永遠の生命を得るため

2015年11月1日聖徒の日・永眠者記念礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

ヨハネによる福音書 3章13〜21節

▼先ず、18節をご覧下さい。
 『御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。
神の独り子の名を信じていないからである』
 『信じない者は既に裁かれている』
 信じない者は必ず裁きに遭う、ではありません。或いは信じない者は、遠からず裁きに遭う、でもありません。『信じない者は既に裁かれている』と記されています。
 『信じない者は既に裁かれている』、実は、彼は外見では分からないが不治の病に冒されているとか、彼のお店は繁盛しているように見えるが、もう倒産寸前だとか、そういうことではありません。
信じない、信じられないということこそが、裁きの結果だと言うのです。刑罰だと言うのです。

▼未だ分かり難いかも知れません。同じような図式が、マタイ福音書にもありますので、読みます。
 6章5節。
 『「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。
 偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。
はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。』
 ここは以前に礼拝で読みましたので、結論部だけを簡単に申します。
 『彼らは既に報いを受けている』の『報い』は、直訳すればボーナスです。偽善者にボーナスとは奇異な感じがします。
 こういう意味です。彼らは、『人に見てもらおうと』して、人びとから賞賛を得ようとして祈ります。結果、人びとの賞賛を得ました。そのことで、もう十分な報酬を貰った、それ以上は貰えない。神さまに向かって祈ったのではないから、神さまには聞き届けて貰えない。こういう意味です。
 『信じない者は既に裁かれている』と、図式は全く同じです。

▼19節は、その説明になっています。
 『光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。
  それが、もう裁きになっている』
 『それが、もう裁きになっている』これと、『信じない者は既に裁かれている』とは、全く同じ意味を持ちます。

▼例えば、愛することを知らない人がいたとします。愛がないような生き方をしていたら、何時か報いを受けるという話ではありません。愛を感じることが出来ないということ自体が、一人の人間として、こんなに不幸なことはないのです。
 ミッチ・アボットの『モリー先生との火曜日』に、こんな言葉があります。
 「互いに愛せよ、さもなくば滅びるのみ」
 明らかに、3章16節を意識しています。どちらの3章16節か、両方かも知れません。この『モリー先生との火曜日』について縷々お話ししたい誘惑に駈られますが、まあ、止めておきます。素晴らしい本です。ノンフィクションで、数々のベストセラーを著しているミッチ・アボットの最初の作品です。

▼人生に喜びは色々とあるでしょう。しかし、その中で、他のものに代え難い程に、尊く、喜ばしいものが愛です。
 それが恋愛であれ、友情であれ、家族のものであれ、人を愛し、愛されるためにこそ、人は生きるのです。
 ですから、愛を知らなければ、そもそも、生きていることの意味がありません。だから、愛を知らない者は、人生の最も素晴らしいことを知らないのであり、その人生はむなしい。既に、その報いを受けてしまっている。裁き・刑罰に遭ってしまっているのです。
 それが、『信じない者は既に裁かれている』そして『それが、もう裁きになっている』ということの意味です。
 
▼19節をもう少し見ます。
 『光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。
それが、もう裁きになっている』
 ここでは愛ではなくて、光という言葉で表現されています。しかし、図式は全く同じです。
 光よりも闇の方を好むような人間が、実際に存在します。『その行いが悪いので』闇の方を好むのか、『光よりも闇の方を好』むから、『その行いが悪い』のか、どちらにしましても、この人は、光を避け、闇を歩むことで、既に裁かれているのです。

▼20節を見ます。
 『悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、
光の方に来ないからである』
 ここでは、『光を憎』むから、『悪を行う』のではなくて、『悪を行う』から、『光を憎』むと考えられているようです。
 これを愛と憎しみに置き換えたら、ちょっと面白いと考えます。
 愛することが出来ないから憎むのではなくて、憎むから愛することが出来ない、そういうことのようです。
 心の中に、憎しみを育ててしまうと、愛が損なわれてしまうのです。

▼10年以上前ですが、『鬼切り丸』という漫画が大ヒットしたことがありました。ストーリーという程のことはありません。要は、人の心の中に芽生えた嫉妬や憎しみが、その人を鬼に変えてしまいます。それを、鬼の屍から誕生した主人公の少年が、『鬼切り丸』という妖刀で斬るという話です。これが大いに受け入れられたのは、矢張り、誰もが、人の心の中に、自分の心の中に、鬼が潜んでいるということを知っているからではないでしょうか。自覚しているからではないでしょうか。
 自分の感情に任せて、この鬼に栄養を与えてしまうと、鬼が誕生してしまうのです。腹を食い破って、外に出て来ます。
 
▼16節に戻ります。
 『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』
 前半は、『独り子をお与えになった』こと、つまり、十字架を言い表しています。
 神がこの世界を愛されていること、その愛が、どんなに強いものであるかを表現しています。神さまの本質は愛です。神の愛が、具体的な形として私たちに示されたのが、御子の誕生・クリスマスであり、そしてまた十字架です。
 そして、後半では、『独り子をお与えになった』、つまり、十字架の具体的な目的を言い表しています。
 その目的とは、『独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』このように言われています。

▼全部約めて言えば、主の十字架の死は、私たちキリスト者に永遠の命を与えるためであるということになります。
 ここでも、先程から繰り返されている論法が当て嵌まります。
 つまり、主の十字架の死を見上げて、神の愛を感じ取り、十字架の立つ場所へと、一歩、歩みを進めた者が、十字架の愛に生きることが許されます。十字架の死へと歩み出した者が、命を与えられるのです。
 主の十字架の死を見上げても、そこに、愛を、命を感じ取るのではなく、滅びを絶望を感じ取る者は、そのことによって、既に裁かれているのです。

▼主の十字架の死を見上げ、十字架の死へと歩み出した者が、何故、そこに死や滅びや絶望を見出すのではなくて、愛を、そして命を見出すのかということは、聖書の持つ逆説の世界です。
 この逆説の上にこそ、十字架が立っています。

▼18節から先に読みました。そのためもあって、裁きについてお話ししているという印象を与えているかと思います。
 確かに、信じないことが既に裁きであり、愛を持たないことが既に裁きであると記されています。
 しかし、究極、この箇所は、神の愛について述べています。

▼3章16節を見ます。
 『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』
 ここで、ヨハネの第一の手紙3章16節を引用します。
 『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました。
  だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』
 ヨハネ福音書とヨハネの第1の手紙の、同じ3章16節に、内容的に相通ずることが記されています。偶然と言えばそれまでかも知れませんが、ここに大きな意味を読み取る人は少なくありません。
 この二つの3章16節に、イエスさまの福音が、新約聖書そのものが凝縮されていると言う人もあります。その通りかも知れません。
 凝縮されていると言うのは、神さまの愛が凝縮されているということでしょう。

▼17節。
 『神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである』
 神さまの裁きが語られていること、それは否定しようもありません。しかし、その裁きさえも、実は、『世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである』、こういうことでしょう。

▼そういう観点で、もう一度18節を読みます。
 『御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。
神の独り子の名を信じていないからである』
 『信じない者は既に裁かれている』
 だからこそ、救いに目を向けなければなりません。十字架に目を向けなければなりません。『神の独り子の名を信じ』る者にならなければなりません。
 それが、イエスさまの宣教の目的であり、イエスさまから宣教の使命を与えられている私たちにとっても、そうです。
 それは、愛を知らない者に愛を教えることにも似ています。大変に困難なことです。

▼さて、本日与えられた聖書日課は、13節以降でした。
 13~14節については、細かい説明をすれば却って分かり難くなりそうですので、これは、イエスさまの十字架の出来事を指しているという結論だけ申し上げます。
 そして、15節。
 『それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである』
 16節と同じです。15・16節と、同じことを繰り返しています。ここが、無一番肝心な点だから繰り返し述べています。
 厳しい裁きが語られているようですが、その裁きの言葉も含めて、『信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである』。これは、人間の救いの可能性を語っています。
 これがイエスさまの宣教のそして十字架の死の意味です。イエスさまは、『信じる者が皆、永遠の命を得るため』にと、教えられ、そして十字架に死なれたのです。

▼最後に、3章21節。
 『しかし、真理を行う者は光の方に来る。
その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために』
 『真理を行う者は光の方に来る』、これは誘いの言葉です。『光の方に来る』ように、救いの道に入れられるように、愛を知るように、神を知るように、との誘いの言葉なのです。
 十字架の死の出来事が起こった所は、普通の人にとっては、死、滅びが支配する闇に繋がる場所です。
 しかし、信仰者にとっては、愛の光、復活の希望、永遠の命が生み出される所です。先に召されて神の国にある方々も、神の愛と光と聖霊に包まれているのです。

▼人間一人の死とは、普通に考えれば、その人の人生から光が失われることでしょう。しかし、イエスさまの十字架の死は、そのことによって、神さまの愛、光をもたらした出来事です。
 それが、ヨハネ福音書3章16節であり、また、ヨハネの第一の手紙3章16節です。
 もう一度読みます。
 『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』
 『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました。
  だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』

▼今日、礼拝の初めの方で、日本基督教団信仰告白を唱和しました。その中に、『我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す。』とあります。
 『代々の聖徒』、それはキリスト教会の2000年の歴史に繋がる方々のことですが、当然も、先に召された玉川教会員104名が、これに数えられます。この礼拝は、故人の追悼礼拝ではありません。
 そうではなくて、『代々の聖徒と共に』守る礼拝です。ヨハネ福音書3章16節であり、また、ヨハネの第一の手紙3章16節の言葉を信じて、この世の生涯を走り終えた方々と、共に守る礼拝です。この世の生涯を走り終えた時に、闇に沈むのではなく、光に歩むのだと信じて、神の国へと向かった方々と共に守る礼拝です。
 

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