純金の施された紫色の高級な麻の布」や、「骨の一部が見つかり、専門家による炭素14の測定により1世紀か2世紀に生存していた人のものであることが判明した」という。

▼こともあろうに、使徒パウロの遺骨です。「純金の施された紫色の高級な麻の布」は、およそパウロらしくないと思うのですが。いかがでしょう。炭素14による測定、年代確定をするまでもありません。
  
▼聖書に戻ります。
 『しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストのほかに、
誇るものが決してあってはなりません。』
 プロテスタントの教会には、聖遺物の類はありません。そもそも大伽藍がありません。しかし、いろいろなものが、キリストの代わりに、誇りになったり、見世物になったり、売り物になったりしているのではないでしょうか。
 特定の何か、誰かを批判するつもりはありませんので、具体例は上げないことにします。
 教会にも個々の特徴があって良いと思いますし、それは、教会の豊かさかも知れません。しかし、『イエス・キリストのほかに、誇るものが』ある教会は、堕落、崩壊の一歩手前に存在するのではないでしょうか。

▼『しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストのほかに、
誇るものが決してあってはなりません。』
 この言葉から、直截的に連想させられるパウロ自身の言葉があります。
 コリントの信徒への手紙二 11章22節以下です。
 『22:彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。
わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。
 23:キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、
わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、
投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、
死ぬような目に遭ったことも度々でした。』
 この後も、自慢とも言えない自慢が、縷々続きます。

▼ヘブライ人の中でエリート意識を持っている人、ヘブライ人であることを、何か特権であるかのように考えている人に対して、使徒パウロは、真に誇るべきは何か、その問を根本的なところから突きつけます。
 十字架の辱めを受けることこそが、唯一誇ることが出来ることなのです。

▼『この十字架によって、世はわたしに対し、
  わたしは世に対してはりつけにされているのです。』
 不可解な表現ですが、興味深い表現でもあります。『はりつけ』とは、死刑囚を釘で十字架に打ち付けることです。両掌と両足の甲が、打ち付けられます。ですから、全く自由が効かなくなります。『はりつけ』られ、絶対に逃れることは出来ません。自分の力で、十字架から手を離そうとすれば、激痛が走ります。足も同様です。
 『わたしは世に対してはりつけにされているのです』ということは、何だか分かるような気がします。この世の救いのために、この世に『はりつけ』られているということでしょう。
 そして、『世に対してはりつけにされている』ことが、パウロの誇りなのです。

▼『世はわたしに対し … てはりつけにされているのです。』
 これが不可解です。どういうことでしょうか。パウロがこの世の救いという努めのために、『世に対してはりつけにされている』と同様に、『世はわたしに対し … てはりつけにされているのです。』
 世もまた、福音からは逃れられないということでしょうか。
 具体的に説明しろと言われたら困りますが、これは大事な言葉だと思います。
 『世はわたしに対し … てはりつけにされているのです。』世もまた、福音からは逃れられないのです。これは、大胆な信仰です。
 教会の伝道戦略の根本になくてはならない信仰だと考えます。

▼私たちは、聖書の信仰とこの世の中は、基本、無縁のものだと考えているのではないでしょうか。その無縁のものに、如何にして福音を伝えるか、私たちはそういった発想をします。特に、日本という国は、福音と無縁の世界だと思っています。
 しかし、パウロ的発想ではそうではありません。
 『わたしは世に対してはりつけにされているのです』
 そして、『世はわたしに対し … てはりつけにされているのです。』
 これがパウロの発想です。私たちも、これに倣わなくてはなりません。
 
▼15節。
 『割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。』
 ここは、文脈から切り離しては理解出来ない記述ですが、文脈から切り離しても重要な表現だと思います。
 文脈に触れていれば、時間が足りませんので、簡単に説明します。
 パウロは割礼を否定しているのではありません。ただ、十字架の前には、最重要なことではなくなってしまうのです。
 最重要ではないことを、十字架よりも重要であるかのように、絶対視するならば、それは、偶像に墜ちてしまうのです。

▼そのことこそが、
 『しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストのほかに、
誇るものが決してあってはなりません。』
 これです。
 要は、教会にとって、絶対になくてはならないものは何かということです。そうではないものを、大事に抱え込んでしまうと、それは、豊かさではなく、堕落、腐敗につながってしまうかも知れません。

▼『大切なのは、新しく創造されることです』
 これが、割礼の意味であり、そして、洗礼の意味です。
 『新しく創造される』、新しく生まれる、それなのに、それ以前の価値観に引き戻されてしまう現実を、パウロは指摘しています。
 ユダヤ人の血筋を誇ることは、その極めつけです。

▼16節。
 『このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、
神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。』
 『神のイスラエル』つまり教会は、十字架を仰ぎ見る者の群れなのであって、他のものであってはなりません。
 教会は、十字架のもとに『新しく創造され』た存在であり、教会員一人ひとりも、『新しく創造され』た、新しい命に生きる存在です。『神のイスラエル』です。最早地上の国イスラエルではありません。
 そこには、『平和と憐れみが』約束されています。
 それなのに、地上の価値観にとらわれて自由になることが出来ないならば、そこに『平和と憐れみが』ないならば、『新しく創造され』た、『神のイスラエル』つまり教会ではありません。

▼先日、大木英夫先生の講演を聴きました。日本は森有礼の提唱したアメリカ型民主主義、国民主権の道を選ばず、プロイセン型の帝国主義、天皇主権の道を選んでしまった。それが、今日の政治情勢にもつながるという話でしたが、その中で、最も強調されていたことは、日本のプロテスタントは、妥協に妥協を重ねて生き延びてきたという批評でした。
 妥協に妥協を重ね、土着と言えば聞こえが良いが、土地土地の宗教と混交したのはローマ・カトリックではないかと思っていましたから、少し意外に聞こえました。また。妥協と言いますと、軍部に迎合して、戦争を肯定したことかと思いましたら、大木先生の論理では、そんなことではありませんでした。
 
▼大木先生の言う妥協とは、必ずしも聖書に論拠を持たない様々な思想、個々人の価値観や倫理観との妥協、迎合のことでした。
 一番簡単に言えば、聖書と教会の信仰・教義に立たない、自己流の信仰と、妥協、迎合して来たと言うのです。
 もっと簡単に言えば、聖書をちゃんと読んでいない信仰だということでした。

▼さて話を元に戻しまして、パウロは、このことを、より厳密な仕方で表現します。17節。
 『これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。
わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。』
 神の牧場の羊です。普通の牧場の羊は、牧場の印の、焼き印が押されています。簡単に消すことが出来ないから、焼き印の意味があります。
 しかし、パウロは、焼き印以上に、決して消すことの出来ない、代えることの出来ない印を、心に刻まれているのです。
 私たちだってそうです。
 それなのに、表面的な割礼に拘るとしたならば、本当に心の焼き印があるのか疑わしくさえなってしまうのです。

▼さて、私たちには割礼はありません。使徒パウロの言葉を私たちに当てはめたらどういうことになるのでしょうか。割礼に比較できるものは、洗礼でしょう。
 15節に戻ります。
 『割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。』
 これを、洗礼に置き換えることが出来るでしょうか。
 『洗礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。』
 妥当するとも言えますし、妥当しないとも言えます。
 『洗礼』が、体の表面に刻まれたものではなく、心の内側に刻印されたものであるかどうかが問われています。

▼ここで所謂フリー聖餐に言及するのは、脱線、飛躍でしょう。しかし、『洗礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。』という観点から触れないではいられません。
 聖餐式の式文の中に、『ふさわしくないままで飲み食いする者は』とあります。これは、必ずしも、洗礼を受けていないで、聖餐に与るものはと言う意味ではありません。
 先ず引用文を見ます。Ⅰコリント11章です。勿論、新共同訳ではなく、口語訳になります。
『26:だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、
それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。
27:だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、
主のからだと血とを犯すのである。
28:だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。
29:主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって 自分にさばきを招くからである。
30:あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、
また眠った者も少なくないのは、そのためである。』

▼必ずしも、洗礼を受けていないで、聖餐に与るものはという意味ではないと申しました。それ以上のことなのです。洗礼を受けていても、『だれでもまず自分を吟味し』なければならないし、『主のからだをわきまえな』ければならないのです。
 『主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって 自分にさばきを招く』とても恐ろしいことが記されています。

▼プロテスタント教会、特に長老主義教会の聖餐式が、何故月に1回なのかご存じでしょうか。
 それは、聖餐式に与る希望を出した人について、長老会で審査し、ふさわしいか駄目かを決定するためです。ですから、月1回長老会を経て聖餐式を行います。自ずと、聖餐式は月1回となります。
 聖餐に与るとは、それ程のことだったのです。現在でもこれを励行している今日は教会が存在します。
 これをいたずらに開放して、どなたでもどうぞと言った時に、これは最早聖餐式ではなくなってしまうと思います。
 
▼洗礼を受けていても、『だれでもまず自分を吟味し』なければならないし、『主のからだをわきまえな』ければならないなどと言いますと、良心的な人ほど、謙虚な人ほど、本当に信仰に生きている人ほど、「私はとても聖餐に与れない」と言い出すでしょう。
 その瞬間、彼は、聖餐にふさわしい人になったのです。
 誰もが、罪を告白し、赦しを願い、そして、聖餐に与るのです。先程の信仰告白はそのためのものです。
 信仰告白する者だけが、聖餐にふさわしいとは、そういう意味です。
 
▼「聖体拝領は、よい人たちにはさいわいとなるが、わるい者にはわざわいとなる。その結果として、地獄に堕ちるはずの者も天国にいるのだが、その者にとっては、天国は地獄である。」
 信仰を否定する人に聖餐を与えて天国に送っても、その人は幸福にはなれないと言うことです。
 シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』の一節です。
 これ以上、聖餐の話を続けると、ガラテヤではなく、コリントの説教になってしまいますので、止めにします。
 
▼最後にもう一度18節。
 『兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、
あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。』
 繰り返し繰り返しお話ししています。パウロの手紙で、『恵み』という字が出て来る時には、『使命』と置き換えて読んだ方が分かり安いと、橋三郎は言います。ここも妥当します。この『恵み』、『使命』と聖霊が結び付いています。

▼私たちは、ペンテコステの出来事の時のように、私たちの教会を私たち一人ひとりを聖霊で満たして下さいと祈ります。それは、主のご用のために働くことを目的としています。
 主のご用のために働く者に、そういう思いを持って教会から出て行く者に、『わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように』との、祝福が与えられます。

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