人を分け隔てするな

2015年9月27日聖霊降臨節第19主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。

ヤコブの手紙 2章1節〜9節

▼三浦綾子さんの『丘の上の邂逅』というエッセイ集に、こんな話が出て来ます。
 健康な医師や看護婦たちの中には、病人というものは、よほどの社会的地位のある人か金持ちでない限り、一人前の人間でないかのように扱う人もいた。この後に、具体的にその様子が描写されています。
 何も三浦綾子さんを持ち出す必要もなかったでしょう。しかし、当たり前過ぎる時には、このくらいの名前が必要です。
 誰もが知っています。誰もが体験しています。世の中には、えこひいきがあり、人の分け隔てがあります。
 誰もが知っていますし、誰もが体験していますから、具体例を挙げるまでもありませんでしょう。
 私自身も体験しています。その話をし始めたら、終わらないくらい沢山あります。夢中になって、一晩中だって話せます。愉快な話ではありませんから、まあ、止めておきましょう。

▼さて、ヤコブ書が取り上げているのは、分け隔てに対する反発ではありません。教会は、この世の中から分け隔てされている、差別的待遇を受けている、そういう話ではありません。教会を、分け隔てされる側に置いて、そこから発言しているのではありません。むしろ全く逆に、分け隔てする側に置いて、それを強い調子でたしなめているのです。
 私たちは分け隔てされることには、極めて敏感です。ほんのちょっとしたことだって、見逃すものではありません。許すものではありません。
 しかし、分け隔てすることについては、実に鈍感で、大抵、分け隔てしているという自覚がありません。また、この程度は仕方がないじゃないかと、正当化してしまいます。

▼ヤコブの時代、教会はローマ帝国内で飛躍的に伸張していましたが、しかし、容認されていた訳ではありません。迫害され、弾圧されていました。
 その時代環境下で、ヤコブは、分け隔てされる側ではなくて、分け隔てする側から、発言しています。これは、なかなか出来ることではありません。
 先日新聞で見た記事にありました。子どもたちの半分以上が、いじめを体験した、つまり、いじめられたと思っています。ところが、いじめた、いじめているという認識を持っている子供はあまりいません。
 いじめは大抵、一人二人が大勢をいじめるということはありません。逆で、大勢が、一人二人をいじめます。そうしますと、いじめられたと思っている子どもよりも、いじめた、いじめているという認識を持っている子供の方が圧倒的に多いはずです。しかし、アンケートによれば、いじめられたと思っている子は多く、いじめたという子は少ないのです。

▼分け隔ての具体例は必要ないと申しましたが、ヤコブ自身が取り上げていることについては、目を背けてはなりません。
 2~3節。
 『あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、
汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。
3:その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの
席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに
立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら』
 ヤコブの時代、ヤコブの教会には、こんなことが、実際にあったのでしょう。時代が時代ですから、少しも不思議ではありません。

▼NHKテレビで『ダウントン・アビー』というドラマを放映していました。第2次世界大戦前後のイギリス、貴族の館が舞台です。物語の筋書きは紹介する必要がありません。お話ししたいのは、イギリスの階級制度の現実です。信じられないくらいひどいものだ、インドのカーストと変わらないではないかとさえ言いたくなりました。
 そのことは、ディケンズを読んでも、コナン・ドイルやアガサ・クリスティーでも同じように描かれていて、まあ誰も否定出来ない現実だし、また、それを今日まで引きずっているようです。
 土地や富をごく一部の人が寡占しているという現実、今日でも同じ構造だそうです。民主主義の国イギリスは、実は厳しい階級制の存在する国です。
 そのことは、イギリスの教会にだって、全く当て嵌まります。教会に、有力な家族が座る家族席があります。

▼アメリカにまであります。白人と黒人が通う教会が別々だという現実も、私たちには理解出来ないというか、納得出来ませんが、白人教会の中でも、社会的な地位のある人と、そうではない人とで、通う教会が違ったり、同じ教会の中で席が分かれていたりするのです。
 そういうことが、日本では、私たちの教会では無いと言い切れるでしょうか。

▼逆に言いますと、2000年が経った今日でさえ克服できていない問題に、ヤコブは切り込んで発言しているのです。
 4節。
 『あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて
判断を下したことになるのではありませんか。』
 2~3節に指摘されているようなこと、要するに貧富の差や、身分の違いで人を分け隔てすることは、差別であり、『誤った考えに基づいて … の … 判断』だと、断定しています。

▼具体例は必要ないと申しましたが、このことだけお話しします。
 今教団の仮事務所が、新大久保に置かれています。歩いて10数分以内に、三つも公立図書館がありまして、私には大変便利です。一番近い大久保図書館は3分です。毎週1回は出掛けて電車の中で読む軽い本を借り出します。
 この頃気付いたのですが、入り口に大きな掲示板が出ています。そこにこのように記されています。お酒を飲んでいる人、悪臭のする人、極端に衣服が汚れている人、濡れている人の利用はお断りします。 
 明らかに、所謂路上生活者を排除するためです。大雨の日、酷暑の夏、極寒の冬、冷暖房のある図書館は、避難場所です。そこに入るなとの、看板が出ているのです。濡れている人の利用はお断りします、つまり、雨を凌ぐ家もなければ傘もない人は、図書館に入ってはならないのです。
 テーブル席には、立て札があります。ここは本を読むための席です。眠るための場所ではありません。
 確かにその通りです。また、看板に上げられたような人が多く出入りしたら、一般の人は敬遠するでしょう。図書館の機能を失うかも知れません。

▼しかし、秩序を保つとは、そういうことでしょうか。
 ディケンズが『オリバーツィスト』で、少年の浮浪者の姿を描いたことで、これが社会問題になりました。そこで、当時のイギリス政府は、この問題を解消する法律を制定しました。
 その法律とは、乞食を罪とする法律と、目的地を持たないで放浪することを罪とするものでした。要するに乞食と浮浪を禁止したのです。

▼差別、分け隔てが間違ったことだという根拠が、5節に上げられています。
 『わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちを
あえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、
受け継ぐ者となさったではありませんか』
 『神は世の貧しい人たちをあえて選んで』
 福音書を見ますと、その通りかと思います。最初の弟子たちはガリラヤの漁師でした。取税人も召されました。
 少なくとも、最初の弟子には、ユダヤ教やこの世のエリートは一人もいません。エリートと思われる人は、ユダヤ人の指導者ニコデモも、金持ちの青年も、熱心な若き律法学者も、何故か、退けられています。

▼しかし、私たちが今日、本当に注目すべきは、必ずしも、その点ではないと思います。イエスさまの最初の弟子たちはプロレタリアートだったというのが主眼ではありません。主眼は、『世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ』、ここです。
 『信仰に富ませ』とあります。
 『世の貧しい人たちをあえて選んで、 … 富ませ』ではありません。『信仰に富ませ』なのです。
 信仰なんか良いから、『世の貧しい人たちを、富ませ』、これではありません。貧困から救済したという話ではありません。

▼使徒言行録3章の、所謂麗しの門前の癒しを連想させられます。
 粗筋、以前の説教の抜き書きで申します。少し長くなります。
 ペテロとヨハネとが、足が不自由なために麗しの門前に置かれ、乞食をさせられている男の前で立ち止まり、「私たちを見なさい」と奇妙なことを言いました。乞食は、普段座って物乞いしていますから、他人の足下を見て過ごしています。この時普段と逆に、他人の足ではなく、顔にじっと注目しました。何か特別の施しに与ることが出来るのかと、期待したのかも知れません。
 ペテロは更に、奇妙なことを言います。「金銀は私には無い。しかし、私にあるものをあげよう」
 「なあんだ、お金じゃないのか」と乞食が思ったかどうか、そんなことまでは記されてはいません。
 ペテロが与えたものは、「キリストの名によって歩いている」という事実そのもののことでした。『ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。』という言葉が与えられると同時に、乞食は、『足とくるぶしとが、たちどころに強くなって』、自分の足で踊り上がって立ち、歩くことが出来るようになりました。

▼宮に詣でる多くの人々は、自分の持っている持ち物、即ち、金銀から、その一部を、乞食に恵んで上げました。ペテロとヨハネとは、同様に、自分の持ち物の中から、その一部を、乞食に分け与えてやりました。信仰を持ち物のように言うのは問題ですが、ここでは比喩として、受け止めていただきたいと思います。
 ここに記されていることを、大胆に要約すれば、つまり、多くの人々は、宮に参り信仰的に充実し、ついでに施しをして慈善心も満足させた。しかし、人々には、乞食に分けて上げられるような信仰の持ち合わせは無かった。「金銀は持っていないが。信仰を持っていたペテロとヨハネは、それを分けて上げることが出来た。」こういうことになります。

▼癒された男は、『踊りあがって』立ち上がります。その気持ちは、私たちにも容易に想像できます。
 ここでご注目いただきたいのは、この物語の隠された登場人物、第4の登場人物の事です。彼らは、生れつき足の不自由な男に、乞食をさせるために、というと表現が悪いので、言い換えれば、彼を経済的・社会的に自立させる助けとして、彼を、毎日、彼の職場である美しの門の前に連れて行って上げます。これは、もしかすると、彼の上がりを掠めるためではなくて、一種のボランティアなのかも知れません。しかし、彼らは、彼と共に礼拝を守る為のボランティアではありません。その必要があるとも気付いていません。
 私たちに、つまり、礼拝へと集められた者の共同体である私たちに求められていること、それは、一人でも多くの兄弟柿妹と共に礼拝を守ること以外にはないと考えます。

▼生れつき足が不自由なために、エルサレム神殿で行われる祭儀・礼拝から疎外されていたこの乞食も、健康な者と同じように、宮に参り、礼拝したかったのです。癒されて直ちにしたことが、礼拝だったということは、彼が、毎日毎日、このことを夢見ていた、適わぬ夢を見続けていたからに外なりません。
 乞食をさせるために、宮の前まで運んで来て、置いていく者はいても、宮の中まで連れて行ってくれる者はなかったのです。

▼ヤコブ書に戻ります。ヤコブは、このような貧しい人々に、
 『わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちを
あえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、
受け継ぐ者となさったではありませんか』
 そう言っているのです。 

▼『御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさった』
 『御自身を愛する者に約束された』は、一寸分かり難い表現です。
 日本語の響きでは、句点を何処に付けるかで解釈が変わります。『愛する者に約束された国』、つまり、イエスさまが愛する者なのか、『御自身を愛する者』、つまり、イエスさまを愛する者なのか、判然としません。
 語学では大事なことでしょうが、私はどちらでも良いように思います。どちらも本当だと思うからです。
 何れにしても、愛によってイエスさまと結ばれた者に、『約束された国を、受け継ぐ者となさった』、神の国が約束されています。

▼逆が6節です。逆、つまり、このような人は、『約束された国を、受け継ぐ者と』なり得ません。約束が取り消されるかも知れません。
 『だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、
あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くでは
ありませんか。』
 『あなたがたは、貧しい人を辱めた』このことによって、信仰的な価値観を否定し、この世の価値観に付いたということです。この世の価値観を選んだということです。

▼7節も同様です。
 『また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、
  冒涜しているではないですか。』
 『あの尊い名』、つまりキリストを『冒涜している』ような金持ちたちに阿っている、それは信仰の道ではないと言うのです。

▼8~9節、特に9節。
 『しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、
律法によって違犯者と断定されます。』
 人を分け隔てすること、差別することは、『「隣人を自分のように愛しなさ
い」という最も尊い律法』に違反していると言います。

▼最後に1節を読みます。
 『わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを
信じながら、人を分け隔てしてはなりません。』
 分け隔て・差別は道徳的に間違いだというのではありません。信仰と矛盾すると言っています。それは、既に述べたように、この世の価値観に、信仰が負けてしまうことだからです。

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