神の遠大なる計画

2015年11月15日降誕前第6主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
 その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」
 「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」

出エジプト記 2章1〜10節

▼1節。 『レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった』
 何気ない文章ですが、大きな意味があります。『レビ人』とは、ヤコブの三男を始祖とする部族で、祭司となる資格を持ちます。何が重要かと申しますと、要するにここから始まる遠大な物語の主人公モーセは、レビ人の家系に生まれたということです。
 モーセによって、後々のイスラエルという国が形成されます。その最初の指導者は、祭司だということです。王や軍人によってではなく、祭司によって、イスラエルという国が形成されていきます。
 学問的な観点から言えば、このような歴史観でこの物語、少なくともこの部分が記されたということになりますでしょう。

▼2節。 『彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた』
 何故そんなことをしたのか、その理由は、この箇所の直前、1章22節に記されています。
 『ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、
一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ』
 何故、ファラオつまりエジプトの王が、こんな命令を出したのかは、1章16~17節に記されています。
 『お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、
子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」
17:助産婦はいずれも神を畏れていたので、
エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた』
 更に遡って、
 『そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、
9:国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、
我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた』

▼整理してお話ししますと、
 エジプトの地に住み着いたユダヤ人は、次第に人数を増やし、富と力を蓄えていき、ついには、エジプト王に脅威を感じさせる程に、勢力を伸ばします。
 そこで、エジプト王は、助産婦たちに命じて、ユダヤ人が赤ちゃんを産んだ場合、女の子なら助けるけれども、男の子なら、殺してしまうようにという、何とも残酷な命令を下します。

▼しかし、この助産婦たちは、神さまを恐れる人でありました。王の命令に従わず、それを咎められると、『ユダヤ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです』。こんな言い訳を言って、ユダヤ人の赤ちゃんを助けていました。
 助産婦たちは、神さまを恐れる人だったという表現が気になります。助産婦たちは、どういう神を信じていたのでしょう。普通に考えれば、エジプトの古来の神のことでありましょう。後にヨセフに顕現される神さまではないと思います。エジプトの古来の神を信じる者であっても、赤ん坊を殺すなどという行為は、不信仰、不条理なことだと考えたのでしょうか。

▼助産婦たちではらちがあかず、エジプト王は、全国民に命じました。
 『生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。
  女の子は皆、生かしておけ。」』
 恐ろしいことになってしまいました。
 男の子は殺せと言うのは、男の子は兵隊になるからです。女の子は生かせとは、奴隷・労働力として使えるからです。
 
▼丁度、そのような時に、モーセが誕生しました。
 エジプト王の命令に従うならば、モーセを殺すしかありません。『ナイル川にほうり込め』とは、そういう意味です。
 母親は、
 『その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。』
 可愛いのは当然です。自分の子どもです。
 しかし、ここでは、自分の子どもだから可愛いという意味ではなくて、器量が良い、という意味でしょう。だからこそ、後で、王女も、この赤ちゃんを助けたいと考えたのでしょう。

▼ここにヨセフの物語との共通性が見られます。『可愛い』というだけではありません。『可愛い』は、共通点を見せるための表現でしょう。
 共通点とは、死を免れたこと、その後、ヨセフ物語の時に申しましたように、人間万事塞翁が馬とでも言うべき、波瀾万丈の生涯を送ったこと、何より、そこに、神さまの遠大な計画があり、イスラエルを救うべく働かされたことです。

▼3節。
 『しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、
アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、
ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた』
 子どもを捨てなければならない母親の思いはどんなでありましょう。しかし、その思いがここに描かれることはありません。
  母親は、何故このようにしたのでしょう。
 この後どのようになるか、予測を立てて、計略として、このようにしたとは、とうてい考えられません。
 この場面を描いた絵本の中には、全てが母親の計略だったかのように記しているものもあります。しかし、一寸無理な説明だと思います。
 むしろ、このまま隠していれば、家族全員に咎めが及ぶ、姉の命だって危ないかも知れない、諦めてしまった。そのように考えるのが、普通だと思います。
 しかし、諦め切れるものでもありません。
 それが、『パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し』というようなことになったのではないでしょうか。
 もしかすると、毎日様子を見に来て、赤ちゃんにお乳をあげようとしたのかも知れません。

▼4節。
 『その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると』
 姉も矢張り諦め切れなかったのでしょう。川に投げ込み、ひと思いに殺すことなどできる筈がありません。しかし、助けることは出来ません。どうにもならない中で、ただ『様子を見てい』ました。
 何も解決策がない、手をこまねいて見ているしかない、本当に辛いことです。しかし、何の訳にも立たないようだけれども、「手をこまねいて見ている」ことこそが、愛情なのです。
 私たちの祈りも、その程度のことでしかないかも知れません。何の役にも立たないかも知れません。しかし、祈らずにはいられない、それが祈りでしょう。
 ところで母親はどうしていたのでしょう。母親にはそこまでの愛情はなかったなどということではありません。
 母親は、ここには来られないのです。あまりに辛くて、来られないのです。ワニが出てきて赤ちゃんを食べてしまうかも知れません。水が漏って、沈んでしまうかも知れません。それを直視することは出来ないのです。
 現実を直視しなければ、正しい対応はできません。しかし、現実を直視できないのも、また、愛情でしょう。

▼5節。
 『そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。
その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、
葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた』
 ファラオの王女様が、水浴びをしに来ました。そして、パピルスの籠を見つけました。
 先ほども言いましたが、これが、母親の計略だったとは、一寸考えられません。しかし、それでは単なる偶然なのかと言いますと、決してそうではありません。母親の計略ではなくとも、神さまのご計画なのです。
 そもそも、ユダヤ人がエジプトに住み着くことになった次第は、創世記の終わりの方に記されています。
 兄弟たちに焼き餅を焼かれたヨセフは、奴隷商人に売り飛ばされ、エジフトに連れて来られたのです。
 しかし、それは、結果的に、ヨセフの家族、父親兄弟を、飢えから救うことになりました。これも、遠大な神さまのご計画だったのです。

▼6節。
 『開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女は
ふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った』
 赤ん坊は『泣いてい』ました。赤ちゃんの最大の武器です。赤ちゃんに泣かれたら、もう、どうしようもありません。
 『王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。』
 王女も、助けてはいけないと分かっていたのです。しかし、『ふびんに思い』ということは、もう、赤ちゃんの魅力に負けているのです。
 「可哀想だた惚れたって事よ」、夏目漱石『三四郎』の中に登場するこのセリフはあまりにも有名です。王女は、一瞬で赤ん坊の虜になったのです。
 『その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた』。と記されています。特別に器量の良い赤ちゃんだったのです。
 神さまによって、『可愛い』という武器を与えられたのです。

▼7節。
 『そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。
「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか』
 何という機転でしょう。頭が良い、これも神さまによって、与えられた武器なのです。これも、事前の戦略で出来ることではありません。とっさに思いついたのです。しかし、ここにも、神さまの御旨があったのです。だから、ほんの子どもが、これだけの大胆な考えを思いつくことが出来たのです。
 ファラオの王女も、状況から、直ちに『これは、きっと、ヘブライ人の子です』と判断しました。頭の良い王女です。しかし、モーセの姉はそれにもまして知恵が働きました。それもこれも、神さまに用いられたからです。
 常に申しますが、献金の時に、「浄めてご用のために、お用い下さい」と祈ります。浄めて献げなければならないのは、お金よりも、人間そのもの、その働きです。逆に言えば、神さまに用いられルこと、即ち、浄められることです。

▼8節。
 『「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を
連れて来た』
 9節。
 『王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。
手当てはわたしが出しますから」と言ったので、
母親はその子を引き取って乳を飲ませ』
 何とも、不思議な結果となりました。母親は、赤ん坊の命が守られただけでも、望外の喜びでしょう。それだけではなく、自らの手で育てることが可能になりました。更に、手当まで貰うことになったのです。

▼上手く立ち回ったから得られた報償だと言うべきではありません。『パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し』たからです。根本的には解決にならないけれども、精一杯できる限りのことをしたからです。
 『姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見てい』たからです。何の役にも立たないかも知れないけれども、心配で心配で、見守ったからです。
 そして、何よりも、これが神さまのご計画だったからです。
 私たちも同様です。私たちは、『籠を用意し、アスファルトとピッチで防水』するようなことを、つまり、間に合わないようなことをし続けています。『遠くに立って、どうなることかと様子を見てい』るのに過ぎないかも知れません。建物のこともそうですし、伝道のこともそうです。あまりはかばかしい効果はないかも知れません。
 しかし、これをし続けることにだけ、可能性があります。それをしなくなったら、もう、おしまいです。

▼10節。
 『その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。
その子はこうして、王女の子となった。
  王女は彼をモーセと名付けて言った。
「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」』
 王女は、自分がモーセを『水の中から…引き上げた』と思っています。その通りかも知れません。
 しかし、本当に、そのようになさったのは、神さまなのであります。

▼『水の中から…引き上げた』
 この表現から、洗礼を連想するのは、キリスト者であれば、当然です。
 洗礼を受けた私たち一人ひとりも、『水の中から…引き上げ(られ)た』存在です。
 何故、水の中に、沈められ、『水の中から…引き上げ(られ)た』のか、それは、神さまのご用に用いられるためです。
 この時に、モーセは赤ん坊です。彼の中には、計画も何もありません。計画は、神さまの心の中にあります。

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