神さまのなさることは

2015年9月13日聖霊降臨節第17主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 兄たちが出かけて行き、シケムで父の羊の群れを飼っていたとき、イスラエルはヨセフに言った。
「兄さんたちはシケムで羊を飼っているはずだ。お前を彼らのところへやりたいのだが。」
「はい、分かりました」とヨセフが答えると、更にこう言った。
「では、早速出かけて、兄さんたちが元気にやっているか、羊の群れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか。」
 父はヨセフをヘブロンの谷から送り出した。ヨセフがシケムに着き、野原をさまよっていると、一人の人に出会った。その人はヨセフに尋ねた。
「何を探しているのかね。」
「兄たちを探しているのです。どこで羊の群れを飼っているか教えてください。」ヨセフがこう言うと、その人は答えた。
「もうここをたってしまった。ドタンへ行こう、と言っていたのを聞いたが。」  ヨセフは兄たちの後を追って行き、ドタンで一行を見つけた。
 兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した。
「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」
 ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った。「命まで取るのはよそう。」
 ルベンは続けて言った。
「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。」 
 ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである。
 ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。
 彼らはそれから、腰を下ろして食事を始めたが、ふと目を上げると、イシュマエル人の隊商がギレアドの方からやって来るのが見えた。らくだに樹脂、乳香、没薬を積んで、エジプトに下って行こうとしているところであった。ユダは兄弟たちに言った。
「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」
 兄弟たちは、これを聞き入れた。
 ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。

創世記 37章12節〜28節a

▼創世記全50章中、37~50節を占める長大なヨセフ物語の、序章の部分に当たります。初めてここを読む方もおられるかも知れませんから、粗筋をお話ししなければなりません。と言いましても、それだけでも大分時間を費やしてしまいます。事実上不可能ですので、是非、後でお読み下さいとお奨めするよりありません。37章に絞って、それでも粗筋ですが、確認したいと思います。

▼イスラエルの族長ヤコブには、いろいろと事情があって、4人の妻に、計12人の子どもがいました。その内、ヤコブが最も愛した妻ラケルの息子が、この物語の主人公とも言うべき、ヨセフです。聖書に記されていない説明・解釈はなるべく省き、事実だけをお話しします。
 彼は兄弟の中で、飛び抜けて優秀でかつ美しい容姿を持っていました。父ヤコブは、彼を偏愛します。この子どもにだけ、美しい晴れ着を着せるということさえしています。何故偏愛したのか、偏愛をどのように評価するかということは、ここには記されていません。特には、愛する妻の子だからとも記されていません。容易に想像は出来ますが。
 『年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり』とだけ述べられています。これは偏愛の十分な理由なのでしょうか。ヨセフより年下の子もいます。
 創世記には、繰り返し同じこと、父が息子の一人を偏愛する様子が描かれているということだけ、確認しておきます。

▼ヨセフには、容姿の他に、もう一つの能力がありました。それは、夢・幻を見る力を持っていたことです。
 7節。
 『畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、
まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、
わたしの束にひれ伏しました。」』
 ヨセフ自身が、夢の意味をどのように理解し、また、何故、兄弟に話したのかは記されていません。

▼しかし、兄弟たちは、当然ながら、8節のように受け止めました。
 『なに、お前が我々の王になるというのか。
お前が我々を支配するというのか。』
 これも当然ながら、『兄たちは夢とその言葉のために、
 ヨセフをますます憎んだ』と記されています。
 事は深刻になっていきます。

▼ヨセフは更に夢を見ました。
 『ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。
 「わたしはまた夢を見ました。
  太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです』
 夢の内容・意図は、7節と同じでしょう。兄たちはますます、ヨセフを憎みます。
 ヨセフは未だ幼くて、兄たちが、これをどのように受け止めるかということまで、斟酌していないようです。無邪気と言っても良いでしょう。
 しかし、兄たちを怒らせるには充分です。

▼結果として、かなり話を飛ばしますが、18節、
 『兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて
来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ』
 無理がないとは言わないまでも、兄たちの怒りは膨らんでしまいます。

▼19~20節。
 『「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。
 20:さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に
食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう』
 『例の夢見るお方』、ヨセフがどんな風に思われていたか、良く分かります。兄弟だからこそ、父の偏愛に嫉妬し、怒り、そして、それが憎しみとなります。 ヨセフは、父の愛の故に、偏愛の故に、周囲にいる兄弟から、浮き上がり、更に、憎まれたのです。

▼粗筋に止めて、解説は加えないと申しましたが、このことだけは、指摘した方が、後々分かり易いと思います。
 ヨセフと他の兄弟たちとの関係は、イスラエルと他の民族との関係に準えられています。
 神は、イスラエルを何故か偏愛しています。それは、他の民族、兄弟に比喩されている周辺民族をいらだたせるのに十分な理由となります。
 つまり、神の偏愛こそが、イスラエルの苦難の遠因となってしまいます。
 逆に言いますと、イスラエルが苦難に遭うのは、神さまがイスラエルを特別な思いで見ておられるからだということになります。偏愛云々は、此処にこそ意味があります。これは、イスラエルの大胆な信仰です。信仰告白です。
 
▼こんなふうに話していますと、そも偏愛が悪い、神さまともあろう方が、偏愛なさるのかという方向に関心が向いてしまうかと考えます。しかし、道徳倫理を神さまに当てはめて、神さまを裁くことは出来ません。また、神さまが他の民族に対してどのような計画、考えを持っておられるのかは、これは、別の話です。
 ここでは、偏愛という表現が最もぴったりと当て嵌まるくらい、神のイスラエルに対する思いは強いという話です。
 勿論、このことは、ヤコブとヨセフにも当て嵌まることです。ヤコブが他の兄弟に対してどのような計画、考えを持っておられるのかは、別の話なのに、兄弟たちは、比較してしまうのです。

▼このことは、神さまと教会との関係にも、全く当て嵌まります。偏愛と言う表現が最もぴったりと当て嵌まるくらい、神の教会に対する思いは強いという話です。
 それを、神たる者は、教会員だろうと、そうでなかろうと、人間を等しく扱い、等しく愛すべきだと言うのは、正に、神さまを自分たちの倫理道徳で裁くことです。
 まして、他の宗教も、キリスト教と同様に尊重されるべきだという、キリスト教内部の主張は、表面麗しいようでいて、実は神の偏愛、むしろ、神の愛そのものを裁き、否定する考え方に過ぎません。

▼トルストイは言います。「人間は人間誰をも等しく愛すべきだ。しかし、それは出来ない。だから、たった一人を、真剣に愛すべきだ」。
 平等、均一と強調する人は、実は、誰をも愛していない人でしょう。
 一番分かり易い例でいえば、10人の女性を愛する人は、結局、誰をも愛していません。そういうことです。

▼大分約束から外れて脱線しました。元に戻ります。
 37章の粗筋の続きです。21節。
 『ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った。「命まで取るのはよそう』
 ルベンは長男です。長男的発想をします。他の兄弟が生まれる前からいて、かつては父親の愛を独占していたからかも知れません。彼は父親の愛を知っています。しかし、人によっては、この故にこそ、嫉妬します。後から来た者が、自分と同様、まして、それ以上の愛が注がれるのに嫉妬を覚えます。
 こういうことは教会の中でも起こります。
 牧師は新しい人にだけ関心を持ち、古い人にはかまわない、こういう批判は、いろんな教会でしばしば聞く、牧師批判です。

▼本当は、この嫉妬は理屈に合いません。神の愛は、他を嫉妬させる程の愛なのです。自分を愛してくれた、愛を持った人だからこそ、弟をも愛します。しかし、それが嫉妬の元になってしまいます。
 ルベンは、長男です。父の愛を知っています。それで嫉妬に狂うことはなく、他の兄弟をなだめよう、嫉妬を薄めようと働きます。

▼22節。
 『ルベンは続けて言った。「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に
投げ入れよう。手を下してはならない。」ルベンは、
ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである』
 これも長男的発想です。『ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかった』。父と兄弟たちの間に入って、うまくことを納めようとします。 それならば、もっとはっきりと、「あなた方は間違ったことをしようとしている」と諫めたら良いのですが、それでは反発を招くだけだと知っています。
 そこで、間に立つような顔をします。中立を装います。兄弟たちには母親違いの者が多いという事情もあるかも知れませんが、しかし、偽善的ではあります。
 これも、教会に当て嵌まるように思います。一つ教会で礼拝を守る兄弟姉妹ですが、出身教会・教派の違いがあります。だから互いに遠慮もあります。そこで、長男に当たる人が、もしかすると、役員が、配慮しようとします。それは結構なことです。大事な役割です。しかし、間違っていることが、間違っているとされず、容認されてしまうならば、それは、大変に危ういことです。

▼粗筋に戻ります。半分くらいにダイジェストします。
 『兄たちはヨセフが着ていた晴れ着をはぎ取り、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。彼らはそれから、腰を下ろして食事を始めたが、イシュマエル人の隊商がやって来るのが見えた』
 それを見て、26節。
 『ユダは兄弟たちに言った。「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない』
 弟を穴に投げ入れて、『食事を始めた』というのも、ひどい仕打ちですが、ユダの言い分は、あまりと言えばあまりです。嫉妬、憎しみに金銭欲を重ねています。何という醜さでしょう。それなのに、自分の言い分が正しいかのように装い、兄弟たちを説得にかかるのです。
 この醜さを見ますと、ヤコブの偏愛も根拠のあることと思えて来ます。正当化されるように思えますが、どうでしょうか。

▼続きの27節です。
 『それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。
弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」
  兄弟たちは、これを聞き入れた。』
 何とも救いようのない醜さです。
 『あれだって、肉親の弟だから』、弟を殺そうとしてから、奴隷に売って一儲けしようとする、その理由説明に、『あれだって、肉親の弟だから』と言います。それならば止めなさい。誰が考えても、そうでしょう。
 盗人にも三分の理と言いますが、これは何でしょうか。殺人者にも三分の理でしょうか。

▼28節。
 『ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、
ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、
  彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。』
 結果的には、兄弟たちは、ヨセフを奴隷に売るという罪を、一応ですが、回避しました。未遂に終わりました。しかし、ヨセフが奴隷となった原因は、彼らにあります。 
 このややこしい展開は、兄弟たちにとっての、せめてもの救いです。
 神さまが守って下さったのでしょう。

▼さて、今日の箇所は、28節までで終わりです。
 物語のほんの発端です。その続きは、最初に申し上げたように、聖書そのものを読んでいただきたいと思います。
 
▼今日の箇所に限定してもう一度振り返ります。
 最初は省略しましたが、
 『ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、
  父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。
  ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した』
 『十七歳』が『まだ若く』とは奇異な感じもしますが、創世記の登場人物の不思議な高齢を考慮しますと、例えば、アブラハムが亡くなったのは175歳、アダムに至っては930歳です。
 『十七歳』が『まだ若く』とは、創世記的には、全くその通りです。

▼問題は『兄たちのことを父に告げ口した』ことです。これが、後々の災いの元になります。逆に言えば、『告げ口』されるようなことを、兄たちはしでかしていました。

▼後々の災いの元は、ヨセフが夢を見たことにあります。これをそのままに告げたことにあります。 
 考えてみれば、『告げ口』も、事実は事実です。つまり、ヨセフは本当のことを言ったがために、我が身に災いを招きます。
 これこそが、教会の現実ではないでしょうか。あるべき姿ではないでしょうか。
 教会は、神さまによって与えられた夢を、信仰を持たない人にとっては、夢・幻・幻想であろうとも、それをそのままに告げなくてはなりません。
 それが教会に不利益をもたらしても、です。
▼つい先日のことです。出版局の理事たちと話していました。お茶のみ話の話題は、当然ながら、台風・洪水被害のことと、安保改定のことになりました。
 誰かが言い出しました。昔、自衛隊を国土防衛隊、災害救助隊にすれば良いという議論があったね。災害救助隊ならば、海外派遣だってばんばん出来るのに。
 確かに、40~50年前には、そんなことが言われていました。空想的理想主義だ、幻想だと、退けられました。
 しかし、軍隊が、まして海外派兵が平和を守るということこそ、全くの幻想だということは、歴史が証明している筈です。
 例え、空想的理想主義だろうが、正しいことを言い続けるのが、教会の使命です。
 平和主義を正しいというのは、聖書的根拠があるからです。
 イザヤ書2章。
 『 4:主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
  国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。
 5:ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。』
 空想的理想主義だろうが、添うかも知れませんが、これが神の言葉です。

▼ヨセフはこの後、波瀾万丈などという言葉では言い表せない、不思議な、劇的な生涯を辿ります。そして、それは、そのまま、兄弟たちの未来に拘わってまいります。
 この物語は、ヨセフの死をもっても終わりません。ヨセフが神さまのみ恵みによって、エジプトの宰相にまで上り詰め、そのことで、ヨセフの兄弟たちは、飢饉をしのぎ生き延びることが出来ました。しかし、その後、ゴセンの地に定着した兄弟たちの子孫は、エジプトの奴隷とされます。
 その後も、物語は、延々と続き、やがては、ホロコースト、更にイスラエル共和国の建設にも繋がります。未だ終わりのない物語です。
 この物語を、あまりにも乱暴ですが、大雑把に言えば、「人間万事塞翁が馬」となるでしょう。或いは「禍福は糾える縄の如し」でしょう。
 しかし、それは幸運が不幸の原因となり、不幸が幸運の原因となるというような、表面的なことではありません。

▼聖書は、何処をとっても同じことが言えますでしょうが、神の御心を描いたものです。ヨセフの物語は、その局面局面に神の御心が働き、神の思いは、人間の思いを超えているということにあります。
 だから、その時々では、理解出来なくとも、受け入れ難くとも、信じて、日々を生きるということになります。
 これが、この単純なことが、結局、信仰者の生き方でしょう。それ以外にはありませんでしょう。

この記事のPDFはこちら