神は王となられた

2015年11月29日待降節第1主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

奮い立て、奮い立て
力をまとえ、シオンよ。
輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が
あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。
立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。
首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。
はこう言われる。
「ただ同然で売られたあなたたちは
銀によらずに買い戻される」と。
 主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。

いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げ
あなたの神は王となられた、と
  シオンに向かって呼ばわる。
その声に、あなたの見張りは声をあげ
皆共に、喜び歌う。
彼らは目の当たりに見る
  主がシオンに帰られるのを。
歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。
主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
主は聖なる御腕の力を
  国々の民の目にあらわにされた。
地の果てまで、すべての人が
  わたしたちの神の救いを仰ぐ。

イザヤ書 52章1〜10節

▼この箇所の主題は、誰が読んでも、解放であり、自由です。解放・自由と言いますと、私たちは、何事からも、何者からも、全く自由になるという意味に取ります。解放されたからには、自分が自分の主人公であり、何をするも、しないも自分の勝手です。それが多くの人にとっての、自由であり、解放です。

▼つい先日『そして荒野』というテレビドラマを見ました。6回の放送でしたが、録画して全部見ました。
 説教でテレビドラマを引用するのは恥ずかしい気がしますので、最小限に約めてお話しします。
 この秋紫綬褒章を受けた桐野夏生(きりのなつお)原作ですから、なかなか深い主題で、簡単には説明できません。しかも私はこの人の作品を殆ど読んだことがなく、(きりのなつき)だと思っていたくらいです。作品も作家も論ずることは出来ません。
 にも拘わらず、敢えて言及するのは、あまりにも、ぴったりとイザヤ52章に重なったからです。
 身勝手、独善的で思いやりのない夫、我が儘な子どもたちに、ぷつんと切れてしまった主婦が、突然、車で家出する所から、物語は始まります。
 家出した瞬間から、彼女は無職、生活の根拠を持たないさすらい人になってしまいます。その中で、自分を探し、解放・自由を探す物語だと言ったら、それはあまりに皮相な見方だと批判を受けるかも知れません。これは物語の一面でしかなく、もう一つの面は、被爆と、それにとことん拘泥する人々の物語です。被爆体験の物語もまた、解放・自由を探す物語に違いありません。
 とにかく、私は、イザヤ書52章と重ねてしまいました。

▼イザヤ書52章の1~6節に語られている解放・自由は、解放されたからには、自分が自分の主人公であり、何をするも、しないも自分の勝手、そういうこととは大分違います。
ここに語られているのは、バビロンの王と、バビロンの神から自由になって、自分たちの本当の神を礼拝し、彼を王として立てて、それに仕えるという話です。
 『そして荒野』もまた、同じ道筋を辿ります。解放・自由を求める旅は、真に仕えることの出来るもの、使命、仕事を求める旅に変わって行きます。
 まあ、テレビの話は仕舞いにします。

▼この箇所は、4年前にも8年前にもほぼ同じ所が日課となりました。その時には、全然気に掛けませんでした。少なくとも気に掛けた記憶がありません。しかし、今度改めて読んで、しかも、私の説教は1週飛びましたから、普段よりも1週早く読み始めたからでしょうか。この言葉が、ひっかかって仕方がありません。
 6節です。
 『それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、
わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる』
 後で詳しく申しますように、『見よ、ここにいる』が重要です。ために、『それゆえ』には、殆ど注意を払いませんでした。
 しかし一端気が付くと気になって仕方がありません。

▼前から読みます。4~5節。
 『主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、
そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。
5:そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。
わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、
  わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。
  それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、
わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる』
 何故、『それゆえ』なのか、普通の文章ならば、『しかし』ではないでしょうか。

▼順番に、詳しく読んでまいります。
 1~2節には、50年も続いた異国の地での奴隷生活から解放され、故郷に帰ることが許されるという預言が語られています。都エルサレムが、外国の軍隊の軍靴に踏みにじられるようなことはもう起こらないという預言です。
 3~5節は、分かり難い表現ですが、簡単に申しますと、こういうことです。
 神は、罪を犯したユダヤ・イスラエルの民を、懲らしめるために、異邦人の手に渡した。自分の民を奴隷として異邦人に売り飛ばしたというのではない。
しかし、その結果、周辺の国々に住む人々は、「あの神さまはなんともだらしない神さまだ、自分の財産が略奪されるのを手をこまねいて見ているだけだ。」と、イスラエルの神を、嘲っている。
  辱められた神の名を回復するために、今、イスラエルの民は、解放され、郷里に帰る自由を与えられる。その際に、何か自由の代償が要求されるようなことはない。只で捨てたのだから、今、只で取り戻す。このような論理です。
 それが『それゆえ』の意味なのです。
 
▼イスラエルが解放され、自由を与えられるのは、自分たちが耐えに耐えて試練を乗り切ったからではありません。過去の間違いを悔い改め、新しい正しい生き方に立ち帰ったからではありません。
 イスラエルの惨めで不名誉な有様に、このままでは神さまの名前が汚される、『それゆえ』、これ以上放置しては置けない。取り戻し、救わなくては、まあ、あまりに矮小化した言い方ではありますが、神さまの名前が廃れる、そのような意味合いです。

▼ところで回復される神の名前とは、それが6節で言及されています。
 『見よ、ここにいる』。これが神さまの名前です。
出エジプト記3章の神の名前と、本質的に同じです。13~14節。
 【モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたの  です』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
 14:神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、
また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』
という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと】

▼その名前の意味は、出エジプト、そしてカナンに入植し、困難を重ねて、イスラエルを建国する人々と共に、神はおられるという意味です。歴史の始まりから、歴史の終わりまで、人々と共に、神はおられるという意味です。
 勿論、この名前には、バビロンでの捕囚の50年間も、神はイスラエルの民の中におられたのだ、エジプトでも、アッシリアの侵略にシオンの丘が侵される時も、そういう強調が込められています。

▼今申し上げたような事は、日本語の解放という言葉の持つ意味とは違うかも知れません。それなら、解放の字は、取り下げても良いと思います。3節の贖いの方が適当かも知れません。
しかし、贖いもまた、日本語本来の持つ意味と、聖書とでは些末ではない違いがあります。いっそ、救出ならどうでしょう。
 それ以上に、日本語の響きと申しますか、多くの人々の考える意味合いと異なるのが、自由でしょう。聖書の自由をね日本語、日本人の感覚で捉えようとするのには無理があるかも知れません。

▼さて、後半の7~10節は、細かいことを申し上げていれば、切りがないでしょう。一方、1~6節で読んだことを前提にして貰えれば、十分お分かりいただけると思います。
7節の「良き知らせ」「良い知らせ」とは、平和と解放もしくは贖いもしくは救出、まあ、簡単に、平和と救いとの知らせであるということになります。この「良き知らせ」に相当するのが、新約聖書では、エバンゲリオンつまり福音です。クリスマスの度毎に、何度も、申し上げておりますように、福音のそもそもは、戦に勝利したこと、マラソンの起源と言われる出来事に重なります。
それから、王子が誕生したこと、これはクリスマスに重なります。そして、それを告げるラッパの音、これがエバンゲリオンつまり福音です。

▼7節。
 『いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/
あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる』
 ここでも、解放とは、救いとは、そして平和とは、真実の神が神として、正統な王が王としておられること。それに礼拝し仕えること。これを意味します。
 また、これこそが、真実の神が神として、正統な王が王としておられること、これを宣べ伝えることこそが、教会の役割です。平和を説くことが教会の使命だと考える人は少なくないでしょう。その通りです。そして、平和を説くとは、真実の神が神として、正統な王が王としておられること、クリスマスに於いて、それが現実になったこと、だから、クリスマスに出席すべきこと、これが、平和を説くということなのです。
 
▼少々脱線かも知れません。多くの教会で、クリスマス集会案内のチラシやポスターで、『クリスマスは教会で』というコピーを使います。その通りなのですが、その前は、『クリスマスはお家で』がキャンペーンになっていました。何故かと申しますと、『クリスマスはキャバレーで』が、当たり前だったからです。
 『クリスマスはキャバレーで』が、『クリスマスはお家で』になり、今、『クリスマスは教会で』。何とも複雑な思いがします。

▼昔々、吉祥寺教会の教会学校でクリスマス会の準備をしていました。壁にはテープを編んで飾り付けをし、テーブル毎に花を置いたりして、明るい楽しい雰囲気を出そうと工夫していました。
 そこへ、竹森満佐一先生が見えまして、一言、「何だね、このキャバレーみたいな飾り付けは」と、叱られました。
 居合わせた先輩神学生が、「先生、キャバレーに入らしたことがあるんですか」。これで、竹森先生は闘争心を喪失し、この飾り付けで、CSクリスマス会が持たれました。
 私たちは、キャバレーの真似、世間の偽クリスマスの真似をしてはなりません。

▼8節。
 『その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。
彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを』
 クリスマスは大いなる喜びです。歓喜の日です。しかし、それは沢山のアトラクションが用意されているからではありません。プレゼントがあるからではありません。『主がシオンに帰られる』からです。
 逆に言えば、他のことを楽しみにした瞬間に、真の喜びは陰に隠れてしまいます。

▼9節。
 『歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、
エルサレムを贖われた』
 『歓声をあげ、共に喜び歌え』その通りでしょう。しかし、このように呼びかけられているのは、むしろ命じられているのは、『エルサレムの廃虚』です。
 『見よ、ここにいる』、この神さまは、廃墟に住む人を、つまり、喜ぶべき根拠を何一つ持たない人を、慰め、励まし、『歓声をあげ … 喜び歌』わせることの出来る神さまなのです。
 私たちは、それぞれに喜ばしいことと、裏腹に不安なこととを抱えながら生きています。喜ばしいことと、不安なこととが釣り合いを取っています。やや不安の方に傾く人も、ひどく傾く人もありますでしょう。しかし、全て相対的なことに過ぎません。
 大きく傾いていても、神さまは言われます。『歓声をあげ、共に喜び歌え』
 この言葉を根拠に、不安が平安に変えられるのがクリスマスです。

▼『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい』、マタイ1章20節。
 『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた』ルカ1章13節。
 『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた』1章30節。
 『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる』2章10節。
 前後の説明が要らない箇所だけを引用しました。直截的ではなくとも、同じように不安が安心に変えられる箇所は、他にも沢山あります。

▼そして、喜びに溢れる箇所、更に、礼拝に結びつく表現があります。
 『学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
 11:家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた』 マタイ1章10~11節。
 『すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14:「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人に あれ』ルカ1章13~14節。
 これも、前後の説明が要らない箇所だけを引用しました。直截的ではなくとも、同じように喜びに溢れて神さまを礼拝する箇所は、他にも沢山あります。

▼10節。
 『主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、
すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ』
 喜びは伝えられます。人々は、福音を聞いて同じ喜びに満たされます。
 『天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、
 「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を
  見ようではないか」と話し合った。
16:そして急いで行って、マリアとヨセフ、
  また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
17:その光景を見て、羊飼いたちは、
  この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
18:聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った』ルカ2章15~18節。これが世界で最初の福音宣教です。伝道です。そして、最初のクリスマス礼拝です。
 私たちがなすべきこともこの他にはありません。

▼博士たちも、羊飼いたちも、何一つ置かれた状況は変わりません。しかし、彼らは喜びに溢れて家路に着きました。
 礼拝に出かけて来る前と、礼拝が終わってから、私たちの置かれている状況は何も変わりません。少し、お腹が空くくらいですか。しかし、私たちは喜びに溢れて家路に着くことが出来るのです。
 心から主を賛美するならば。

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