イエス・キリストの愛の心で
2015年10月11日聖霊降臨節第21主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)
キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
フィリピの信徒への手紙 1章1節〜11節
▼1節の後半を、先ずご覧下さい。
『すべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ』
『監督たちと奉仕者たち』については、聖書によって若干翻訳が違います。執事と訳されたり、中には世話役もあります。それが、今日の職制と申しますか、牧師、役員とどう重なるのかということについて、関心のある方はありますでしょうが、今日の主題とは直接の関係はありません。
一方、『聖なる者たち』これは、どの聖書でもほぼ変わりません。『聖なる者たち』です。勿論、『聖人』ではなく、敢えて言えば、今日の『聖徒』でしょうか。
細かいことは別として、ヒィリピの教会員を、『聖なる者たち』と呼び、その中でも指導的立場にある人たちに語りかけています。
▼語りかけているのは、『パウロとテモテ』、まあ使徒パウロです。そのパウロは、『キリスト・イエスの僕』と自ら、名乗っています。
先週読んだヒィレモン書では、『キリスト・イエスの囚人』でした。
パウロは、『キリスト・イエスの僕』『キリスト・イエスの囚人』と、かたや『聖なる者たち』なんという違いでしょう。
古くは「貴殿」と「拙者」、「あなた様」と「手前ども」、そういう、殆ど意味のない謙譲。むしろ卑下でしょうか。儀礼的といえば儀礼的です。それだけのことでしょうか。
▼もう一度比較して見ます。
『キリスト・イエスの僕』と、『すべての聖なる者たち』、これなら完全にコントラストです。しかし、実際には、『キリスト・イエスの僕』と、『キリスト・イエスに結ばれている、すべての聖なる者たち』です。
『キリスト・イエスに結ばれている』なのです。
ギリシャ語の原文や、英語の聖書を直訳すれば、『~にある』に過ぎません。
口語訳でも『キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち』です。
新共同訳は『キリスト・イエスに結ばれている』と訳しています。どんな原典・写本に基づいてなのかは分かりません。多分、口語訳と同じだと思います。英語で言えばinに過ぎません。
しかし、私は新共同訳こそが、元々の意図を伝えているように思います。
▼つまり、『キリスト・イエスの僕』と、『キリスト・イエスに結ばれている、すべての聖なる者たち』どちらも、『キリスト・イエス』に結び付けられ、繋がれているのです。そこにこそ、この挨拶文の、単なる挨拶文を超えたメッセージがあるのではないでしょうか。『~にある』という訳でも、詰まるところは同じです。
▼以前に何度もお話ししていますが、最近教会に見えるようになった方も少なくないので、繰り返して申します。
『聖なる者』そもそも『聖なる』、分かったようで解らない言葉です。来月1日の『聖徒の日』についても、くすぐったくなる、嫌だと言う人があります。それでも、死後のことだから良いけれども、生きている内に『聖なる者』なんて呼ばれたらたまらない、そんな風に言う人もあります。
私の個人的見解を申しますと、然りにして、同時に否です。くすぐったくなる、嫌だと言う気持ちはよくよく理解出来ます。同感ですと言っても良いでしょう。しかし、洗礼を受けたキリスト者は、やはり、聖徒です。これを全く否定することは、贖いと救いの信仰そのものを否定することにもなりかねません。
▼そこで、私流の説明となります。一つの比喩として受け止めていただきたいと思います。磁石を思い浮かべて下さい。強力な磁石は、鉄の釘を何本も引きつけます。この鉄釘自体が、磁石の効果を持ち、他の釘を引きつけます。それでは釘が磁石になったかというと、そうではありません。この釘が元の磁石から離れた瞬間に、唯の鉄釘に戻ってしまいます。厳密に言えば、数秒間磁石の高価が残る場合もあります。
『キリスト・イエスに結ばれている、すべての聖なる者たち』とは、こういう状態を説明しているのではないでしょうか。
『キリスト・イエスにある』という訳も、結局は同じだと考えます。
私たちも、『キリスト・イエスに結ばれている』時に、『聖なる者』であり、『キリスト・イエス』から離れたら、『聖なる者』ではありません。
▼7節に飛びます。
『わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。
というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、
あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、
心に留めているからです』
『監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも』
使徒パウロは、この時、獄中にありました。このことが、捕らわれ投獄されたこともそうですが、福音宣教の挫折が、フィリピの教会員を躓かせ、迷わせたと思われます。
▼だからこそ、パウロは、『監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、共に恵みにあずかる』と、どんな状況下でも、福音宣教の業は続いていること、決して挫折していないと言いたいのではないでしょうか。
苦労を共にする同労者とか、戦友とかいろんな言い方が出来ますでしょうが、使徒パウロがここで選んだのは、『共に恵みにあずかる者』という表現でした。
その通りです。目下の状況はどんなに厳しくても、『共に恵みにあずかる者』として、理解し合い、支え合うことが出来るのです。
このことは、私たちの教会にも全く当て嵌まることだし、当て嵌まらないようではおかしいのです。
▼私たちの教会には、今、いろいろと厳しい状況があります。私たちの教会には、と言いますのは、玉川教会のことであり、日本基督教団のことです。
しかし、私たちは、目下の状況はどんなに厳しくても、『共に恵みにあずかる者』として、理解し合い、支え合うことが出来るのです。『共に恵みにあずかる者』だからです。他に根拠はなくとも、見通しはなくとも。
▼2節に戻ります。
『わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、
あなたがたにあるように』
使徒パウロが置かれていた状況、フィリピの人々の挫折を前提に読めば、これは単なる挨拶文、儀礼的なものではありません。
今、この状況だからこそ、『キリストからの恵みと平和』を祈願するのだし、それが与えられることを、与えられていることを、確かめるのです。
私たち玉川教会の状況も同様です。『恵みと平和』を祈願し、それが与えられることを、与えられていることを、確かめるのです。
▼3~4節。
『わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、
4:あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています』。
何でもないことのようですが、これは実際には容易なことではありません。
『~のことを思い起こす度に』、絶望的な気持ちになり、とても感謝など出来ないし、『祈る度に、いつも』、悲しみに覆われ、その気持ちのために祈りを妨げられ、祈りを止めて、沈み込むのが、私たちの現実ではないでしょうか。
▼偉い哲学者が、真摯に世を見詰め、自分を見詰めるならば、感謝の気持ちなど持つことが出来ないし、にも拘わらず、敬虔で感謝に生きると言うのは、理屈として破綻していると主張し、かなりの紙数を費やして、敬虔主義を論駁しています。
確かに、この時代に敬虔、感謝に生きることは困難です。不可能かも知れません。可能だと言う人は、現実を見ていないか、気持ちをごまかしているだけかも知れません。
▼しかし、その困難なことが使徒パウロには可能です。その根拠が5~7節に上げられています。
5節。
『それは、あなたがたが最初の日から今日まで、
福音にあずかっているからです』。
これが、使徒パウロが感謝出来る第一の根拠です。
『最初の日から今日まで、福音にあずかっている』これが根拠です。
『福音にあずかっている』結果、日々健やかで万事順調などとは何処にも書いてありません。
病の中でも、苦難の中でも、命の危険を覚える程の迫害が迫っていても、『福音にあずかっている』ことで、感謝出来るのです。
▼『あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日
までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています』。
この6節が、パウロの感謝の第2の根拠です。確信です。自分たちには出来ないことも、『キリスト・イエスの日』には、それが成就するという確信です。
確信があれば感謝出来るでしょう。誰だってそうです。しかし、その確信がないから不安で、その結果、互いにいがみ合っているのが、私たちの現実です。私たちの心の中には、確信がありません。
その確信は、『あなたがたの中で善い業を始められた方』の中にあります。そこにしかありません。
確信とは、自信ではありません。信頼であり、信仰なのです。
▼7節。改めて読みます。
『わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。
というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、
あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、
心に留めているからです』。
『監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも』
決して順風満帆な時のことではありません。むしろ、危機的な時です。そんな時にも、『あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って』、これも、私は辛い時を送っているけれども、しかし、私の愛する者は今幸福でいるから、それを思えば慰められるということではありません。
『共に恵みにあずかる』ことの確信であり、その希望故の慰めなのです。
▼『キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことを
どれほど思っているか』
『キリスト・イエスの愛の心で』とは、具体的にはどんな愛のことでしょうか。いろんなことが想像されますし、まあ、恋愛感情だとか、途轍もない勘違いをする人は少ないでしょう。長い教会の歴史の中には、見当違いもあったようですが。
いろんなことが上げられるし、その一つ一つは間違いではないと思います。
しかし、約めて言えば、十字架の愛です。自己犠牲を覚悟した愛です。
まあ、何しろヒィリピですから、2章を上げるのが良いでしょう。
『6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに
固執しようとは思わず、
7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、
8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。』
▼『キリスト・イエスの愛の心で』。
他の感情のことではありません。そのことは、9節以下にも当て嵌まります。
『わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、
あなたがたの愛がますます豊かになり』
10節。
『本当に重要なことを見分けられるように』。
『本当に重要なことを見分けられるように』。
ここが肝心だと思います。
本当には重要ではないことのために、心が惑わされ、捕らえられ、結果、大事なものを脇に追いやってしまう、それが私たちの罪の現実です。
▼『本当に重要なこと』とは何か、贖い、救いです。それ以外にはありません。もっと簡単に言えば、天国に入れられることです。それが『本当に重要なこと』であって、他には、これほど重要なことはありません。
しかし、他の些末とも言えることで、分かれ争うのが、私たちの罪の現実です。
クリスマスの料理を巡って婦人会が真っ二つ、そんな経験もしました。
会堂建築の是非を巡って議論したこともありました。会堂建築ですから、些末な議論とは言えませんでしょう。しかし、天国に入れられるかどうかという『本当に重要なこと』の前では、会堂建築とて最重要なことではありません。
▼10節。
『そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり』
ここも、『清い者、とがめられるところのない者』というような表現には抵抗を覚える方もあろうかと思います。
しかし、これと、1節の
『すべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ』とが重なります。
キリスト者は実に、『清い者、とがめられるところのない者』であり、『聖なる者』なのです。他の人が聞いたら、何を偉そうにと言うかも知れません。
だかにクリスチャンは嫌いだと言うかも知れません。
▼しかし、11節。
『イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて』、この故に、全くこの故だけに、私たちは義とされた者です。『イエス・キリストによって与えられる義』
つまり、イエス・キリストの十字架の死によって、贖い出され、救われたからです。
私たちの才能や努力の結果ではありません。ですから、『清い者、とがめられるところのない者』、『聖なる者』を自負することは、自信や思い上がりではありません。
十字架の上で死なれた方への信仰です。
▼『神の栄光と誉れとをたたえることができるように』
贖い出され、救われたからには、私たちは、『神の栄光と誉れとをたたえること』に、全力を上げます。
私たちの礼拝はそうしたものです。礼拝の目的は、『神の栄光と誉れとをたたえること』です。
礼拝に何かしら他のことを期待するならば、それは、『本当に重要なことを見分けられ』ないことであり、誘惑に陥ることに繋がるでしょう。