父の家を離れて

2015年11月8日降誕前第7主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

主はアブラムに言われた。
 「あなたは生まれ故郷
 父の家を離れて
 わたしが示す地に行きなさい。
 わたしはあなたを大いなる国民にし
 あなたを祝福し、あなたの名を高める
 祝福の源となるように。
 あなたを祝福する人をわたしは祝福し
 あなたを呪う者をわたしは呪う。
 地上の氏族はすべて
 あなたによって祝福に入る。」
 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
 主はアブラムに現れて、言われた。
 「あなたの子孫にこの土地を与える。」
アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。

創世記 12章1節〜9節

▼私の初孫が、生後半年を過ぎたあたりから、少しずつ離乳食を取り始めました。コンビニにまでも、沢山の種類の離乳食缶詰やら瓶詰め、更にレトルト離乳食が置かれているそうです。昔はそんな便利なものはありませんから、それぞれの家庭で工夫して作っていました。柔らかめに煮たり、すり鉢ですり下ろしたりしたものです。しかし、結局は大人と同じものを、少量いただくことになります。時にはなめるだけのこともあります。
 逆に、離乳食を試食して見ましたが、とてもとても、味気が足りないというのか、食べられたものではありません。

▼今日は教会学校との合同礼拝です。讃美歌は全曲、こどもさんびかと共通しいてるものを選びました。献金係りも子どもたちが努めます。
 肝心の聖書箇所と説教ですが、大人向けのままです。少々言葉使いを工夫する程度で、読み方、話の筋は、普段の礼拝と変わりません。
 子どもたちには、大人の味を味わって貰いたいと願っています。部分的にかじるだけでも良いし、舐めるだけでもかまいません。
 礼拝そのものについても同様です。大人向けのままです。大人の味を味わって貰いたいと願っています。部分的にかじるだけでも良いし、舐めるだけでもかまいません。
 子どもの健康に良くない強い香辛料に当たるような事柄は、省略します。

▼さて、この物語を読んで感じたことですが、この出来事は、あまりにも、唐突に起こりました。
 初めてこの箇所を読んだ人なら、1節を読んで、その前の11章をめくって見なくてはという気持ちになるのではないでしょうか。めくって見て下さい。何も記されていません。
 アブラムと神さまとの間に、12章より前に何があったのでしょうか。何かがなければ不自然です。しかし、何もありません。どんなに読み直しても、何もありません。
 11章にはバベルの塔の出来事と、後は系図が載っているだけです。もっと遡って10章より前には、ノアの洪水の物語が記されています。
 つまり、アブラムと神さまとの間に、12章より前に何もありません。少なくとも、何も記されていません。

▼それなのに、1節。
 『主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて
/わたしが示す地に行きなさい。』
 いきなりです。何の予告もなく、事前の準備もなく、全く突然に、『あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい』との言葉が与えられたのです。

▼このことは、4年前に同じ箇所を読んだ時にも申しましたが、どうしても同じことを言わなくてはなりません。
 福音書の弟子の召命との類似性です。
 マルコ福音書1章17~18節。
 『イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」
  と言われた。18:二人はすぐに網を捨てて従った。』
 ここには、イエスさまがペトロを選んだ理由も、ペトロがそれに答えた理由にも、心の思いにも、何一つ触れられていません。

▼実は、ペトロの場合、ルカ福音書によりますと、4章で先ずペトロの姑の癒やしの出来事があり、そして、5章でペトロの召命となります。マルコには、姑の癒やしの出来事は記されていません。
 マルコ福音書は、単純に、アブラムの出来事と重ねて描き、ルカ福音書は、何も前提がないのはおかしいと考えて、前段の物語を加えたのでしょうか。
 まあ、当人に聞かなくては分かりません。ただ、二人共に、創世記12章を強く意識しての描写だとは思います。

▼『人間をとる漁師にしよう』の記事については、結論的にこのように言いたいと思います。何も記されていないということが、決定的に重要です。
 つまり、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』、もっと省けば『わたしについて来なさい』これだけです。
 何故、何を目的として従ったのか、招きを受けた弟子たちには、その時に、どんな思いがあったのか、それは一番大事なことではありません。

▼ただ、『わたしについて来なさい』というイエスさまの言葉が与えられた、それが全てです。それで、十分です。何故とか、何を思ったかとかは要りません。
 その時に、弟子たちが何を思ったか、それは、良い動機に基づくものであれ、逆であれ、本質的なことではありません。
 イエスさまの言葉が示された。イエスさまのみ心が示された。それ以上のことはありません。

▼このことが、アブラムの出来事にもぴったりと重なります。
 2~3節の約束が与えられたから、アブラムが、これは得策だと考えて従ったという話ではありません。
 一応、その約束を見ます。
 『わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、
  あなたの名を高める/祝福の源となるように。
3:あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。』
 これが、漁師の場合だと、『人間をとる漁師にしよう』に相当します。
 しかし、ペトロが、「そうか人間をとる漁師になれるのか、だったらついて行こう」などと考える筈がありません。
 アブラムの場合も同様で、「祝福が与えられるのか、なら旅立つことにしよう」などと思う筈がありません。

▼そもそも、さっきお話ししましたように、11章には、バベルの塔の物語が記されています。ここに、こういう言葉があります。
 『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。
そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った』
 これが悪とみなされたのです。ために、バベルの塔は崩壊しました。
 ですから、アブラムは神から出世を約束されただから旅立ったというように解釈することは出来ません。

▼4節。
 『アブラムは、主の言葉に従って旅立った』
 これです。何かが得られるからではありません。『主の言葉に従って』これだけなのです。
 最初に、11章以前には、神とアブラムの間に事前に何もなかったと申しました。その通りですが、しかし、11章に、その前にも、アブラムの出来事と深く関わる出来事が記されています。
 バベルの塔もその一つです。
 つまり、バベルの塔では、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った』このように、人間の欲望が、綺麗に表現すれば、目的意識がありました。そして、それが神さまの御旨に適うかというような発想は全くありませんでした。

▼4章のアベルとカインの話でも同様です。神さまは何故、カインの捧げ物を喜ばなかったのか、それは、カインの中に神さまに喜んで貰うという思いがなかったからです。それなのに、神さまがアベルの捧げ物を喜んだら、カインはそのことが面白くなかったのです。
 これこそが人間の罪です。神さまの思いではなく、自分の思いで行動していながら、神さまに評価して貰えないと、つまり、上手く運ばないと、不満なのです。
 教会生活でこんなことがあったら大変です。首尾が上手くいかなくて、不満を言う前に、本当に神さまのために、教会のためにと思って行動したのか、それとも自分のやりたいように行動しただけではないのかということが、問われます。

▼4節の後半。
 『アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった』
 75歳、驚きます。そこでいろんなことが言われます。アブラムの死は、175歳の時でした。普通の長寿者の倍くらいです。そこで、数字を半分にした方が妥当性があると言うのです。とすれば、この時点で37~38歳、イサクが誕生した時が、50歳、つじつまが合います。この当時ですから、50歳で子どもが与えられることは驚異的、しかし不可能ではありません。37~38歳で、今日なら青年ですが、当時ですと壮年どころか、初老の域でしょう。これもつじつまが合います。
 しかし、無用な解釈です。
 聖書は、あり得ないことが起こったと書いているのですから、それを合理的に解釈しようとすることが、既に間違いでしょう。
 それは、神さまの御旨を聞かずに、自分の志を果たそうとするのと同じことです。

▼5節。
 『アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、
ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、
カナン地方に入った』
 いろいろと想像をたくましくさせられる表現です。
 アブラムは隊商つまりキャラバンを組んで旅立ったのでしょうか。それとも、開拓チームでしょうか。それとも、侵略者なのでしょうか。
 この時点では、少なくとも、侵略者ではありません。
 ただ、『カナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った』とありますように、目的地、到達点ははっきりと記されています。そして、『蓄えた財産をすべて携え』、つまり、元に戻る気持ちはありません。失敗したら戻るなどと言う発想はありません。何故、時あります。自分の決断ではなくて、神さまの言葉に従ったことだからです。
 途中で引き返してしまう人は、覚悟が足りないからではなくて、自分の思いで始めたからです。自分で決めた始めたことなら、引き返せます。引き返すのは自由です。
 しかし、神さまの言葉に従ったことならば、神さまの命令が変わらない限り、引き返すことは出来ない筈です。

▼6節。
 『アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。
当時、その地方にはカナン人が住んでいた』
 『その地方にはカナン人が住んでいた』と言うのですから、『シケムの聖所』とは、カナン人にとっての聖所です。後々のことから言えば、異教徒の聖所です。『モレの樫の木』の『モレ』とは易者、占いをする者の意味です。『シケムの聖所』『モレの樫の木』、正にカナン人の宗教の中心地と言えます。
 アブラムは、神さまの言葉に従って、異教の地へと赴いたのです。乳と蜜との流れる麗しい地である前に、神さまに従わない異教の地だったのです。

▼7節。
 『主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」
アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。』
 他の民族が居住している土地、異教徒の聖所と考えられている場所、それがアブラムに約束されました。このことを、他民族と他宗教への侵略以外の何物でもないと批判する人がいます。
 しかし、大前提が間違っています。この土地も、この聖所も、聖所だとしてですが、カナン人のものなのでしょうか。カナン人がどのようにして、この土地に入ってきたのかは分かりません。そういう問題ではありません。この土地も、この聖所も、天地を作られた神さまのものです。

▼そうしますと、今度は、独善的だという批判が聞こえて来そうです。なかなか難しいことです。いろいろな民族がいろいろな神の声に従って、我が民族に神が与え賜うた土地だと主張し、真っ正面から対立するだけでしょう。しかし、今、例えばシオニズム運動の是非を論じようと言うのではありません。竹島問題でも、北方領土でも、南沙諸島問題でもありません。
 
▼これは、伝道と重ねて考えた方が分かり易いでしょう。
 本来は、聖書の描写があって、これを私たちの現実に重ねるのが正しいと思いますが、ここでは逆の方が、分かり易いでしょう。
 私たちが伝道を命じられている土地は、つまり日本は、自前の宗教を持っている異教の地です。
 しかし、『あなたの子孫にこの土地を与える』という神の約束の下に、私たちは伝道しています。
 それは略奪でも、侵略でもありません。アブラムの行ったことも同じではないでしょうか。

▼8節。
 『アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、
東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、
主の御名を呼んだ』
 アブラムが実際に行ったことは、7節、『現れた主のために、そこに祭壇を築いた』ことであり、8節、『そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ』これだけです。
 しかし、これこそが、『あなたの子孫にこの土地を与える』という神の約束の成就なのです。
 神が私たちに日本という国を約束して下さるとすれば、それは、私たちが、人口の多くを占め、政治や経済を握るというようなことではありません。
 私たちが、この日本の至るところに、あらゆる聖所に、教会を建てること、そこで礼拝を献げること、そういうことです。それ以外のことではありません。

▼9節。
 『アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った』
 アブラムは、約束の土地では、礼拝を献げただけで、ネゲブ地方へ向かわなくてはなりませんでした。この後、約束の地がアブラムの子孫のものとなるには、大変な回り道、遠回りをしなくてはなりませんでした。
 私たちの伝道も教会形成もおそらくは、大変な回り道、遠回りをしなくてはなりませんでしょう。しかし、それが神さまの言葉に応える業ならば、いつかはかならず成就する、それが私たちの信仰です。
 

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