真の預言が王を怒らせた
2015年12月6日待降節第2主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)
三年間、アラムとイスラエルの間には戦いがなかった。三年目になって、ユダの王ヨシャファトがイスラエルの王のところに下って来た。イスラエルの王は家臣たちに、「お前たちはラモト・ギレアドが我々のものであることを知っているであろう。我々は何もせずにいて、アラムの王の手からそれを奪い返せないままでいる」と言った。それから、ヨシャファトに向かって、「わたしと共に行って、ラモト・ギレアドと戦っていただけませんか」と尋ねた。ヨシャファトはイスラエルの王に答えた。「わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です。」しかし同時にヨシャファトはイスラエルの王に、「まず主の言葉を求めてください」と言った。イスラエルの王は、約四百人の預言者を召集し、「わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と問うた。彼らは、「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と答えた。しかし、ヨシャファトが、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と問うと、イスラエルの王はヨシャファトに答えた。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です。」ヨシャファトは、「王よ、そのように言ってはなりません」といさめた。そこでイスラエルの王は一人の宦官を呼び、「イムラの子ミカヤを急いで連れて来るように」と言った。
イスラエルの王はユダの王ヨシャファトと共に、サマリアの城門の入り口にある麦打ち場で、それぞれ正装して王座に着いていた。預言者たちは皆、その前に出て預言していた。ケナアナの子ツィドキヤが数本の鉄の角を作って、「主はこう言われる。これをもってアラムを突き、殲滅せよ」と言うと、他の預言者たちも皆同様に預言して、「ラモト・ギレアドに攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と言った。
ミカヤを呼びに行った使いの者は、ミカヤにこう言い含めた。「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください。」ミカヤは、「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」と言って、王のもとに来た。王が、「ミカヤよ、我々はラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか、どちらだ」と問うと、彼は、「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と答えた。そこで王が彼に、「何度誓わせたら、お前は主の名によって真実だけをわたしに告げるようになるのか」と言うと、
彼は答えた。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」列王記上 22章1〜17節
▼歴史的背景や、ここに至る経緯を説明しようとすれば、大変な時間が要ります。しかし、そのことを踏まえないでは、この箇所を読むことは出来ません。そこで、必要最小限のことに絞ってお話しします。
▼イスラエルの王は、アラムを攻撃するために、ユダヤ王ヨシャファトに協力を求めます。この22章では、繰り返しイスラエルの王と記されていて、何故か名前は伏せられています。前後からして、イスラエルの王はアハブに違いないのですが、名前が伏せられるのは、イスラエル史上最悪の王と評価されていることと関係するのでしょうか。最後の死の場面でだけアハブとはっきり記されています。
▼ユダヤ王ヨシャファトは、この誘いに対して慎重に対処します。神さまの意志を探らなければならないと言って、預言者にはかります。イスラエルの王が招集した預言者たちは、開戦を是とします。イスラエル王に阿った結果です。 ユダヤ王ヨシャファトは、この預言に不安・不満を覚えます。他に預言者はいないのかと、セカンドオピニオンを求めます。
イスラエル王は、いるにはいるが、とんでもない奴で、耳障りなことしか言わないと答えます。ユダヤ王にたしなめられて、この預言者ミカヤを呼び出します。
▼その辺りは、大事なところですから、直接引用します。
13節。
『ミカヤを呼びに行った使いの者は、ミカヤにこう言い含めた。
「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。
どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください。」』
これはおよそ、預言を聞く者、神の言葉を求める者の姿勢ではありません。答えは自分の方で用意していて、その根拠になる言葉を得ようとしているのです。
現代の日本でも、同じようなことが起こるから、困ったものです。都合の良い、検査結果を、学者に求めるようなものです。これに応じて、偽のデータを提出するというような話が、今氾濫しています。
現代の日本が偽預言者の時代なのです。
▼14節。ミカヤは答えます。
『「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」』
当然です。これが、預言者たる者の姿勢です。
しかし、15節をご覧下さい。
『王が、「ミカヤよ、我々はラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、
それとも控えるべきか、どちらだ」と問うと、
彼は、「攻め上って勝利を得てください。
主は敵を王の手にお渡しになります」と答えた』
『「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」』と言ったミカヤの答えは、結局、偽預言者たちの言葉と同じです。
11~12節。
『ケナアナの子ツィドキヤが数本の鉄の角を作って、「主はこう言われる。
これをもってアラムを突き、殲滅せよ」と言うと、
12他の預言者たちも皆同様に預言して、「ラモト・ギレアドに攻め上って
勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と言った。』
それでは、偽預言者たちの言葉は、正しく神さまの意志を伝えていたのでしょうか。
▼預言を聞いた王、これはイスラエルの王に違いないのですが、16節。
『そこで王が彼に、「何度誓わせたら、
お前は主の名によって真実だけをわたしに告げるようになるのか」』
随分ややこしいことになって来ました。ミカヤが王の求めに応じて、王の望通りなことを言うと、王は、これに不満を感じたのです。
奇妙な話ですが、こういうことは、実際ありますでしょう。
耳障りの良い言葉、お追従を求めていながら、実際には、その耳障りの良い言葉、お追従を信じていないのです。そういう部下に対して、信頼を置いていません。
その逆に、『幸運を預言することがなく、災いばかり預言する』と敬遠どころか、憎んでいます。しかし、ミカヤの預言が正しいことを知っているのです。正しいと知っているからこそ、憎み、退けたいのです。
本当だと知っているから、腹が立つのです。
▼17節。
『彼は答えた。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように
山々に散っているのをわたしは見ました。
主は、『彼らには主人がいない。
彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」』
これが本当の預言でした。
この預言は37節の形で成就します。そこまでの経緯と申しますか、戦況は、読んで頂いた方が早いでしょう。
日課からははみ出しますが、37節を引用します。
『王は死んでサマリアに運ばれた。人々はこの王をサマリアに葬った。
38サマリアの池で戦車を洗うと、主が告げられた言葉のとおり、
犬の群れが彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。』
悲惨な結果となりました。
▼真の預言者の言葉を、内心は正しいと知りながら、自分の利益に叶わないから退け、偽預言者を取り巻きに置く、そういう王の辿った道です。
詳しくお話しすると大脱線になりますが、本来イスラエルの王とは、神さまから油塗られて、つまり任命されて、国を治めるという大事な役割を与えられた人のことです。
同じように油塗られて任命されるのは、他に、祭司であり、預言者です。本来イスラエルの王とは、祭司、預言者と同様、神さまに従う立場なのです。
しかし、当時のイスラエルでは、王も、祭司も、預言者も、神の言葉に聞くという一番大切なことを忘れてしまっていました。
▼39節も、ついでに読みます。
『アハブの他の事績、彼の行ったすべての事、特に彼の建てた象牙の家、彼の建てたすべての町々については、『イスラエルの王の歴代誌』に記されている。』
ここで初めて、アハブと名指しされます。その理由は、やはり、汚らわしい名前だからでしょうか。それとも、以下に悪王であっても王、それを重んじて、ことが終わった後に初めて名前を出したのでしょうか。
この辺りのことは、正に『イスラエルの王の歴代誌』に記されていることを読めば分かります。
▼18節に戻ります。
ここも、既に日課からははみ出してしまいますが、是非一緒に読むべきだと考えます。
『イスラエルの王はヨシャファトに言った。「あなたに言ったとおりではありませんか。彼はわたしに幸運ではなく、災いばかり預言するのです。」』 ミカヤが都合の良い預言をした時には、これを嘘だろうと見破りました。そして、本当のことを預言すると、これが真実だと分かっているからこそ、『幸運ではなく、災いばかり預言する』と言って怒っています。しかし、妙に納得しています。
▼さて、これはイエスさまの時代よりもずっとずっと昔の出来事です。しかし、現代にも通じるものがあります。
私たちの心の中にも、イスラエルの王のような思いが存在するのではないでしょうか。私たちは、耳障りな言葉、しかし、神の言葉に、素直に従うことが出来るでしょうか。
むしろ、阿り、自分に都合の良いことを語ってくれる人の言葉を受け入れ、正しいことを言う人を嫌い退けるのではないでしょうか。
その辺りを、ひるがえってみて、初めて、この箇所を読んだことになるのではないでしょうか。
▼この頃、暗いニュースが多いと感じます。うんざりして、途中でチャンネルを変えてしまいます。新聞も、深刻な話は読みたくありません。ドラマも深刻なものは見る気になりません。無理矢理でも、こじつけでもハッピーエンドを歓迎します。詩人の伊東静雄は、映画がハッピーエンドでないと、料金を返せと怒ったそうです。その気持ちは良く分かります。
しかし、現実は現実です。真実は真実です。
▼先月、『みすず書房』社長の講演を聴きました。『みすず書房』は、決して大きな出版社ではありませんが、素晴らしい本を出している会社です。何しろ、『シュテファン・ツヴァイク全集』は、ここから出ています。社長にも愛読書だそうです。しかし今は絶版、残念なことです。
それはともかく、『みすず書房』が利益は薄くとも良い本を出して来られたのは、大ロングセラーを持っているからです。それは、『夜と霧』です。ナチスの収容所が舞台です。悲惨な話です。しかし、人の心を打ち、ずっと読まれ続けています。
真実だからです。隠しようもない真実、隠してはらない真実だからです。
▼ナチスを描いた本は、嫌いだと言いながら、随分沢山読んでいます。嫌いだと言いながら惹かれるし、読まずにはいられません。矢張り、そこには真実が存在するからです。
最近も、『フェリックスとゼルダ』という児童書を読みました。その続編も読みました。児童書なんですが、何とも悲惨な物語です。正視できないような場面が連続します。それでも、読んでしまいます。真実だからです。
たとえ児童書でも真実は真実、夢や希望に満ちた本も結構ですが、それだけでは、本当には子どもの心を育てることは出来ないでしょう。
▼さて、今日は、アドベント第2週の主日です。クリスマス目前です。何故、アドベントに、列王記上22章なのでしょうか。クリスマスを待ち望む時にふさわしいでしょうか。今日の箇所はまだしも、この前後には、クリスマスの平和、愛には、およそふさわしからぬ出来事が綴られています。
それも、真実だからです。
クリスマスとは何か、イスラエルの真実の王の誕生物語です。その真実の王は、王ならぬ王、王にふさわしくない王の歴史の中に誕生したのです。
▼以前にお話ししましたが、私は、クリスマスに、イザヤの苦難の僕の箇所で説教して、教会員も含め大半の人に、嫌われたことがあります。
そして、クリスマスにはクリスマスらしい話をして欲しいと、注文を付けられました。
しかし、クリスマスにイザヤの苦難の僕の話をすることは、全然奇矯なことではありません。むしろ、是非とも、必要なことであります。
しかし、多くの人は、ややもすると、教会員まで、クリスマスには、美しい、優しい物語を求めるのです。
現実は、王ならぬ王、王にふさわしくない王の歴史でした。その中に誕生したのです。
▼アドベントに入って、アチコチ、美しいイルミネーションに飾られています。私は殆ど見たことがありません。毎年今年こそはと思いますが、果たすことが出来ないでいます。
それで悔しいから言うのではありません。
▼勿論、不幸や災いを伝えることを喜んではなりません。
しかし、真実は、伝えなければなりません。イルミネーションは綺麗だし、人の心を楽しませるし、結構なのですが、しかし、イルミネーションはイミテーションに過ぎません。真実の福音の光を見ずに、イルミネーションで充足しているのは、本当は不幸なことです。
イルミネーションの輝きは一時のことです。本当に人の心を慰め、平和にしてくれるでしょうか。そんな期待は出来ません。
▼私たちが期待すべきは、真の光、真の言葉です。
ヨハネ福音書1章4~5節を読みます。
『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5:光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。』
本当の光を理解しない時代は、暗闇の時代なのです。