究極の配慮

2015年10月4日聖霊降臨節第20主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協
姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。

 それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。
 あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。

 キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

フィレモンへの手紙 1節〜25節

▼キリスト・イエスの囚人パウロ … 使徒パウロ、私たちはそう呼びます。パウロ自身がそのように自称することもあります。私たちプロテスタントの信仰には、聖人というような考え方はありませんが、しかし、パウロとかペトロとかと呼び捨てにするのには、抵抗を覚えます。
 その使徒パウロがここでは、自らを『囚人』と言っています。
 『囚人』、今は殆ど使われない言葉です。今では受刑者でしょう。しかし、元々の言葉の響き、少なくとも、使徒パウロの時代に、どんな印象だったかというと、『囚人』でも未だ弱いくらいでしょう。

▼勿論、ただの『囚人』ではありません。『キリスト・イエスの囚人』です。ギリシャ語の厳密な意味は兎も角、『キリスト・イエス』のために『囚人』になっているという意味であり、それ以上に、『囚人』として『囚人』のごとくに、『キリスト・イエス』に捕らえられているという意味です。
 『キリスト・イエス』から自由になる、『キリスト・イエス』から離れることが出来るなどということは、あり得ないという意味です。

▼そして、それ以上の強調点は、『オネシモのこと』にあります。オネシモは奴隷の身分にあります。そして、同時に10節には、『監禁中にもうけたわたしの子オネシモ』とあります。オネシモは信仰的にはパウロの子、だからパウロと同じ身分であり、パウロはオネシモと同じ身分、それこそが、『キリスト・イエスの囚人』という表現になります。
 まあ、このことは、後でまた触れます。ここでは、挨拶の言葉の内で、既にこのことに深く触れているということだけお話ししたいと思います。

▼『わたしたちの愛する協力者フィレモン』
 この人が、オネシモの主人に当たります。奴隷所有者と呼ぶ方がふさわしいでしょうか。ここで、奴隷制度について触れるのは、早過ぎます。
 もう少し先になります。

▼2~3節も、ただの社交辞令として聞いてはならない、重要な要素があるとは思いますが、時間に限りがありますので省略します。
 4~7節も、詳細に触れる暇はありませんが、省略は出来ません。
 ここで、使徒パウロは、おそらくはフィレモンが主催する集会のメンバー、おそらくはフィレモンの家の教会に集う人々の信仰を、高く評価しています。私たちの教会も、この評価が当て嵌まるような教会でありたいと願います。是非そうなりたいものです。
 『主イエスに対するあなたの信仰』、『聖なる者たち一同に対するあなたの愛』『キリストのためになされているすべての善いこと』『あなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました』『聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられた』。
 大事なことばかりです。私たちの教会も、この評価が当て嵌まるような教会でありたいと願います。是非そうなりたいものです。

▼しかし、この書簡を理解する上で重要なことは、8節以下にあります。 
 順に読みます。
 8~9節。
 『それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします』
 正直お願いだか強要だか分かりません。両方でしょうか。
 10節で、『監禁中にもうけたわたしの子オネシモ』と言うように、使徒パウロにとって、オネシモは信仰上の子どもです。フィレモンの家の教会に集う人々も同様です。
 このことを前提にして、お願いまた強要しています。

▼11節。
 『彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でした』。
 そんなことはないと、私は考えますが、パウロは、敢えてこのように言います。
 『が、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています』
 奴隷ですから、金銭的な財産でした。しかし、それをパウロは『役に立たない者でした』と言い、信仰を得た今のオネシモを『役立つ者となっています』と評価しています。
 ここは伏線です。敢えて解説しますと、信仰を得て『役立つ者となっ』た今のオネシモを、単に奴隷として扱い、元の『役に立たない者』に戻してしまうのかという理屈です。
 つまり、信仰的価値を重んじるのか、金銭的な価値を重んじるのかと、問を突きつけているのです。

▼12節。
 『わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します』
 これは、フィレモンの家の教会に集う人々に投げかけられたテストです。
 13~14節は、先程、お願いだか強要だか分からないと申しました、そのことです。
 パウロは決して、奴隷制という、今日の私たちには容認出来ない、しかし、当時の法を重んじて、それに甘んじたということではありません。
 むしろ、フィレモンの家の教会に集う人々に信仰的決断をさせるためですし、彼らの信仰的決断を信じてのことです。
 また、このことによってこそ、オネシモは、真に信仰の仲間、家の教会の家族として迎え入れられるのです。

▼単純に、「オネシモは信仰を得て、過去を悔いてもいるし赦して上げなさい。ついては、私の弟子として良い働きをしているから、このまま、手元に置いて置きたい」と言っても、フィレモンは納得したでしょうし、オネシモは自由を得たことでしょう。しかし、それでは、奴隷の身分、立場を引きずってしまうのです。
 一端、元の立場、元の場所に立ち帰ることによて、本当の自由を得ることが出来たのです。逃げたままでは、それは叶いません。

▼パウロは、更に飛躍したことを言っています。
 15節。
 『恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません』
 大胆な理屈です。
 『彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは』、大胆な理屈を細やかに叙述しています。いかにもパウロらしい所です。『逃げたのは』とは言っていません。『引き離されていたのは』、オネシモの逃亡という、当時の法に照らせば犯罪とされることを、暗に主の御心だと言っています。
 『引き離されていたのは』、『いつまでも自分のもとに置くためであった』、大胆な理屈です。大胆な信仰です。

▼大胆さは、16節に極まります。
 『その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです』
 送り返すから、逃亡奴隷としての罪は問わないで赦して上げてね、ではありません。
 『オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです』
 
▼過去はともかく、同じ信仰を与えられただから信仰の兄弟だ、この単純な理屈を受け入れられるか、それが問われています。
 信仰を重んじるのか、この世の習わし、身分、貧富、そういったものを重要視するのか、それが問われています。

▼17節。
 『わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください』
 同じ信仰を与えられたと言っても、パウロはパウロ、パウロさんなら、使徒だし、教養人だし、ローマの市民権さえ持っている、だから、『仲間と見なし』、同じ信仰を与えられたと言っても、オネシモはオネシモ、もともと奴隷、しかも逃亡した犯罪者だ、そういう理屈を、この当時としては常識を、パウロは否定しています。
 パウロが否定したのは奴隷制度ではありません。この当時の間違った倫理や法のことではありません。パウロが否定したのは、信仰の事柄を、当時の制度や倫理の下に置くことです。常識の下に置くことです。
 
▼18節。
 『彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、
  それはわたしの借りにしておいてください』
 他の機会にも、別の理由から申しました。同じことを言います。
 現在東京から京都まで往復したら幾ら費用が要るでしょう。ネットで調べたら、新幹線で2万6千円でした。もっと安く上がるかも知れません。日帰り出来ますから、他に費用は要りません。昼食代があれば充分です。
 江戸時代ならば、片道17~20日ですから、その間の旅籠代、食費もろもろ、往復では100万とは言わないまでも、その半分はかかったと思います。
 昔の旅行の方が、今日よりずっと費用が要ります。使徒パウロには何らか、大きな収入が有ったと思います。たまに行うテント作りでは絶対に無理です。
 オネシモは逃亡費用をどうしたのでしょう。堂々と宿には泊まれないから、野宿だったのかも知れません。食事はどうしたでしょう。やはり、無一文では無理だったと考えます。
 あくまでも推測ですが、主人であるヒィレモンから、お金を預けられて、支払い先に行く途中で持ち逃げしたのではないでしょうか。
 そのことが、11節の、
 『以前はあなたにとって役に立たない者でしたが』に反映されているのではないでしょうか。

▼19節。
 『わたしが自分で支払いましょう』
 パウロは、そんなことを承知しているようです。
 『わたしパウロが自筆で書いています』とは、この手紙自体が借金の証文になると言っているようです。

▼そして、20節。
 『あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう』
 使徒パウロを捕まえて人が悪いなどと言ったら、パウロを神格化しているカトリックの人は腹を立てるかも知れませんが、人が悪い、その表現が駄目なら、何とも、巧みな論理展開です。論理転換かも知れませんが。

▼20節。
 『そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください』
 ここで、再び論調を変えると申しますか、元に戻して、強要ではなくて、お願いしています。
 寛容になってとか、本当の正義とは何かなどという説得ではなくて、『あなたから喜ばせてもらいたい』『わたしの心を元気づけてください』と、お願いしています。勿論、聞き入れられると信じています。

▼21節。
 『あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています』
 つまり、この強要だろうが、お願いだろうが、パウロとフィレモンの絶対の信頼関係の中でのことなのです。
 ですから、
 『わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう』
 これを読んだフィレモンは、苦笑いではないでしょうか。「何も素直に言ってくれれば良いものを」そんな風に思ったのではないでしょうか。あくまでも、憶測で本当のことは分かりません。 
 もしかすると、このくらい周到な手を打たなくてはならなかったのかも知れません。

▼22節。
 『ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます』
 やっぱり、最初の推察の方が当たっているように思いますが、どうでしょう。
 『あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです』
 これは不思議な文章です。
 『そちらに行かせていただけるように希望しているからです』は、全く自然な文章です。
 しかし、『あなたがたの祈りによって』との結び付きに違和感を覚えます。
 『あなたがたの祈りによって、行かせていただけるように』なのでしょう。
 理屈を捏ねれば、他の方法によってではなく、『あなたがたの祈りによって』なのでしょう。

▼23節。
 『キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラス』
 ここは、学問的にも議論のある所ですが、今日の主題と重ねる必要はないように思います。却って混乱します。

▼24節の顔ぶれも大事でしょう。しかし、時間の関係で省略します。
 最後の、25節。
 『主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように』
 祝福です。極めて素朴な祝福の言葉です。
 しかし、『主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように』ではありません。『あなたがたの霊と共にあるように』となっています。
 ガラテヤ6章18節。
 『兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、
あなたがたの霊と共にあるように、アーメン』
 一方、
 Ⅱテサロニケ4章22節。
 『わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように』 パウロ書簡末尾の祝福に、この二通りがあります。その違いは、文法的にとかの次元ではないでしょう。
 答えも必要ないでしょう。
 ただ、『主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように』ではなく、『主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように』だということを、味わい、心で考えるべきでしょう。反芻すべきでしょう。

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