走り抜こう

2015年10月18日聖霊降臨節第22主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。
 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

ヘブライ信徒への手紙 11章32節〜12章2節

▼最近読んだ本の一節です。
 ラグビーの日本代表、いわゆる平尾ジャパンは、環太平洋選手権大会で優勝しそうな勢いである。格上の相手をすでに連覇している。その理由は、勿論チーム力の向上にもあるが、外国の有力選手の加入が大きい。日本に滞在三年以上の実績があれば、メンバーに加わることが出来るようになった。チーム力は格段に向上したのである。

▼ラグビーと聞いて、興味を覚えた人と、何だ、教会に来てまでラグビーの話かうんざりだと、ひいた人があろうかと思います。私などは後者で、テレビをつければラグビーで、いい加減にしてよとしらけてしまいます。
 にわかラグビー・フアンが増えて、一大ブームの様相です。これまではマイナーな印象で、私などは詳しいルールが分かりません。しかし、スポーツ全般が好きですから、最低限のことは知っています。
 そもそも一昔前には、私の郷里の秋田こそ、ラグビー王国と言われました。秋田工業高校の、全国大会優勝回数、出場回数は、未だに破られていないと思います。
 と原稿を書いたところで気になって調べましたら、秋田工業高校の優勝回数は15回、2位が啓光学園の7回ですから、断然1位でした。

▼先日入ったラーメン屋さんで、向かいの席のサラリーマン風の三人が、にわかラグビー評論をしています。ところが、どうも彼らは満足にゲームについても、大会ルールについても知らないようなのです。
 間違った蘊蓄を延々と聞かされたのには、まいってしまいました。

▼それなのに何故、ラグビーの話をしているのでしょう。
 最近出会った素晴らしい本、エッセイ集に、冒頭に取り上げた一文が載っていたからです。「平尾ジャパン」というのは、随分古い感じがします。「松尾」と「平尾」とどっちが先だったかしら、「大八木」はとか、私にはその程度の知識しかありません。
 しかし、このエッセイに記されたことは、まるで、今、ラグビーブームの最中に記されたかのようです。11年前に出た本、執筆は15年ほど前なのですが、不思議なことです。
 そう言えば、著者は、日本は15年周期で、大きく変化するということも、同じ本の中で書いています。
 本そのものについては、マナの文庫に置きますのでご覧下さい。井上良彦著『カナンの風』です。

▼私たちにとっては、にわかラグビーブームです。しかし、実際にプレイをしている人びとにとっては、にわかなんてとんでもない、世間の評価がどうあれ、ずっと、地道に続けられて来たことなのです。ちょっと評判になったこともありました。新日鉄釜石が強かった時代とか、早慶戦や早明戦がニュースになったこともありました。しかし、忘れられたかのような時もありました。そんな中で、一途に打ち込んできた人びとがいたということ、ラグビーの歴史は続いていたということ、これだけが確かなことです。

▼今年の正月は、日本基督教団内でも駅伝が大きな話題でした。箱根で青山学院が優勝するという画期的なことが起こりました。駅伝こそそうですが、他人の評価がどうであれ、ひたすらに走り続けてきた人がいました。
 『ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、
約束されたものを手に入れませんでした』
 紙数の関係でここに記すことは困難ですが、ヘブライ書11章に、長いイスラエルの歴史の中で、ひたすらに神さまの道を走り続けて来た人びとのことに触れられています。その一人ひとりが、イスラエルの英雄です。
 しかし、彼らは『約束されたものを手に入れませんでした』と、著者は言い切ります。

▼ゴールに辿り着いたのは、栄冠を手に入れたのは、私たちだと、これも
 『神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、
わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです』。
 イエスさまの十字架の出来事だけが、これを可能にしたと、著者は言い切ります。

▼『こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の
群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、
自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか』
 『証人』であって、応援団ではありませんが、しかし、先にこの道を走った者こそが、応援団かも知れません。
 走り続ける、走り抜く、これしか、ゴールに辿り着く方法はありません。

▼『信仰の創始者また完成者であるイエス』。興味深い表現です。ヨハネ黙示録中に、三度も、『わたしはアルファであり、オメガである』と記されています。『信仰の創始者また完成者』も、意味は全く同じです。
 『アルファであり、オメガである』その方は、『御自身の前にある喜びを捨て』、まるでランナーのようです。横目を振らずに、前を見詰め、走り続けるのが、競争者です。
 『恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び』、他人の評価に左右されたりしません。
 『神の玉座の右にお座りになったのです』
 ゴールされ、そこから、私たちを招いていて下さるのです。

▼話を一番最初に戻して、聖書を読みます。
 32~38節については、著者が言うように、ここに名前が上げられた人、『たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう』。旧約聖書の物語や歴史書の中で、紙数を割いて記されています。その物語、出来事が、32~38節に要約されています。随分と大胆な要約です。

▼大胆なのは、要約だけではありません。その結論部こそが、随分と大胆な断言になっています。
 39節。
 『ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした』
 そんな風に言い切って良いのだろうかと、戸惑う程です。
 『この人たちはすべて』とは、32~38節に上げられた名前に限りません。11章では、エノク、ノア、アブラハム、イサクにも言及しいてます。彼らも含めて、『この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、  約束されたものを手に入れませんでした』と言われているのです。
 
▼その補足的説明が、40節です。
 『神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、
わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです』。
 何だか難しい表現です。大胆に断定しているヘブライ書ですから、私たちも大胆さをもって、受け止めなければなりません。
 要は、11章に上げられたような、模範とも言える信仰者たちは、救いの道をひたすらに走ったけれども、しかし、ゴールすることはなかった、ゴールするのは私たちだと言うのです。

▼『更にまさったもの』『更にまさった … 計画』とは、イエスさまの十字架の出来事に他なりません。このゴールを見、そこに辿り着くのは、私たちだと言うのです。
 ここで、38節の後半をご覧下さい。
 『世は彼らにふさわしくなかったのです』。
 強調されていることは、彼ら、信仰者たちは、旅人だったということです。むしろ、神の国を目指して走り続けたランナーだったということです。
 
▼使徒パウロの書簡には、スポーツに準えて信仰の道を語る場面が少なくありません。パウロは、スポーツ好きだったのでしょうか。比喩に語るくらいですから、嫌いではないと思います。
 スポーツが好きな僕は多いようです。年配の牧師はどうしても野球です。先程上げた本の著者、井上良彦牧師は、金沢の牧師時代、ある高校の野球部監督を務めて今した。残念ながら、甲子園には到達しませんでしたが。

▼松江北堀教会にいる時分ですから、もう20年近く昔のことになります。当時の教団議長・小島誠志先生から、小包で、本が2冊送られて来ました。先生の近著かと思って開いてみたら、これが何と野球の本で、それも『くたばれジャイアンツ』、もう一冊もその類でした。熱烈な広島カープフアンです。
 その次の議長は、山北宣久牧師、この人は、所謂とらきち、阪神タイガースが優勝した時は、特別感謝献金をしたそうです。今の石橋秀雄議長は、日本ハムファイターズです。石橋先生の顔を見れば、前夜ファイターズが勝ったか負けたか分かると言われいます。

▼少し若い牧師になるとサッカー、これからは、ラグビー好きが増えるかも知れません。
 さて脱線しました。
 スポーツの話ではありません。しかし、パウロが信仰の道をスポーツに喩えるのには、矢張りの意味があります。
 それは、一番最初に申し上げたことと同じことかも知れません。スポーツの大半は、練習です。練習、鍛錬に費やす時間を考えれば、試合は一瞬でしかありません。
 信仰生活も同様です。

▼何も練習しないで、試合に出るスポーツ選手はいません。信仰生活だって同じことであります。
 それは、月曜日から土曜日の生活の上に、その延長に日曜日の礼拝があるという意味でもあります。
 とてもそれは、無理だ、月曜日から土曜日までは、仕事や家庭のことで精一杯だ、そういう方が多いでしょう。何も、月曜日から土曜日まで、ずっと祈っていなさい、ということではありません。
 しかし、月曜日から土曜日の生活の上に、その延長に日曜日の礼拝があります。それと切り離されたところに、礼拝があるのではありません。
 やはり、日常の生活こそが、信仰の鍛錬の場であり、そして、その結果を礼拝の場に持ち寄るのだと考えます。

▼比喩の限界はありますが、日常の生活の成果を、日曜日、神さまにご覧頂くのが、礼拝でしょう。成果、実が成ると書きます。信仰の実を、神さまに献げるのが礼拝です。

▼もう一つ強調したいことがあります。
 これも既に申し上げたことと重なります。
 もう一度繰り返します。
 私たちにとっては、にわかラグビーブームです。しかし、実際にプレイをしている人びとにとっては、にわかなんてとんでもない、世間の評価がどうあれ、ずっと、地道に続けられて来たことなのです。ちょっと評判になったこともありました。しかし、忘れられたかのような時もありました。そんな中で、一途に打ち込んできた人びとがいたということ、ラグビーの歴史は続いていたということ、これだけが確かなことです。
 このことと、私たちの信仰生活と、同じことでしょう。

▼私たちの信仰生活も、日々の練習あり、試合あり、そして、結果があります。結果とは、実を結ぶことです。
 どんな実を結ぶのでしょうか。どんな花が咲くのでしょうか。

▼さて私はいろんなスポーツを観戦します。大好きです。真夏、炎天下を走るランナーをテレビで見ながら、ビールを頂くと最高です。しかし、時分でプレイすることはありません。できません。
 ですから、せいぜい贔屓にするチームや選手の勝利を和が喜びとするだけです。勿論、時分では何の賞も頂くことはできません。
 信仰生活では、観戦者担っては行けません。天国に入ることは出来ません。

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